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今朝、祖父が亡くなった。

夜になるとやはり思うことがたくさん溢れ出てくる。

今夜は祖父のことを思い出して色々書き記しておこうと思う。

私の父と母は共働きだった。
ほぼ毎日母方の実家に預けられて面倒を見てもらっていたので、私はほとんど祖父母に育てられたと言っても過言ではない。

そんなわけなので私は非常にジジコンババコンの極みなのである。
祖父母も大変に私のことを可愛がってくれていたし大変に甘やかされていたと思う。
なんせ怒られた記憶が全くないのだ。
そりゃあこんな天真爛漫な人間が出来上がるわけである。

ちなみに私の本名「麗(うらら)」は祖父がつけてくれたものである。
春の陽気のように天真爛漫に育って欲しい、という願いをこめたらしいが、その願いはどうやら叶いすぎてしまったようだ。

祖父はクラシック音楽が好きで、オーディオにも凝っていて、コンサートにもよく足を運んでいた。
祖父母の家には常にクラシックのレコードがかかっていた。

私が中学の時にオーケストラ部に入った時はそれはもう喜んで、いろんなCDも貸してくれて、レコードもたくさん聴かせてくれた。
おじいちゃんの留守中にも、レコード好きなだけ聴いてもかまへんで!って言われたので勝手に聴き漁った。
当時の私にはまるで宝探しみたいだった。
シチェドリン版のカルメンのレコードを発見して初めて聴いた時はパーカッションが激烈にカッコよくてめちゃくちゃ興奮したのをよく覚えている。
少し話がそれるが、その宝探しの最中、棚びっしりのレコードにまぎれてオトナな写真集をふと見つけてしまったことがある。とんだお宝だった。年頃の少女なりに複雑な気持ちになりつつ、そっとそのお宝を元の場所に戻したことは、祖母にも母にもいまだに言えないでいる。

オーケストラプレイヤーになりたいと京都芸大に入学した時もとっても喜んでくれた。
やはりそこに至るまでには祖父からの影響は間違いなくあったし、いつかプロのオーケストラで演奏する時には祖父を招待するのだと決めていた。
プロではないけども、京都芸大の定期演奏会とか、京都市ジュニアオーケストラや、その他にもアマチュアオケに客演した時も、ほとんどいつも聴きに来てくれていた。

しかし、学生時代はなんせパッとしない劣等生で全然プロオケの現場を踏むことができなかった。
そこから大学を中退して、20代前半の頃は少しではあるがプロオケの現場に呼ばれるようになったが、大阪や他の地方の現場ばかり。
そして何故か京都の現場は皆無で、祖父を呼ぶことは叶わなかった。

そうしているうちに私はクラシックの現場から少し距離を置いてカホンに傾倒するようになった。
「箱なんか叩いててホンマに仕事になるんか?」と、祖父は家族の誰よりも最後まで私の音楽活動に懐疑的だった。

でも、どうにかこうにかここ数年で、宝塚のエキストラや音楽教室での講師など、ちゃんとしてそうな感じに聞こえるお仕事をいただけるようになって、ようやく祖父にも安心してもらうこともできた。

去年の春、京フィルの定期に初めて乗ることができた。ハイドンのミリタリーシンフォニー。祖父もよく聴いていた作品だった。
やっと招待できる!と思ったのだが、もうその時には祖父母は京都コンサートホールに出向くことすら出来ないほどに足腰が弱くなってしまっていた。
この時ほど、自分が大変な遠回りをしてしまったことを悔やんだことは無い。いや、きっと一生このことは後悔し続けるのだろう。本当に不甲斐ない孫だ。

今年に入ってから、祖父が「ワシが死んだら~」といった話を頻繁にするようになった。足腰は弱くなっていたけれど、よく喋るし全然ボケてないし食欲もあって元気そうに見えていたから、まだ先の話だ、縁起でもない、と私はあまり聞かないようにしていた。ずっとずっと何年も未来の話だと思いたかったのだ。

きっかけは祖母の入院だった。
先月の頭から骨粗鬆症が悪化してしまい歩くこともままならず、痛みも酷くてどうにもならない、ということで入院となった。

祖父は家事が全く出来ない人間だった。
この年頃の男性はほとんどそんなものだろう。
なので母が面倒を見て、ちょいちょい父と私も手伝うという形で祖父のサポートをした。
しかしどうにもいろんなことが祖母でないと居心地がよくなかったのだろう。
毎日の朝食の目玉焼きの絶妙な焼き加減は祖母でないと分からなかった。他にもあげるとキリがないが、そういったいつもの生活との違いがいくつも重なって、そのストレスがいけなかったのか、祖父もあっという間に体調を崩し、入院となってしまった。

その後、祖母はメキメキと回復したが、祖父は入院してからみるみる間に弱ってしまって、あっという間に逝ってしまった。
なんとしてでも祖母を見送りたくなくて、なんとしてでも祖母より先に逝きたかったのだろう。寂しがり屋もこじらせると人は死んでしまうのだということが分かった。

枕経をあげてもらったあと、お通夜まで少し時間があったので、斎場でかけるBGMのためのCDを探しに祖父母の家に行った。
祖父の一番好きな作曲家が分かれば話が早かったのだが、結局どの作曲家が一番好きだったのか分からずじまいだった。それくらい祖父のコレクションは多岐に渡っていて、膨大な量だったのだ。
私の好みで、バッハがいいかな、と一瞬思ったが、祖母が以前、バッハはなんかちょっと生理的に無理、って話をしていたことがあるのでやめておいた。
CDラックの前であれでもない、これでもない、と1時間近く悩んで、結局ミッシャ・マイスキーの「Adagio」というアルバムにした。
マイスキーのチェロの音がなんとなくおじいちゃんに似合っているような気がしたのだ。
今夜はおじいちゃんのそばでずっとこれをかけておくことにした。
喜んでくれるだろうか。
「ちょっとワシが思ってたのとちゃうんやけど、麗くんが選んでくれたからこれでええわ、がはは」と笑ってくれるだろうか。

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おじいちゃん、ありがとう。大好きでした。

おじいちゃんのように朗らかで、おじいちゃんのようにカッコよくて、おじいちゃんのように優しくて、おじいちゃんのようにちょっと抜けてて、おじいちゃんよりも多少は家事ができる人と結婚したいと思っていますが、なかなか見つけられそうにありません。不孝な孫でごめんなさい。

どうか安らかに。

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