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はじめての100マイルへの道     〜その1〜

2023年1月10日火曜日。
今日はロードのトラック練習会の日だ。
この時期の夜は風が強くて、ひとりで夜ランをしている時も心が折れそうになる。
でも今夜は同じ時間を同じ場所で過ごすメンバーがいる。
今夜も走ろう。そう思いながらこちらを書いているよく晴れた午後。
そして今までのことを振り返り、長い間自分の胸の中に閉じ込めていたものをやっと表に出して書くことができたな、そんな記念となる日にしたい午後。

51歳。橋本病とひどい飛蚊症、ポンコツ。
職業はキラキラしているかもしれないけど実際はキラキラとは全く無縁。
いつなにかが起きて忘れちゃうかもしれないから文字に残しておきたい。そんなの私の長い長いつぶやき。

2023年4月21.22.23日に開催されるウルトラトレイルマウントフジに出場することになった。
2020年の優先権の権利が今回で失効。そのため私は心を決め、エントリーをした。

はじめてこのレースを間近で見たのは2014年の4月。私の誕生日の日だった。
2013年12月29日。とあるきっかけがはじまりで、この年の暮れに走ることをはじめた。
(過去の記事→走ることについて書こうと思うhttps://note.com/urara_skywalker/n/n665c8bcdd14a  その3とその4をご覧ください)
そこから4ヶ月後のこのレース。当時みんなの憧れだったこのレース。一体どんなものなのか見てみたいと、初心者数人で夜中に出発し、わくわくしながら河口湖大池公園のフィニッシュ会場に向かったものだ。

河口湖に向かう途中の車中、山にキラキラとなにかが光っているのを見た。
その光は列を作り、龍のように動いている。
一緒に向かっていたひとりが、
「すごい!選手の人たちのヘッデンだよ、あれ!」
と興奮しながら叫んだ。
はじめて見る光景。
選手たちのキラキラと光るヘッデンは、まるでなにかの美しいアートのようだった。
初心者の私たちは興奮しながら、はじめてのウルトラトレイルマウントフジに盛り上がっていた。

フィニッシュ会場に到着すると、会場はたくさんの選手やご家族、応援、サポートの人たちで賑わっていた。

はじめて見たUTMFのフィニッシュゲート


何人かの知り合いに会い、話しまくってめちゃめちゃ盛り上がった。
そして次々とフィニッシュゲートに飛び込んでくる選手たちのフィニッシュを見て、私たちは感動していた。

ちょうどその時、知り合いの女性がフィニッシュゲートに飛び込んできたのが見えた。
はじめてのトレイルランニングでゆみちゃんに連れていってもらった相馬さんのツアーで一緒だった女性だ。
私は思わず駆け寄り、
「おめでとう!おめでとう!」
と何度も何度も言って彼女の身体に触れた。
彼女の身体は冷たく固く冷えきっていた。
でも身体から発しているなにか湯気みたいな熱を感じた。
そして彼女はキレイだった。
眉毛も消えてなくなっちゃってたし、顔も汚れていたけど、でもなんていうのか、すごく、すごくキレイだった。

「ありがとう!ありがとうね!ゆーこちゃんも頑張ってね」

そう言われたのを覚えている。
私はアハハ、と笑い、彼女を見送った。

いつかこのフィニッシュゲートをくぐるんだな。
私はそう感じていた。

感動した2014年のフィニッシュゲート。
そしてピース笑笑。


そこから数年、少しずつ走れる距離を増やし、出場するレースも少しずつ難易度を上げていった。
そしていよいよここからが本当のスタートだな、そう決めていた2018年4月のSTY92k。
スタートは私の誕生日だった。
自分自身へ最高の誕生日プレゼントを贈る。
そして次はUTMFだな。
私は勝手にそう決めていた。

まずはやっとSTYに出れるという喜び。
それなりに練習も準備もしてきた。だから不安もあまりなかった。
完走すると信じていた。
しかし人生とはなかなかうまくいかない時もあるもので、私はそこで思いがけない怪我をしたのだ。

ちょっとだけ緊張してスタート。
林道を進む。
左側に先輩が誘導をしていて喝を入れられた。

そして忘れもしない、そのあと、スタートから実にたったの5キロ付近。
突然味わったことのない右脚の痛みに私は脚を止めた。
なにが起きたのかわからなかった。
ふと前の月にフルマラソンの練習をしていた時に脚を痛めてしまったことを思い出す。。

慌ててロキソニンを取り出し急いで飲んだ。
しかしそこからも痛みに顔が歪み動けない。
ちょうど知り合いの女性ランナーが
「ゆーこさん大丈夫ですか?」
と声をかけてくれた。
「ごめん、ロキソニンとか痛み止めたくさん持ってるかな?」
彼女が医療関係者なのを知っていたから必死だった。
「あります、あります!ワンシート以上持ってるんでどうぞ!」
ありがたく彼女から痛み止めをたくさんもらい、無我夢中で結構たくさん飲んだ。
ああ、ちょっとなんだよこれ!早く痛みおさまってくれ!

どんどん他の選手に抜かれ、関門の時間などが気になりだした。
しかし脚は動かなかった。
なんとか歩きながら最初の粟倉に到着し、まだまだ時間があったため、脚を引きずりながら次の富士宮まで歩いて向かう。
頭がパニックになって私は泣いていた。
ゼッケンを止めていた安全ピンをゼッケンから外し、痛む脚をチクチク何度も刺した。
うっすらと血が出ていた。
でも痛みは止まらなかった。

富士宮に到着。アウトの関門までは何時間もあった。
エイドスタッフにちょうど知り合いがいた。
「どうしたんですか?」
「脚が、脚が動かない」

ここは私もよく行く山塊、ほぼホームグラウンドだった。
ここから夜の天子山塊へ突入する。
このレースで最初の難関の山域だ。
私はこのコースをよく知っていた。
「ここから天子に登れても熊森を降りてこれるかわからない」
私は泣きながら何度も何度もそう叫んでいた。

コースをよく知らなかったら、「行けるところまで行きます!」と伝えていただろう。
しかしいつも仲間と行っているコースだ。ここからどんなコースなのか私はよく知っていた。
このあとの展開が頭をよぎる。。
この状態であのコースを、つまり、天子、長者、熊森、を行ったら、この夜に自力で降りてこれる気がしなかった。
レスキューになるかな、スタッフ、ボランティアは知り合いだらけ、あの人にもこの人にもみんなに迷惑をかけるな。。
こういったいろんな大会はスタッフ、ボランティア側にいることもあるから状況を読んでいた。
いろんな思いが一気に頭を駆け巡った。

「どうします?時間はたっぷりありますが行きます?」
スタッフが伝えてくれる。
うーーーん。。。
何十分間も私は考え続けた。
その間にこの脚の痛みが消えておさまらないかと祈りながら。。

「やめます。降りてはこれないと判断しました」
私はスタッフにそう伝えた。
アウトまでまだ2時間あった。
悔しさで涙が溢れ、人目もはばからずおいおい泣いた。

その後、友人が迎えに来てくれ、私は友人に回収してもらった。
富士宮にはまだまだ選手が到着してきていて、みんな希望に溢れていた。

河口湖でドロップバックを受け取り、脚を引き摺りながらとぼとぼと歩いた。
情けなさで胸がいっぱいになる。
ふと顔を上げると、そこには美しい富士山の姿があった。

友人に回収してもらいながら見た富士山


そこから1年3ヶ月後の2019年7月。
STYからどれだけの努力をしたことだろう。
ああ、STYで5キロで脚終わった人ね、などと言われ辛かった。
私は怪我を回復させるために復帰するために、本当にありとあらゆることをしていた。
とにかく必死だった。
もうこれでもか、くらいの治療、ケア、トレーニングを重ねていた。
できることはなんでもやった。
そして私はONTAKE100に出場した。

万全だった。
迎えた深夜0時スタート。
土砂降りでレインウェアのフードを雨音が伝う。
多少の不安はあったが、それよりも怪我を克服できて出場できている喜びでいっぱいだった。
やっと完走できる。
そう信じていた。

夜が明けてうっすらと明るくなってきた50k地点。
忘れもしない、コース左側に「50k」の看板があった。
コースの右側には眠気からなのか男性が座り込んでいた。
「大丈夫ですか?」
私は声を掛け、男性も大丈夫です、と答えた。
降り続ける雨。林道に溜まっていた水たまりにずぶずぶ入るのも飽きたな、私はそう思い始めていた。
ONTAKEは修行のコース。走る修行とも言われている。
単調な林道コースに飽きてきていた私は、目の前にあった大きな水溜まりをぴょん、と飛び越えた。

次の瞬間。
着々と同時に、右膝裏からハムストリングにかけて
「ブチッ!」
と音がしたのだ。
「えっ???!!!」
思わず大きな声が出た。
私の声に、座り込んでいた男性が驚いてこちらを見た。

私はそのまま倒れ込み、大きな水溜まりに浸かっていた。
何が起きたのかわからなかった。
次に、グワーっと凄まじい痛みが右膝裏からハムストリングを襲ってきた。
「嘘でしょ!今、ブチって切れる音がしたんだけどーーー!!!」
私は叫び、今度は座り込んでいた男性から大丈夫ですか?と声をかけられた。

「大丈夫じゃないです!うわー、どうしよう!」
気が動転していた。パニックだった。
そしてそこから20分から30分くらい水溜まりに浸かったまま、私は動けなかった。
しかしこのレースはスタッフがいない。
携帯の電波も入らないエリアだった。
救助も呼べなかった。
次のエイドまでは7k。
しかし距離表示がアバウトで有名な大会であるため、本当は7kよりもっとあるのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
横を通る何人かの選手が声をかけてくれた。
「大丈夫じゃないです。でもどうしようもないんで。。」
自分で歩いていくしかなかった。
「先に行って次のエイドのスタッフに怪我人がいること伝えます!」
女性ランナーがそう言ってくれた。
「ありがとうございます!」
私は泣きながら、おそろく靭帯かなにかが切れてしまっただろう右脚を引き摺りながら歩くことにした。
冷たい雨が身体をたたき、メンタルも何もかもが崩壊して死にたくなった。

どれくらい歩いたのだろう。
その間、スタッフもいなければ携帯の電波もない。
すっかり明るくなっていた。
何時間も何時間も歩いてエイドには到着したが、電波のないこのエイドには、無線機を持ったスタッフが2人だけ。
そしてエイドにはわずかな水しかなかった。
「ああ、怪我された方ですね。大丈夫ですか」
なんでも回収の車が到着するのは2時間後。
身体がどんどん冷えてきて、私はエマージェンシーシートを取り出した。

それから2時間後。
荒れた林道を軽トラックだったと思う、到着した車に乗り込む。
「怪我した人が助手席ね」

そこから2台、合計3台の車を経由して、かなり時間をかけてスタート地点に戻った。
スタート地点到着後はすぐさま医療スタッフの元へ運ばれた。
「ああ、多分前十字ですね」
そう言いながら脚を包帯でぐるぐる巻きにされた。
「この地域は田舎なので休日やっている病院はありません。他の市町に行くか、なんとかして地元に戻っていただいてすぐ病院へ」
そう伝えられた。

スタート地点に戻り救護を受けた
ぐるぐる巻き

なんということだ。。
ここからどうしよう、仕事はどうしよう、あれは、これはどうしよう。。
そんな想いでいっぱいだった。

2019年7月。
そこからポンコツな私の長い長い苦難の道がはじまったのである。

〜続く〜

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