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いのち

久しぶりの投稿である。
写真は先日詣った神社にあった花手水。
コロナ禍にあり、手水舎自体を稼働させていない神社も多いが、ここは柄杓がないだけで水も出ていた。
寺社仏閣巡りが好きだが、コロナ禍であること、仕事柄外出も控えていることで趣味の幅が狭くなっている。
緊急事態宣言は終了したが、果たして本当にコロナは収束しているのか。
自分の身を守れるのは自分だけ、と再確認しつつ、コロナの収束を祈る日々である。


さて、タイトルの「いのち」。
皆さんは、いのちと聞いて何を思うだろう。
生命、心、魂、儚いもの、人や動植物そのもの。
いのちには色々なイメージがあるだろう。
私は「すべての生き物に等しくひとつずつ与えられていて、必ず終わりがあるもの」だと思っている。
そのほか、生き様、人生といった意味合いもあるだろうか。
人間も、動物も、植物も、生物はいつか必ず死ぬ。
死の定義にもよるが、死亡率は100%である。

私は看護学生の頃に高校の友人が2人なくなった。
1人は自死、1人は髄膜炎だった。
看護師になってすぐに伯母ががんで亡くなった。
伯母を追うように、3年後に伯父も不整脈で亡くなった。
その5年後に、4歳年上の従兄が脳腫瘍で亡くなった。

仕事柄、亡くなる方をみることもある。
死は特別なことではなく、その人の生きている道の果てに待っている。
先日の祖母の妹も含めると、物心ついてから見送った人数は少なくはないと思う。
誰かと比べるものでもないため多いとも言えないが、
少なくとも、私が死生観を深めたいと思うには充分すぎた。
誰しも迎える終末期において、その人らしく、最期まで可能な限り安楽に過ごしてもらいたい。
新人、いや、看護学生の頃から漠然とではあるがこのように考えていた。

臨床経験が10年を超え、看取った方は数えきれない。
すべての人にその人が歩んできた歴史があった。
亡くなられた方とご家族との関係も様々であった。
その人の在り方、生き様が終末期にはあらわれる。
たとえ意識レベルが低下して自分では声すら出せなくなってしまっても、その人にとって苦痛がなく、可能なら大切な人や大切なものに囲まれている中で過ごしてもらいたいと思っている。
そしてその人らしく過ごせるように援助をすることが好きだ。
担当ではなくても、亡くなられた方がいたらすぐに部屋に行く。
必ず、お疲れ様でした、と労いの声をかける。
ご家族が落ち着いているようであれば、入院中の穏やかな様子やご家族について話していた内容などをお伝えして、少し思い出に浸る。
タブー視されている「死」に踏み込んでいきたいと思っている。
そこで、今年 終末期ケア専門士という資格を受験することにした。
これまでは臨床知のみだったが、改めて理論的なことを勉強している。
テキストを読むだけで涙が出そうになることもある。
ここで得た知識を活かして、私が看取る人にはその人らしい穏やかな最期を迎えてもらいたいと思う。

私もいつか必ず死ぬ。
あなたもいつか必ず死ぬ。
memento mori.
いつか死ぬことを忘れてはならない。

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