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0.はじめに

「ゆる言語学ラジオ」の姉妹企画「ゆる学徒ハウス」、その二次選考動画が続々と公開されている。自分の動画が公開されるのはまだまだ先のことと安穏としていたら、いつの間にかぬるっと公開されていたようだ。

前回は「バイ菌」という、医学用語と呼んでよいのか微妙な言葉を取り上げたが、今度は「肺」である。
多少医学用語らしさは出てきたものの、やはりこれも一般語彙として通用する語であり、「医学用語学」などと冠するには役者不足の感が否めないが、今回も「ゆる医学用語学」である、ということで一つご諒恕いただきたい。

そんな「肺」であるが、前々から不可思議な言葉だと思っていたので、その不可思議さをこうして世に問う機会を得られ、大変喜ばしく思っている。

1.ハイ or シ

さて、まずはこの「肺」という漢字の話をしたい。
詳細は動画内で語っているのでここでは簡潔に述べるが、「姉」「柿」といった同じつくりを持つ字は「シ」と読むのに、「肺」は「ハイ」である。なぜこのような読みの違いが発生しているのか?
ここで、「柿」によく似た「こけら」という字を見てみよう。本当によく似ているため、この二字はしばしば同一の字と誤解されることがある。じっさい、iOSの漢字変換では「こけら」と入力して「柿」も「杮」も候補に出る。
しかし、よく見ると微妙な違いがあり、「かき」はつくり上部の点と下の縦棒がつながっていないが、「こけら」ではつながっている。つまり、こけらかきより画数が1画少ないのだ。
そんな「こけら」だが、実はこの字を音読みすると「ハイ」になる。つまり、「肺」という字は「かき」の仲間ではなく「こけら」の仲間なのだ。
手元の漢字辞典を参照すると、いずれの辞書でも「肺」の総画は9画となっている。つくりの点と縦棒をつなげない書き方の画数だ。(『漢辞海 第三版』『漢字源 第四版』『漢字典 第二版』『漢検漢字辞典 第二版』)
ただ、このうち『漢辞海』『漢字典』では異体字として8画の「肺」も載っている。もともとはそちらの書き方が正式だったのだ。
みんなが誤用していくうちにそっちが定着して正しいことになってしまう、という現象が言葉においてしばしば見られる。例えば「新しい」はもともと「あらたし」であり、「あたらし」は「あたらし」という別語であったのが、平安時代あたりから混用されるようになり、「あたらし」という誤用がついに定着してしまった——という話などがよく知られている。これと同様のことが、「肺」という漢字にも起きていたのだ。
なお、最大の漢和辞典である『大漢和辞典』には、「肺」は8画の字、つまり本来の字形で収載されている(9画の方は載っていない)。また、中国語では現在でも「肺」を8画で書くようだ。

【参考】
肺 - ウィクショナリー日本語版

肺 - ウィクショナリー中国語版

2.肺 or 肺臓

次に見ていきたいのは「肺」と「肺臓」についてである。
一般に肺は「肺」と呼ばれる。古い時代の本などを見ると「肺臓」という表記も見かけるが、現代ではあまり見ることがない。
試しに現代日本書き言葉均衡コーパス(https://shonagon.ninjal.ac.jp/)を検索してみよう。すると、「肺」3475件に対し「肺臓」は17件しかヒットしない。言葉を少し変えて「肺の」「肺臓の」あるいは「肺が」「肺臓が」、「肺炎」「肺臓炎」などでも比較してみたが、おおむね「肺」と「肺臓」では2桁ほど使用例に差があると言ってよさそうだ。
他の臓器、心臓・肝臓・膵臓・脾臓・腎臓ではこのような現象は見られない。
臓器の話をするのに「臓」を省くのは医療従事者くらいのもので(*脚註)、一般的には臓器の名称には「臓」つけるのが通例だ。
——なぜ、肺だけが例外なのだろう?
そして、これに関連して肺だけが例外となる要素がもう一つある。それは、「臓」を省略したときのイントネーションだ。
文章でイントネーションの話をするのは少々難しいのでぜひ動画をご覧いただきたいのだが、簡単に言えばこういうことである。例えば「心臓」を「心」と言うときを考えよう。このとき「心臓」のアクセントは平板型だが、「心」のアクセントは頭高型になる。他の臓器も同様なのだが、「肺臓」と「肺」だけは、どちらも平板型となるのだ。
——いったいなぜ、肺だけがここまで例外となるのだろう?
明確な解答はないが、興味深い問いなので自分なりに考察をしてみようと思う。

3.臓器界の富士山 -人々の意識に宿る特別な臓器-

ここで突然だが、山の名前について考えてみたい。
富士山、高尾山、槍ヶ岳、阿蘇山……。いろいろな山があるが、ここでは名称に「さん」がつくものを考えよう。
高尾山を例にあげてみる。人名で「高尾さん」というものがあるが、「高尾さん」と「高尾山」ではイントネーションが異なるというのがお分かりだろうか。これはあらゆる人名、山名に当てはまる規則で、動画中でも堀元さんに山になってもらうという思考実験(?)を通じて「堀元山」という架空の山名のイントネーションが「堀元さん」という人名とは異なるものとなることを確認した。
しかし、この規則には一つの例外がある。
それが「富士山」で、人名の「富士さん」とイントネーションが同じになる。厳密に言うと人名の「富士さん」には他のイントネーションもあり得るのだが、この場合は山の「富士山」でイントネーションの変化が起こらない、という点に着目していただきたい。さらに註釈をしておくと、『三省堂アクセント辞典』によれば「成田山」も「成田さん」と同じイントネーションになるらしいのだが、西日本民である私には「成田山」がピンとこないし、どうやら「成田山」は山の名前というより寺の名前っぽいので、ここでは強引に「富士山だけが例外!」ということにして話を進めていきたい。
さて、先ほど「肺だけがイントネーション規則の例外」という話をした。つまり、肺と富士山のアナロジーが成り立つ。肺とはすなわち、臓器界の富士山なのだ。
強引で荒唐無稽な主張だと思われるだろうか。しかし、肺と富士山の共通点はこれだけではない。富士山といえば日本最大の山、そして肺は人体最大の臓器なのである(体積ベース)。
そもそも、なぜ富士山はイントネーション規則を外れることができたのだろう。
それは、ひとえに富士山が特別な山だからである。特別な山で、広く人々の心に浸透しているからこそ、規則を外れていても言語の使用に支障をきたさないのだ(英語の不規則活用が、使用頻度の高い基本語彙で多く見られる現象と同様の理屈といえる)。
肺もこれと同様の理由によって、例外的な語となったのではないだろうか?
そのような観点から、動画内では「肺が日本人にとって特別と言える理由」をいくつか挙げさせていただいた。
例えば、呼吸という生理機能は人間が意識でき、そして意識でコントロールが可能な唯一の臓器機能である、ということが挙げられる。他の臓器の機能では、これは成り立たない。今現在、あなたの脾臓がどのように動いているか意識できるだろうか? 肺以外ではなんとか心臓の鼓動が知覚できるが、これもリラックスして鼓動が安定しているときにはほとんど知覚されることはない。
このように、肺が人間の意識と結びついた臓器であることが、「肺」という言葉の例外的な使われ方に関わっているのではないだろうか。直接的な理由ではないかもしれないが、少なくとも要因の一つと考えることはできそうである。
また、動画内では肺病が長らく日本人の主要な死因であったということにも触れた。
2022年の現在、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)はいまだに猖獗を極めており、人々の生活に多大な影響を与えている。コロナの話題を目にしない日はなく、我々の生活の中や意識の中に、常にコロナという観念が根付いているような状況で、苛立ちを覚えている人も多いことだろう。
抗生物質登場以前の結核や肺炎は今のコロナ以上に恐ろしい病気で、多くの人々の意識に暗い影を落とし続けていたことは想像するに難くない。
このような肺病の怖さと身近さによって、肺は人々の心のうちで強く存在感を持ち、特別な地位を占めていたのではないか。そのこともまた、肺という言葉の使われ方が特別なものになった一つの要因だったのではないか。そのように考えている次第である。

4.よくわからないからこそ神秘的

動画ではおおむね上記のようなことを述べさせていただいた。
もちろん、この考察には数々の異論・反論を提示することが可能だろう。
例えば、それほど肺が特別な臓器であるなら、「肺」を使った言葉がもっとあってもいいはずだ。
辞書を引いてみても「肺」を使った言葉というのは少なく、慣用句なら「肺をさかしまにする」(声の限り叫ぶこと)と「肺肝をくだく」(心を尽くして考え抜くこと、心痛極まること)くらいしか見当たらないし、熟語も肺そのものに関するものばかりで、派生的な意味を持つものはせいぜい「肺懐はいかい」(心のうち、まごころ)があるくらいだ。そもそも「こころ」や「きも」のような訓読みが「肺」にはなく、かろうじて『日本国語大辞典』に「ふくふくし」という語が載っていて、どうやら肺の古名らしいのだが、ピンと来なさすぎて思わず笑ってしまう。
そんなわけで、1つの考察を自分なりに示しつつも「結局よくわからん」という話であり、ここまで長々と書いておいてそれはあまりにいい加減な結論なのだが、しかしそれこそが「肺」という言葉の不思議さを表しており、だからこそ言葉の探求は面白い、とも感じられる。
動画での語りもnoteでの文章も、あまりに不慣れで拙いところばかりをお見せして恐縮なのだが、少しでも言葉の面白さを垣間見たり、医学への興味を持ってくれた方がいるなら、私にとってこれ以上の幸祐はない。

* 長めの註釈

医学界では「臓」を省きがちという話について。
動画内ではとっさに良い例文が浮かばず、あたふたと見苦しい場面をお見せしてしまった。なのでこの場を借りて補足をしておきたい。
まず、聞き手の堀元さんに訊かれた「肝が良くない、とか言うんですか?」という問いである。「それはあまり言わない」としか答えていないのだが、もう少しちゃんと説明しておくと、「肝が良くない」だけだと「肝の何が良くないの?」となってしまうので、より医学的に記述するなら「肝機能が良くない」というふうになる。さらに、単に「良くない」と言うのではなく「肝機能障害が認められる」などというふうに改めれば、かなり医療っぽい言い回しになるだろう。
また、肝臓を「肝」と呼ぶ場面についても、(X線などの)写真を見ながら「ここに肝が写っている」という、なにやら状況のよくわからない例文を出してしまったのだが、もう少し自然な例文を挙げるなら「肝に腫大を認める」とか「肝の線維化が進行している」とか、そういう感じになる。
あと、カルテなどの書き言葉で「臓」を省くという話について、堀元さんから「書く手間を減らすためでは?」と言われ「そうかも」みたいな反応をしたのだが、手書きではなく電子カルテでも基本的に臓器の名称に「臓」はつけないし、学会発表や論文でも「臓」はつけないということを付記しておきたい。フォーマルな場ほど「臓」はつけない傾向にあり、例えばこれは適当に検索した論文なのだが、タイトルは以下のようになっている。
『膵の線維化と脂肪置換の成因に関する実験的研究』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nisshoshi1964/83/12/83_12_2580/_article/-char/ja/
なんとなくだが、「肝臓」のように臓をつける言い方は口語的で大衆的、「肝」のように臓を省く言い方は文語的で医学的、という感覚が医学界にはあるような気がする。

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