忘れる読書?それとも、都合よく忘れる読書術?

落合陽一の『忘れる読書』を読んで思ったこと?そりゃ、忘れるのがいかに大事かなんて、よくぞまぁ学術的に美化したものだって話だよな。俺ら一般人からすれば、毎日山ほどのどうでもいい情報に埋もれてるわけで、忘れるも何も、覚えてる暇がないってのが現実じゃないか?ま、落合氏の言う「忘れる読書」は、ただの健忘じゃなくて、取捨選択の技術だってことくらいは理解してるよ。でもな、選択するためには、まずは覚えてないといけないんだよな?だから、その前提を無視して「忘れろ」って言われても、何か偉そうに理屈こねてるだけに聞こえるんだよ。

そりゃ、世の中には自分に都合の悪いことをさっさと忘れるのが得意な人もいるさ。政治家とか有名人とか、な。彼らにとってこの本はバイブルなんじゃないの?「あ、あの失言?もう忘れたよ、次の選挙に集中してるんで」みたいにね。そう考えると、この「忘れる読書」ってやつ、何かの免罪符みたいだな。悪い記憶を消すための、都合のいい免罪符ってわけだ。実際、忘れ方を教わるなんて、現代社会では一種のスキルかもしれないな。

まぁ、忘れるのが上手な奴らが生き残るこの世の中、忘れることが悪いとは言わないけどな。でも、いちいち「読書」なんて知的行為に絡めて持ち上げる必要があるのか?結局、必要なものを覚えておけばいいだけで、それ以外は自然と忘れるもんだ。何なら俺も日々、SNSで見かけたくだらない投稿とか、テレビで流れるゴシップとか、どうでもいいことを山ほど「忘れる」努力してるしな。そりゃ大事だよ、無駄な情報は記憶のスペースの無駄遣いだからな。でも、それをわざわざ理論立てて本にするって、なんかしらじらしい感じがするんだよ。

結局、落合陽一の提案する「忘れる読書」ってのは、知識を得るために不要なものを捨てろって話だろう。でも、真面目に考えてみればさ、俺らは必要な知識だって時折忘れちまうんだよな。だから、この本の内容をしっかり覚えようと思った時点で矛盾が始まるんだ。忘れ方を覚えるために一生懸命読んで、それでも結局忘れちまう。ほら、皮肉なもんだろ?この本読んで、何か大事なことを得た気分になるけど、次の週にはもう内容がふわっと消えてる、ってことになりかねないんじゃないか?

そう、世の中ってのはこういうもんだ。都合の悪いことは「忘れましょう」、都合のいいことだけ記憶に残しましょうって。これが、現代社会の生き方の基本だよな。結局はそうやって俺らは何とか生き残ってる。忘れるってことは、ある意味サバイバルの技術なんだろうな。まぁ、そんなわけで、俺もこの本の内容、時間が経てば忘れるかもしれないけど、都合のいいところだけはしっかり覚えておくよ。

だから、忘れる読書?俺から言わせれば、「都合よく忘れるための読書術」ってとこだな。

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