20240918:『本を読んだことのない32歳がはじめて本を読む』を読む

はじめてメロスの回を読んだときは衝撃ともらい泣きではっきり覚えている。すごい読書家が現れたぞ、と。
すごい読書家という言葉からイメージするのは、蔵書が多いとか速読がすごいとか感想文が上手とかいろいろありそう。
でもそのすべてを覆す「読書をしたことがない」という前提がまずすごい。
そしてかまどさんのように脇で付き添いながらみくのしんさんの読み方をなぞっていくと、自分の読書とはなんだったのか、と今までの浅はかな読み方を反省するしかない。

いや、浅はかではないはず。
決して文章をおろそかにしたつもりはないのだけど、自分の感想を言葉にする前に次の文章へ進んでしまっていた。知人の読書家と比べて自分は読むのが遅いという劣等感がありながら、さらに読みの雑さも突きつけられると、やはり自分の読書力の低さを思い知らされる。

久しぶりにメロスの回いっしょに読んで、やっぱり泣くんだよな。
濁流を渡りきった後の「ありがたい」はメロスであり、作者であり、読者の安堵だったりとか。
ソシャゲやってても思うけど、物語への共感が強い原動力になることがあると思っていて。それは「知る」を深めていくだけかもしれないんだけど、単に情報を得るだけではない、感情が物語に沿って動いていくことを感じられるかどうかが大事なのかもなーって思いました。

外で読むときはサングラスかけてないと泣いてるのがばれるから困る。
有島武郎「一房の葡萄」初めて読むし、みくのしんさんは泣かなかったと主張してるけど、わたしは泣いた。
そもそも、こんな純朴な気持ちを子どもの頃に抱いたことがない。
持っていないものを欲しいと思ったときに本作では言葉にできないなにかが描写に込められているとしているけど、わたしの場合は「恨み」と「勝利欲」だった。持っていない自分の環境を恨み、ここで勝てないのなら自分の得意分野で勝てばいいという、自分も他人も蔑む感情が子どもの頃は強かったなと思い出した。
「一房の葡萄」は道徳的というとちょっとちがって、仲直りできる可能性を信じたいという話かなと思う。自分にはかなりまぶしい。こんな優しく気高い感情は理解できるけれども自分にはほとんど枯渇したものだと悲しくなってしまう。

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