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映画『サタデー・フィクション』         スタンバーグとヒッチコックの記憶も蠱惑的な史実と「フィクション」の入れ子構造                   森直人(映画評論家)

11/3(金)全国公開の映画『サタデー・フィクション』につきまして、映画評論家森直人さんより寄稿をいただきました。

スタンバーグとヒッチコックの記憶も蠱惑的な史実と「フィクションの入れ子構造

 ロウ・イエ監督の多彩なフィルモグラフィの中で、2019年製作の『サタデー・フィクション』は久々の歴史物だ。満州事変から第一次上海事変への流れを背景とした『パープル・バタフライ』(03)を受け継ぐ内容とも言えるだろう。あの作品、原題『紫胡蝶』では、満州で出会い恋におちた日本人の男と中国人の女が、1931年の上海で再び顔を合わせる。日本から派遣された諜報員と、抗日レジスタンス組織のメンバーとして……。この皮肉な運命に翻弄される男女を仲村トオルとチャン・ツィイーが演じた。
 そこからやがて日中戦争が始まり(1937年)、『サタデー・フィクション』の時代へと繋がっていく。当時「東洋のパリ」とも異名を取った国際都市・上海を舞台にしたスパイ映画であり、ラブロマンス。今回はモノクロームの映像が採用されたこともあり(撮影はロウ・イエ組常連のツォン・ジエン)、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督とマレーネ・ディートリッヒが組んだ『間諜X27』(31)や『上海特急』(32)、あるいはハンフリー・ボガート&イングリッド・バーグマン主演の『カサブランカ』(42)といったクラシックを彷彿させる趣も強い。そんな世界像のデザインの中、デジタルのハンディカメラの機動力を活かした長回しが、苛烈な諜報戦をめぐる人間群像の緊張感と臨場感を生々しく伝える。
 また、より端正な古典性を志向したチャン・イーモウ監督の『崖上のスパイ』(21)――これは1934年の満州・ハルビンが舞台となる――などに比しても、作劇の重層的な仕掛けが目を引く。『サタデー・フィクション』とは、劇中で上演される演劇のタイトルでもある。演出家のタン・ナー(マーク・チャオ)が待つ蘭心劇場に、しばらく香港で過ごしていたスター俳優のユー・ジン(コン・リー)がやってくる。彼女とタン・ナーはかつての恋人同士。この青年演出家は、自作の舞台でヒロインの秋蘭を演じてもらうためユー・ジンを呼び寄せた。紡績工場で起こる労働者のストライキを背景にしたラブストーリーの演劇=“劇中劇の『サタデー・フィクション』”は、横光利一の小説『上海』から着想を受け応用されたものである。
 本編の物語は1941年12月1日(月曜)から一週間、カウントダウンのような形式で進行する。まず、コン・リー扮するユー・ジンとは何者か? 世間的には大女優という顔を持ちながら、実は特定の組織に属しない凄腕スパイ。英仏の共同租界(租界は外国人が様々な特権を持っていた地区を指す)にある豪奢なキャセイ・ホテルに宿泊し、蘭心劇場のリハーサルに参加しながらも、彼女を孤児院から引き取って育てたという養父にして古書店の店主、そして連合国情報部の将校を務めるフランス人、フレデリック・ヒューバート(パスカル・グレゴリー)と再会して連絡を取り合う。果たして彼女の真の目的は? 日本軍に逮捕されたという元夫ニイの救出なのか?
 謎めいた物語の全貌はこうして少しずつ解きほぐされていく。12月3日(水曜)になって登場するのは、日本軍の通信課の将校・古谷三郎(オダギリジョー)と、その護衛の梶原(中島歩)だ。古谷は海軍暗号の隠語の更新を同胞に伝えるため、上海を訪れた。いわく、「北」はソ連。「南」はアメリカ。「東南」は国民政府を示し、「小柳」はイギリス。「泉」はシンガポール。そして「山桜」は……。
 ここから現地時間での12月7日(日曜)――ハワイのオアフ島を日本軍が奇襲した真珠湾攻撃に向けての事態が加速していく。ヒューバートは日本軍の新しい暗号を入手するため、「マジックミラー計画」を発動する。彼らと古谷には因縁があった。ヒューバートらはかつてのミッションの中で古谷の妻である美代子を誤って殺害してしまった。そして12月4日(木曜)、キャセイ・ホテルのロビーで古谷と隣り合ったユー・ジンは、なんと亡き美代子にそっくりな姿をしている……。
 誰もがこのラインで、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』(58)を想起せずにはいられないだろう。キム・ノヴァク扮するマデリン/ジュディのような、運命の女のダブルイメージ。さらに同様のモチーフが異なる形でもうひとつ展開する。それが12月2日(火曜)から登場する若い女性、バイ・ユンシャンだ(バイ・メイ――白玫とも名乗る)。「東京で文学と演劇を学び、今は雑誌社で仕事を」と自己紹介する彼女は、ユー・ジンの熱狂的なファン。正体は重慶の諜報員なのだが、そんな彼女がユー・ジンのボディダブル(代役)として舞台に登壇する流れになる。
 まさしく劇中劇『サタデー・フィクション』の本番が上演される土曜日――12月6日の舞台上のパートは圧巻だ。現実と虚構が入り乱れ、広義にも狭義にも史実とフィクションが撹乱される。この混沌こそ、戦争に向かう政治のグローバルな交通網(例えばトム・ブラシア扮するホテルの支配人、ソール・シュパイヤーは、ナチスから逃れるためウィーンから上海に亡命したユダヤ人であると言及される)や多様な言語の渦が複雑な地政学を示す本作のハイライトにふさわしい。
 本作が採用した入れ子構造は、史実という枠組みの中に差し込む形で、いかに蠱惑的な「フィクション」を創造するかという試みの表象そのものと言えるだろう。もちろん、ロウ・イエが描き出す「個と社会」のメカニズムは他の現代劇と同様だ。『天安門、恋人たち』(06)の北京から始まるクロニクルや、『スプリング・フィーバー』(09)や『ブラインド・マッサージ』(14)の南京、『二重生活』(12)の武漢、『シャドウプレイ』(18)の広州……シンボリックな都市に住む個人と、ひりひりした政治や制度との軋轢。それを長い歴史的射程で描く硬質な姿勢は一貫しているのである。


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