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『サタデー・フィクション』           上質なスパイ映画                      小谷賢(日本大学危機管理学部教授)

11/3(金)全国公開の映画『サタデー・フィクション』につきまして、日本大学危機管理学部教授小谷賢さんより寄稿をいただきました。

上質なスパイ映画

 本映画の舞台は、1941年12月の上海だ。この時代の上海は既に日本軍の占領下にあったが、フランス租界と各国の共同租界が治外法権を維持したままの「孤島」として存在しており、物語はこれら租界内で進展していく。当時の上海は日中のみならず欧米各国のスパイが暗躍する都市でもあり、本作のテーマの一つがまさにこのスパイ戦だ。そのためここでは劇中に登場するスパイたちについて押さえておきたい。
 主人公の于菫(ユー・ジン)は表向き有名女優だが、裏の顔はド・ゴール派フランス情報機関の腕利き工作員である。彼女は育ての親で、上司のヒューバートに呼び出され、任務のために上海へやってきた。しかし上海には彼女の元夫である倪則仁(ニイ・ザーレン)が収監されていたことで、現地のスパイ合戦に巻き込まれる。倪は親日派であった南京の汪兆銘政権のために働いており、敵対する蒋介石の重慶政府から狙われていたため、南京政府に監禁されていた。
 他方、連合国の一翼を担う蒋介石は、軍の「藍衣社」、もしくは党の「CC団」という工作機関を使って上海で反日テロを繰り返しており、劇中に登場する女性工作員、白雲裳(バイ・ユンシャン)は「CC団」に所属している設定である。対する南京政府は「ジェスフィールド76号」という工作組織を結成し、上海のブリッジ・ハウスに拠点を持つ日本陸軍憲兵隊から供与される資金や武器を使って、藍衣社やCC団に対する暗殺や処刑を繰り返していた。劇団員の莫之因(モー・ジーイン)はこの「76号」の工作員なので、日本軍に顔が利く。于の元夫が監禁されていたのもこの組織の本部だ。さらに日本陸海軍は憲兵隊の他にも、松機関や梅機関といった特務機関を数多く上海に設置しており、劇中の海軍特務機関もその一つにあたる。梶原は恐らくこれら特務機関のどこかに所属する軍人なのだろう。
 整理すると、同じ中国人でも重慶政府の「藍衣社」・「CC団」と南京政府の「76号」は対立関係、南京政府と日本陸軍は協力関係、フランス情報機関は日本陸軍と対立し、重慶政府寄りの姿勢、といった構図となる。そしてそこに暗号の更新のため、軍の最高機密を携えた日本海軍の古谷三郎少佐が上海を訪れる。当時の日本海軍の暗号は数字を5つ並べた形式だが、真珠湾攻撃に備えて非常用の暗号を知らせに東京からやって来たという設定だ。そこでは「ヤマザクラ」という隠語が「真珠湾」を指すことになっており、フランス情報機関は于を使ってこの「ヤマザクラ」の意味を解き明かそうとするのである。
 既にフランス本国はドイツに降伏していたが、ド・ゴールらは連合国側に立ってレジスタンスを繰り返していたので、もし日本海軍の攻撃目標に関する情報を得ることができれば、それは同盟国に対する大きな貸しとなる。そのためフランス情報機関としては何としても古谷から機密を聞き出す必要性があった。逆に重慶政府としては、そこにあまり関心がない。むしろ中立であった米国が日本軍に攻撃されることで、米国が連合国側に立って参戦する方が好都合であった。そのため本作内で重慶政府は一貫して南京政府との暗闘に没頭している。
 本作の見せ所の一つである、キャセイ・ホテル前での銃撃のシーで、于の元夫を待ち構えて銃殺したのは、重慶側の工作員だろうか。この混乱に紛れて、待機していたフランス側の工作員が古谷の腕を打ち抜き、彼をホテルの医務室に連れていくという流れだが、これだとフランス情報機関は重慶側と事前に打ち合わせて計画を実行していンたことになる。そうなると于も混乱を演出するため、わざと前夫をおとりとして自由に行かせたようにも見えてくる。
 解釈が難しいのは、于が古谷から真珠湾の情報を聞き出しておきながら、それをシンガポールだと偽って上司のヒューバートに伝えたシーンであろう。ここからは個人的な意見となるが、古谷とその妻を手にかけた贖罪の気持ち、もしくは一人の女性としてスパイ稼業から足を洗いたい、という意識が先走ったといったところか。最後には、短波ラジオ放送で暗号文を送り、真珠湾について知らせているが、これは真珠湾攻撃が行われた後のようなので、情報としては価値がない。任務に失敗し、于のスパイとしてのキャリアもここで終わったことになる。
 スパイ同士は命のやり取りをしている以上、互いに心を許せない。于が劇団員の譚吶(タン・ナー)に惹かれるのは、彼が裏の顔を持たないからだろう。逆に莫と白の関係がぎくしゃくするのは、個人的な感情に加え、お互いが組織を背負っているためだ。特に白から見た場合、莫は中国人でありながら日本軍に協力する節操のない人物だと写るのだろう。
 このように本作は複雑な様相を呈しているが、スパイ映画としてはかなり上質で、それぞれの関係を知っておくとより楽しめるのではないだろうか。


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