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ダイエットには、100回くらい失敗しているのではないかと思う。

まずもって、自分の身体が嫌いだった。
それは自分の身体に値札がついているという自覚が酷く自分自身を縛っていたからであり、自分を鏡で見る度に、「気持ちが悪い」と思い、他者の言葉で深く傷つくようなものだったけど。

私の人格が分かれた時、私は私に「綺麗だよ」と言った。


私は、鏡に映る自分があまりにも美しく感じていた。私は可愛くて、綺麗だった。

私のことを綺麗だという私に対して、私は「今までぞんざいに扱ってしまってごめんなさい」と言いながら泣いた。「謝らなくてもいいよ」と言われたけど、「私」は、謝らずにいられなかった。
今は知っている。私たちはみな、私のことを愛していて、私は私のことを愛している。
それぞれがそれぞれのことを大切に思い、私は私のことを大切に思っている。

他者としての私と、自己としての私がある。

いずれ自己になる。


それでもやっぱり、身体から抜け出たいという気持ちはまだある。社会で生きる上で身体についた値札、ジェンダーロール、ジェンダーバイアス、全部脱ぎ捨ててしまいたいと思う。
魂に戻りたい、魂としての自分を自分の目で見たい。魂としての自分で人から見られたい。
身体なんて入れ物じゃないか。
私の魂を見てくれないか。

だけどね、身体は器だ。
命の器。私の命を背負っている。
この世界に私の魂を繋ぎ止めている。
身体があるから、僕と他者と、世界との境界があり、私は他者から存在を認めてもらえる。
それならやっぱり、身体も愛したい。
というより、愛さなければ、愛せなければ辛いだろう。
生きてんだもん、こうして魂が器に居るのだから。
魂は、「眼」には見えないのだから。


…というわけで、自分のからだを描いたりしている。


美しさとはなんだろうと思う。
魂としての美しさとはなんだろうと思う。
私の身体は、私の魂の形をしているのだろうか。
身体は、魂の形を象るものなのだろうか。
知りたい。
私の形を誰かに見てほしい。
私は私だろうか?
私の器は、私を私たらしめているだろうか?
私は、私の器を私たらしめることができるのだろうか?
できるのだろうか。

産まれる前に戻りたい、という気持ちを持たなくていいほどに、この世につなぎ止められて居ていいと思えるようになりたい、自分がこの身体でいいと納得できるようになりたい。

ね。
これでもね。前よりはずっとそう思えてるよ。
色んなものから抜け出た場所から。
きれいだねってね。

身体は魂の入れ物だ。
ただそれだけに過ぎない。
でも、だからこそ、愛おしみたい。
愛おしめたらいい。
自らの手で。

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