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話半分でいいよ。

今日かいたお気に入りの絵について。

今通っているカウンセリング。
今までに通ったことがないタイプ(療法として学問的に体系化はされている)で、人生の中で触れてきたことがないものな上に、まったくもって「しくみがわからない」というのもあるかもだけど、通うこと5回以上、その最中に、自分でもいったいどうして自分がそうなったのか理解できないような体験をいくつかしている。(セラピスト側にとっては理論にそって説明できるものだと思うが。)
それは大概、セラピストの導きのまま「何か(小さい頃の自分とか)」に遭遇して、あれやこれやするうちに「何か」と「自分」、そしてそれを内包する世界を楽にして、いろいろ済んだら「今」に戻ってくるような形のなかで起こることなのだけど。

このあいだ、ひと通りの流れが終わったあとに、なんの前触れもなく突然ぶわっと感情が揺らいで、わけもわからず泣き始めてしまったんだよね。自分が座っているソファーの肘掛に寄り縋りながら顔を伏せて泣いてた。そうしたら、私から少しだけ離れた椅子に、こちらをみながら座ってるせんせいがさ、話しかけてくるのよ、で、確か「今、どんな気持ちですか?」って声掛けてきて、私は嗚咽にまみれながら「今、どうしてこんなことを言うのかわたしでもわからないけど」「だれもわたしのことをわかってくれない」「かなしい」とか言ったんだよね。
そうしたら、一呼吸おいたあとに、たぶんせんせいはわたしへ「あなたはいまなんさい?」って聞いてきて、だからわたしは「さん、よんさい」って応えた。
時の記録がこの絵。

そのあともいろいろあったんだけどね。

ぼくはほんとうによくわからないや。自分がどうして通うたびに楽になるのか、ヒーリングを受けるあの部屋に行くとどうしてあれだけ安心できるのか。「自分」らしく過ごせるのか。
時々逆戻りもするけど、助かっている。助かっているように思う。「自分」が苦しんでいることもわかる。きちんと、私に引き摺られずに助けてくれる人の存在が必要なことが分かる。私自身の手に負えない濁流のような何か(感情?記憶?)から抜け出すには、それを眺めながらかつ巻き込まれずに、きぜんとした姿で連れていってくれる人が必要だったんだろう、と、いまは思う。

助けられている。
かくじつに。

でもだれにも、説明できないや。
どうして自分が楽になっているのかわからないから。

だけど、絵にしたかった。
残したくて、感情。

わたしは嬉しかったんだと思う。
「さん、よんさい」のわたしは、多分呼びかけられて嬉しかったのだ。
よくわからないんだけど、せんせい(あるいは私)にそのとき話しかけられたことが、私の中で嬉しかった記憶として残ってるんだよね。いま。

そう、意味わかんないこと言ってんなって言う人がいるのもわかる…。
わかるんだけど、わたしは話しかけてもらって嬉しかったからさ、その感覚が残ってるからさ。

ちょっとだけ、その幸せを知って欲しくてnote書いちゃった。
まあ、全部、はなしはんぶんでね。

はなしはんぶんで。

僕にとっては事実だけどね。



わたしにとってはたぶん、この体験が物凄く自分にとって「いいこと」という感覚があるから、辛い人の助けになるかもしれない治療法があることを流布したいんだけど、これがあまりにもひとの理解から遠そうだから流布できないだろうな、とおもってしまっている。そしてそれがかなしいのかもしれない。

なんかでも、よくわからんけど、いいものがあるっぽい。
よくわからんけどすごい。ものがある。

世の中はひろい。

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