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番外編:アメリカの子どもの作文教育は「型」重視

先日、President Family という雑誌を読んでいて、軽く衝撃を受けた記事がありましたので、児童文学からちょっと離れて作文の「型」について触れておきたいと思います。この記事で触れられていたのは、アメリカの子どもの作文教育は、徹底的に「型」を身につけさせるということでした。

問題の記事は「書く力の現場」というコラムで、渡邉雅子さんという名古屋大学大学院教育発達化学研究科教授という肩書を持たれている方が発言されたことをまとめた「海外の作文教育は何が違うのか」というタイトルの記事です。

日本とアメリカの作文教育

一口に作文といっても、種類がいくつかあります。エッセイ(論文)、創作文、物語、詩、インタビューがあり、それぞれ書き方が微妙に違います。

日本人の作文教育ではどんな形式であれ感覚的に書くように教育されてきたように思うのですが、アメリカではそれぞれに型があり、子どもたちはその型にしたがって書くよう指導されるということです。

私は小学生から大学生に至るまで、作文をするときに型のようなものを考えたことはあまりありません。作文の型として思い浮かぶのは起承転結とか演繹法とか帰納法とかで、主に物語文か論文の型くらいしか思いつきません。皆さんはどうですか?

日本での作文教育の目的は「感情を生き生きと表現する」とか「ほかの人に共感し理解する」という共感教育においていて、型を教えるよりは個性をだいじにしたいという考え方です。ところがアメリカの場合は、文章の様式=型を徹底的に身につけさせるのです。

日本の教育界の考え方では、型でしばりつけると個性を抑制することにつながると考えますが、現実は逆で、日本の子どもの文書は、だいたい誰もが同じようなことを書くのに対して、アメリカの子どもは非常に個性的な文章を書くようになるといいます。

アメリカにおけるエッセイ(論文)の型

では、アメリカにおけるエッセイの型というのはどういうものでしょう。

初めに「○○は△△である」というような、トッピングセンテンスと呼ばれる主題(テーマ)を簡潔に提示する。次にその理由付けをあらわす。さらに主題で述べた言葉を言いかえて結論とする。この三部構成がエッセイの基本となる。ーー「海外の作文教育は何が違うのか」より

アメリカのエッセイについての作文教育では、エッセイについてはこの型を、別の文章形式についてはその型を、徹底的に教え込むのだそうです。

エッセイの型に集中しますが、この型からわかることは何でしょうか? 

一番はじめに、「主題を簡潔に提示」してからその理由を説明するということですが、エッセイを書く人はまず何について書くのかということをはっきりさせるということですね。

この文章の型というのは、とりもなおさず「思考の型」です。まず「このことに関して自分はこう思う」という結論を出してから、その理由を述べていく、という流れです。

たとえばインターネットの世界のように、大量に情報が流れる環境では、まず「何について書いてあるのか、また、その結論は」ということが文の最初にないと、スルーされる可能性が大です。

日本の子どもの作文教育

いっぽう、日本における子どもの作文教育とはどのようなものでしょうか。

「日本の作文教育は、自分の感情を生き生きと表現する、あるいは他者に共感し理解する文章を書くことを目的としています。それは、他者への共感教育の一環ともいえるものです」ーー「海外の作文教育は何が違うのか」より

日本の学校での作文教育は、他者への共感や自己の感情が評価の対象となるわけです。そこで児童は、学校や教師が理想とする共感や感情のモデルを察してそれに沿って書こうとするので、どの子の作文もだいたい似たような文章になるというのです。

国民性もあるのかもしれませんが、アメリカの教育のように型にしたがって書くということが重視されるとその着眼点は児童の自由ですから(むしろ違うことが評価される環境ですし)、独創的な文章を書くことができるということになるわけです。

最後に

私は中学の頃から空手に親しんでまいりました。空手は型に始まり型に終わるというくらいですから、型はとても大事なものです。

考えてみれば、日本の伝統芸能においても日本の伝統的な工芸においても、「型」がまずあって、それを徹底的に身体にしみこませてから魂をいれていく、という伝統がありました。

型の効用はいろいろあると思いますが、その中のひとつに、「型が身体にしみついていれば、考えなくても勝手に身体が動くようになる」ということがあると思います。

身体が勝手に動くわけですから、考えることは身体以外のこと、たとえば、空手であれば、対戦するときの相手を仮想して動きをシュミレーションするとか、作文であれば書くべきことについて集中し、ついでそれはなぜかと考える流れが自動にできる、とかいうことがあると思います。

日本の作文教育もそれなりの意義はあろうかと思いますが、日本人が大事にしてきた「型」というものをもう一度見直して、作文教育に生かしてもいいのではないかと思うのです。



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