人生のターニングポイントー福岡編ー
私の故郷
Pooloの仲間がエネルギーをつかってnoteを書き留めていることに感化されて、これを機に書いてみようと。特に先日Pooloの第1タームの総括になるプレゼンを経て、ターニングポイントについては書きたくなった。
そこで必ず触れざるを得ない「ふるさと」。
1)生を受け、私を強くしてくれた場所、福岡
2)気づきと変化をくれた場所、カンボジア
3)学びを授けてくれた場所、東京・カナダ・メキシコ
それぞれでそれぞれのターニングポイントがあり、私の人生のスパイスとなっている。「ふるさと」と言っても各々とらえ方が変わると思う。ここでは私が考える「ふるさと」を残してみたいと思う。
喜怒哀楽が詰まったのが私にとっての「ふるさと」であり、人生グラフに表すとするなら、それこそ山あり谷ありが激しくなるパートがまさにそこにあたる。もちろんそれぞれの中でももっとも分岐点となっている事象があるわけで、私の人となりに少なからず影響している。また「ふるさと」には当然ながらお世話になった方々が多くいる。"誰かのために役立てる人でありたい"と願うようになったエピソードもここに落としていきたいと思う。実はこの話は特定の方にしか伝えていないことであり、もちろん話す理由が必ずしもあるわけではなかった。Pooloで自分の豊かさを考えたときにやっぱりここに私の原点があることは間違いなく、外して語ることができないためオープンにしてみたいと思う。
今回はどこの国?毎シーズン家族が増える?
幼少期から海外の人と生活をしていた。海外で生活をしていたわけではなく、福岡市の友好都市から留学生が来ており、彼らを受け入れていた。両親が海外志向で、今思えば娘たちに何かを与えたくて、「ホストファミリー」になっていたんだと。そんなことは当時は何も考えず、いつも誰か来るな~と幼いながら感じていた。
年齢が離れたお兄さんやお姉さんが来ることもあれば、同年代の兄弟みたいな子が来ることもあったり、特に夏は毎度家族が必ず増えていた。父は旅行が好きな人で、よく運転して新しい家族を引き連れてどこかにつれていってくれた。もちろん英語で会話をするのだが、私は何が離されているかまるでわからず、両親に言いたいことも通訳してもらっていた。そこに最初から憧れがあったわけでない。思考が安定してきた、ちょうど小学校3年生のころ。「英語いいなー」と漠然と考えるようになった。「私も自分で想いを伝えたい」と思うようになった。何かきっかけがあったわけではなく、なんとなくそう思った。だからと言って英語を勉強する、というところまでは至らなかった。ちょうどその頃、打ち込んでいた別の習い事があり、優先順位は自然とさがっていた、というのが実のところ。ただ私が「英語いいなー」とつぶやいたことを母が聞き逃すわけではなく、打ち込んでいた習い事と重なっている日に英語の体験レッスンを入れてきた。嫌で仕方なかったのに、初日参加をすると、これがめちゃくちゃ楽しかった。何が楽しいかって、日本語ではない言葉で相手に意思疎通ができる、という驚き。これは私にとっては目から鱗だったわけだ。初日にその体験をしてしまったが故に、一気に優先順位があがった。
それからは「ホストファミリー」になるタイミングを今か今かと待ちわびるようになっていた。言語ってすごくないですか??
両親の愛のムチ
幼かった頃、私の両親と言えば、住んでいた地域からすると突拍子もないことを発動する人たちだった。「ホストファミリー」に毎シーズンなっている知り合いも、周囲にはいなかったし、ある意味先進的な両親だったのかもしれない。だからこそ、それを娘たちにやらせるの??と周囲が驚いていたこは何度もあった。その一つが、私もこの先も絶対に忘れないであろう記憶、4歳のひとり旅。
両親の実家が鹿児島県種子島で、里帰りをするのは頻度あることだった。しかし当時4歳の私がまさかひとりで里帰りをするとは誰しもが予想をしていないはず。もちろん私も。
そう、4歳の私はひとりで飛行機に搭乗し、祖父母が待つ種子島空港へ向かったのだ。おそらく最低年齢を下回っていたのだが、今となってはそのルールが度外視できた理由は探りようがない。空港で両親と離れて搭乗口に向かう通路、大泣きしていたことは今になっても記憶から消されることはない。その様子を窓の向こうで、両親が写真を撮りながら「大丈夫よ~楽しいよ~」と声をかけていた。こんな大泣きする幼児を対応してくださったCAさんは女神だ…と思う。機内での過ごし方はまったく覚えがないのだが、これがまた複雑なことに、乗り換え線だったため、鹿児島で一度航空機をおりている。種子島までの飛行機を待っている間、何をどう過ごしたかこちらも記憶はないのだが、いい子にして待っていたことは間違いないだろう(笑)次に種子島までの飛行機はあっという間だった。泣きすぎて寝付いてしまったんだろう。空港に到着してからは祖父母に会い、海に連れ出してもらって、きっと今までと違う世界が見えたのか一気に笑顔になったそう。
4歳の娘をひとりで送り込むとは、なんとも信じられないが、きっと両親も勇気が必要だったはず。こんな大掛かりな挑戦をこの年齢から課されていた私はこの後の人生でもいろいろなことが待ち受けていることが決まっていたのかもしれない。そこを見越して、両親が仕組んでいたのかもしれない。くじけない強さ、立ち上がる強さ、人に支えられている/愛されている感謝を持つべく。
父との別れ
良くも悪くもいろいろなチャンスをくれた両親のもとで、(自分で言うのもなんだが)すくすくと育ったわけだ。好きな習い事をさせてもらい、大好きなお友だちも増えていき、いわば順風満帆というものだったに違いない。あの日が来るまでは…。
2001年夏。その日は小学校の授業参観日だった。母がいつものごとく参観に来てくれていて、私は珍しいことにその日は帰宅をしたくなく、母が参加する懇談会を妹と待っていた。すると懇談会が終わってからも、母が「今日は外食して帰ろうか」と。いつもであれば一緒に帰って自宅でご飯を食べる。それをしなかった。大体19時過ぎに自宅に戻ってきたら留守電が入っていた。父が単身赴任する先の部下からだった。父が病院に運ばれていて意識不明だと。母は動揺してはいるものの、私と妹に出かける準備をさせた。私はよくわからず、いつの間にか3人で新幹線に乗っていた。
おそらく乗車して1時間くらい過ぎたころ、父にもらった腕時計が止まった。病院について知らされたことだが、時計が止まった時間は父が亡くなった時間だった。頭が真っ白になる、とよく言葉では聞いていたが、まさにこの状態。頭が真っ白でそれからというもの、何度も気絶してしまっていたそう。
実は父が亡くなる前日、珍しく長電話をした。それこそ話題は下旬に来るタイからの「ホストシスター」と何する?というもの。父が「●●に一緒にいけると、ふうちゃん、思い出増えるんじゃない?」と打診してくれて、早速カレンダーにも予定を書いた。遠出する約束をそのときにした。
けれど、父は旅立ってしまった。ちゃんと旅立つ瞬間は教えてくれたけれど、約束は残していった。
人の死と向き合うのが初めての経験で、それがまさか父になるとは夢にも思わず、それから長い間、生きた心地がしなかった。笑えなかった。無気力だった。「なんで私だけ?」そう毎日自分に問うていた。
そんな私に活力を与えてくれたのは、母と妹だった。今考えても私のどん底はあの父が亡くなった後の数か月で、それがあったから、出会う人との関係構築であったり、good pointを探すことがあたりまえ化してきた。これは母と妹の甲斐があっての変化。ここからの変化はまた続編で残していくことにする。ちょっと今日は父のことを振り返るだけで涙が止まらなくなってしまったので、一旦、おやすみなさい。
トップ画面は父が好きだった海と山をバックにしたかった、という思いから選んでみた。眺めていると私自身もほっとする。
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