番外 創作物はどこへ向かうか

 3月、漫画家の鳥山明先生がこの世を去った。

 日本にいてその名前を知らない人はいないんじゃないかと思える大きな存在だった。訃報の後にDr.スランプ第1話を読んだが、絵のタッチと構成の上手さに改めて驚いた。やはりすごい人だった。

 何故この話になったかというと、先日私が所属している模型サークルの集まりに行った時、仲間のひとりから聞いた話が関連してる。上の訃報を聞いた彼は先生への追悼の気持ちからサンドランドの戦車を作り始めたという。


 その上におなじみのガスマスク(?)を被った鳥山明像をスクラッチ制作して乗せようという目論見だった。
 パテからの削り出しなりで造型は仕上がった。だけど塗装に入る前に手が止まってしまったと語る。

「どうしてです?」
「なんか、これを完成してしまったらそこで終わっちゃうんじゃないかと思って」

 予想もしてなかった回答でとても驚いた。彼がどれほど鳥山明に人生を影響されたのか、どれほどの熱を持って鳥山明への感謝の気持ちを込めて工作に取り組んだのか私には想像が及ばない。
 でもその感情に区切りがついてしまうことへの不安や寂しさはわからないでもないなと思った。工程が終わってしまえばそれは過去になってしまう。今湧き上がる熱量も偲ぶ気持ちも全ては終わった話になって、色褪せた思い出に変わるのをただ見届けるしかなくなってしまう……でも本当にそうだろうか。


 そんな時にふと思い出した。
 この1ヶ月で2回、私はnoteで記事を書いた。1度目は蓮ノ空の楽曲DEEPNESSについて。2度目は加賀友禅こらぼについて。


記事を書く中で学んだことがある。それは、あらゆる創作物は出力された瞬間から未来へ向かうということだ。
 夕霧綴理が作った楽曲が2人から4人、4人から6人更にその先へと受け継がれていくように、蓮ノ空のメンバーのためにあつらえられた振袖がその先の人生に幸あれと願って作られたように。
 何らかの創作活動を経験した人なら誰もが考えたことがあるのではないだろうか。自分の作った文章を、絵を、写真を目にした誰かに与える影響について。あるいはそれを生み出した作者である自分自身に及ぼす影響について(大抵の場合それを経験と呼ぶ)。
 模型だって同じだ。展示会でその作品を見た人の記憶に鳥山明先生の存在を今一度刻むことができるかもしれない。その人は改めてアニメやコミックスを見直すだろうか。またはモチベーションが湧いて積みの中からドラゴンボールやDr.スランプのプラモを崩し始める可能性もゼロではない。そのような誰かに与え得る影響を無視するべきではないと、ちょうど最近強く感じるようになったばかりだったのだ。

 私はそんなニュアンスのことをやんわり彼に話したと思う。区切りがつくことはそこで終わってしまうだけではない。次に繋がるものが少なからずあるのだと言うことを伝えたかった。彼は少し考えた後、「じゃあ足の裏は塗らないで置こう」と言った。再びなるほどと思った。自分だけが知っている未完成品、そういう折り合いの付け方があるなんて思いもしなかった。こういう体験ができるから界隈の与太話は面白いと思う。


 蓮ノ空に話題を戻すが、先日の2nd兵庫公演で新曲「365 Days」が初公開された。

 新生活が始まり、先輩後輩の立場になる覚悟を改めつつ日々の大切さを歌った素敵な楽曲だと思う。  
 この曲もこの先起こる様々な思い出を吸収して来年の今頃にはもっと別の感情で向き合うことになるだろう。「Legato」や「明日の空の僕たちへ」の時もそうだった。夏にアルバムがリリースされたときは「なんて随分未来の話をしてる曲なんだ」と思っていたのに、気付いたら今まさに「旬」が到来してしまっている。楽曲が含んでいた真意に今ようやく私たちが追い付いたと感じた。

未来は否応なくやってくる。あなたにも、私にも。
それとどう向き合うか、何を残すかを今一度考える必要があるなと実感した話でした。


 最後に改めて。
 鳥山明先生、本当にありがとうございました。


おしまい

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