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現在も残る知恵の実

おはようございます。うにもちです。

かっこいいタイトルつけましたけど、先日Twitterで見かけた事例について書きたいと思います。

「人は他の多数の人が不快だと思うと理解した瞬間から不快だと感じるようになる(人が多い)」

という考えが僕の中にはあるんですが、これは結構的を得ていると思っていて。
例えば(あってはならないということは大前提に置いた上での話です)、クラスでなんとなく嫌われている人(Aさん)がいるとするじゃないですか。

それは少し遊びの付き合いが悪いだとか、いつも元気が無くてボソボソ何を言っているのかわからないだとか。
そんなちょっとした理由で「なんとなく」嫌われてる人、多分いると思います(正直僕の高校時代がこんな感じでした)。

多分こういう内容を読もうとする人の中にはいないと思うんですが、そんな印象をAさんがクラスの人から受けているということを知ってしまった人は、なんとなくAさんに良い印象を抱かないんじゃないかと思います。

そんなことないだろうって思った人は僕から見て大変善良な人なのでそのままでいて欲しいんですが、残念ながらそう思ってしまう人の方が割合としては若干多い気がします。

この辺の話、なんとなく経験ある人もいたりしませんかね(傷口を抉っていたらごめんなさい)。

そこで最初の言葉なんですが、知覚することによって不快になってしまうということが、人によってはあるんですね。

ようやく前提の話が終わりました。相変わらず話が長いですね。続けます。


さて、先日Twitterで見かけた話というのがセクハラについての話でした。
簡潔にまとめると、

・数年前までは男女で役割を決めて仕事をしていたことに誰しも(その職場では)が満足していた
・書類整理は女の人、何かものを運ぶ時は男の人のように分担をすることで、全員に役割があると感じていた
・しかし近年セクハラ問題が騒がれるようになってから「女の人は書類整理をお願いします」と言われるとなぜ性別で区別をするんだ!と思った

ということでした。
勿論ここで話したいのは知らなければ何をされても良いという話ではなく、満足している状態に一石を投じることでなぜか不和が生じるということです。

本来誰も迷惑に感じていなかったのに、セクハラという言葉が浸透することによって嫌な気分になってしまう。

僕自身男女で仕事を分けるということは基本的には間違っていないと思っていて、本当の男女平等を目指してしまうと性差による筋力の差だったり思考の違いを無視してしまうことになってしまうからです。

勿論本人が望めばその仕事はやらせるべきだとは思いますし、適材適所という言葉もあります。
多分僕のnoteではケースバイケースがメインの話になるんですかね。

さて、それではどうしていったらいいのかという話ですが……元も子もないことを言いますね、難しいと思います。

何故か、それは簡単で「人によって不快に感じることが異なるから」です。
現状に満足している人も間違っていないし、一石を投じる人も間違っていない。
そもそもの話として誰も間違ってはいないんです。
だから誰が悪いという話でもない。

ただ、声を上げすぎて困る人もいるし、逆に一切上げないことで困る人もいるので、各々が思う正義を行なって、その現場その現場で擦り合わせていくのが一番いいのではないかと思います。

人間同士の話ですからね、そもそも完璧な回答なんてないんです。
多分この言葉もまた別のノートで出てくるとは思いますが……。

それではまた。

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