見出し画像

「人間 まふまふ論」これまでの姿と騒動から一人のリスナーとして今、まふまふに思う事

序に代えて


昨今、歌い手で2021年に紅白歌合戦にも出場して話題を呼んだシンガーソングライターでもある「まふまふ」が某活動者の女性と結婚、離婚して裁判沙汰になっていること、そして元妻から誹謗中傷を受けていたこと等が明らかとなり、SNS上で話題となっている。
このことについては公正な司法の場において決着がなされるべきことであって、部外者であり傍観者に過ぎない我々は静観してその結果を待つしかないと思っている。
したがって騒動の詳細等についてこのノートで言及するつもりはない。

今回の騒動によって様々な人が、様々な立場からまふまふについて様々な言及を行なっている。
あらかじめ筆者である自分の立場を表明しておくと、自分はまふまふのリスナーの男性であり、彼の歌唱力やその音楽性、世界観のみならず、配信等を通じて見えるその人間性についても心から尊敬している一人である。

「まふまふの視聴者は女性が多いのに珍しいね」と思われるかもしれないが、まふまふによれば動画視聴者層の男女比はおよそ55%:45%で、少し男性の方が多いという。
確かに毎日リプをしたり、動画にコメントをしたり、配信を見に来たり、グッズをたくさん買ったり、ライブに毎回行ったりするようなアクティブでコアなリスナーに女性が多いのは事実だろう。
しかしながら、こと音楽ということで言えばそうしたリスナーに負けずとも劣らずに熱心に聴き、自分と同様にその歌唱力や音楽性や世界観等に惹かれて応援している男性リスナーは音楽ファンを中心に少なくないと思う(ただし、こうした男性リスナーが目立つことはほとんどないと自分自身感じている)。

自分も熱狂的な彼のリスナーと比べればその熱量は遠く及ばないし、グッズ等についてもほとんど買うことはないが、まふまふの音楽についてはあらかた聴いてきたし、今でも毎日聴いているし、ライブも見てきたし、DVD等も買って自分なりに応援してきたつもりである。
それだけでなく過去のアーカイブや発言等を遡ったり、まふまふの配信等も可能な限り視聴したり、雑誌のインタビューや出演番組等にも目を通したりしてきて、少なくとも「リスナーとして見て来たまふまふがどのような人物であったか」についてはある程度は理解しているつもりである。

「アーティスト まふまふ」の音楽性やその魅力等については今更自分が言及する必要もないほど適切にまとめられたものがある一方で、彼の過去の発言等を紐解いて彼が「まふまふ」としてどのような思いを抱いてこれまで活動してきたか、彼がどのような人間であるかといった「人間 まふまふ」についてまとめられたものはほとんどない。

そこで数年来のリスナーでもある自分が、まふまふのSNSやインタビュー等における様々な過去の発言をもとにしながら人間・まふまふの内面に迫り、まふまふがどのような姿勢で活動と向き合ってきたか、何に悩み苦しんで今日まで歩んできたかということをほんの一部分に過ぎないといえども明らかにすることを試みると同時に、今回の騒動を受けてリスナーとして率直に思ったこと、過去の発言やリスナーの立場から見えたまふまふの人間性、そして今改めてまふまふに対して思うこと等をまとめたのがこのノートである。
タイトルを「歌い手 まふまふ論」等ではなく、「人間 まふまふ論」としたのはそうした理由からに他ならない。

引用も多く、一リスナーとしての個人的な思い等も記したこともあって、全体としては長文かつ乱文で読みにくい内容となっていることであろう。
これまでのまふまふが何に苦悩し、どのような姿勢で活動と向き合ってきたのかということだけに興味がある方は、「まふまふの苦悩ー恋愛観、活動への覚悟、二面性」のチャプターだけを読んでいただければと思う。
これに限らず、興味があるチャプターだけを読んでいただいても構わない。


このノートを読んで自分とは異なる見解や心境を持つ人がいるかもしれないが、それでもこのノートがまふまふについて興味がある人達の何かしらの参考となれば幸いである。

なお、まふまふの発言や引用部分等は極力出典を明示するように心がけたが、出典を失念した部分もあり、またあえて示さなかった部分もある。
また、このノートはまふまふについてある程度知っていることを前提とした上で記しているため、まふまふのこれまでの活動経歴等の詳細については省略している。
これらの点についてはあらかじめご了承いただきたい。

※見出し画像はまふまふのX(@uni_mafumafu)より引用した。


※まふまふのSNS等
◆YouTube

◆YouTube(サブチャンネル)

◆ニコニコ動画

◆X(旧Twitter)
@uni_mafumafu

◆Instagram


まふまふの苦悩ー恋愛観、活動への覚悟、二面性


まずはまふまふが何に苦しみ、悩んで、そしてどのような思いや姿勢をもって自身の活動と向き合ってきたかを記すこととしたい。

今回の騒動によって改めて感じたことであるが、やはりまふまふは誤解されている部分が少なくないということである。
一例をあげるとするならば、”ガチ恋営業”を行っていたとされることだ。

そのように主張する人達はまふまふのリスナーは熱狂的な女性ファンが多く中でもいわゆる「ガチ恋」と呼ばれるファンが多数いること、まふまふが過去に「彼女はいない」、「人を好きな気持ちが分からない」、「全然恋愛をしていないし出来るとしてもしない」等という趣旨の発言をしていること等を根拠としているものと思われる。

ガチ恋営業というのは抽象的な言葉のような気もするが、「本物の恋人のように振りまい、ファンを虜にしていく」というのが一つの定義だと言えるだろう。具体的にはホストやキャバ嬢の営業スタイルを連想したほうが分かりやすいのではないだろうか。

しかしながら、そのようなガチ恋営業をまふまふが行っていたというのは全く事実に反するし、ずっと恋人のように振舞っていた事実もない。
外野から見ればそのように勘違いされるような部分があったのかもしれないし、自分も外野であればそう思っていたのかもしれないが、まふまふはガチ恋勢についてどう思うのか問われた際に「(自分は)ろくでもない人間やで?」「盲目でないでほしい」と語っていたし、所謂ガチ恋勢に迎合した活動をしていたわけでは全くない。

◆2021年7月31日配信切り抜き

【元配信】

ボカロ曲を聴く視聴者の男女比は1:1程度と言われているが、実際には女性の方が少し多いというデータもあり、10代の女性では8割に及ぶとも言われている。
こうした事情もあってかボカロからの派生文化である歌ってみたの視聴者も若年の女性視聴者が多く、人気になる歌い手も男性がほとんどで、多くの女性リスナーを抱えていることがほとんどである。元々リスナーとの距離間も近く、若年の異性リスナーが多い環境は自然とガチ恋勢も多く生まれやすい土壌となっている。
そうした土壌の中で人気となっていったのがまふまふであり、他の名の知れた歌い手も同様であると言って差し支えないだろう。
まふまふや歌い手について語る時、この前提は押さえておく必要があると思う。

さて、まずは時系列を整理しておきたい。
まふまふは過去何年にもわたって「彼女が欲しい」「そろそろ恋愛をしたい」「結婚出来るのかな」といった趣旨の話を動画や配信、SNS等でも度々していたことは事実だ。
以下はほんの一例に過ぎない。

◆2016年7月12日ツイキャス配信の切り抜き

【元配信】

◆2017年2月6日「友人におくすりカレーを作りました【ごめんね】」

【元動画】

しかしながら、活動を続けていく中であらぬ疑いをかけられて、その都度否定してきたことも決して1度や2度ではない。

一方で、昔から「このまま恋愛ができないんじゃないか」「一生結婚できないままなんじゃないか」といった恋愛や結婚に対して悲観的な発言を度々していたことも事実である。

◆2020年9月12日配信の切り抜き

【元配信】


こうした経緯を経て、2021年5月28日に次のようなツイートをまふまふは行なっている。

その2日後に行われた自身のツイキャスにおいて、まふまふは次のような内容を語っている。この配信において、よく引き合いに出される「人を好きな気持ちが分からない」旨の発言が行われた。

◆2022年5月30日のツイキャス「悩んでいます」

※要約
・この一切恋愛の出来ないまふまふは何なのかという話を聞いてほしい
・これはマジ、冗談の域を超えてる、真剣に周りの友達に相談してる
・どうせいると思われていると思うがいない
・こんなことを言うべきなのかどうか分からないが、人を好きって気持ちがよく分からない
・人と一緒にずっといたいと思ったら「好き」なのか?
・ずっと考えて分からなくて「この人は性格が良い」「見た目整ってるな」と判断する基準はあると思っていたがそれすら疎い
・どの顔がかっこよくてどの顔がかわいいかも若干分からない、どの人を見ても悪い感情を抱いたことがなく、誰と誰を比べってどっちがかっこいい、かわいい等と比べたことがあんまない、目で追うこともない
・異性の事が好きな人、同性のことが好きな人、両性とも好きな人等がいるが、僕は(そういうのが)ないんじゃないか
そういうことを考えてなさすぎて、そういうことが感じられなくなってる、ちょうど微妙なところにあるんじゃないかと思っててそれが悩み
・いつかどこかで気の合う人がいたらそういう時が来るのかなと信じてる
・年齢的に大丈夫かなと心配になる年、そろそろ恋愛の一つや二つを大人になる中で体感するべきじゃないかと思ってる

https://twitcasting.tv/uni_mafumafu/movie/685385423

まふまふは2024年1月26日に発表した声明文の中でも、次のように語っている。

2021年春頃までの私は、雑誌のインタビューでも「恋愛ができない」と語ったように、人様に対していわゆる恋愛感情のようなものを抱けなくなっている自分に気づき、恋愛や結婚を諦めていました。

http://uni-mafumafu.jp/blog/update20240126

したがって、まふまふは2021年の春頃には真剣に恋愛や結婚について悩んでいたことは間違いない。当時のまふまふは29歳であり、30歳になろうかという時期だったことも関係するだろう。

なお、まふまふはアセクシャルをブランディングしていたとか、アセクシャルを騙っていた等と誹謗する声があるが、おそらく先述した2021年5月のツイキャスにおける発言や、後述する雑誌のインタビュー等を元になされているものとみられる。

しかしながらまふまふがアセクシャルを公言したことはなく、そのように思われるような発言をしたのも2021年5月のツイキャスが初めてであり、所謂ブランディングや設定等と言えるものではない。
まふまふの発言を信じないということであるならばどうしようもないが、こうした悩みは中々理解が得難いこともあるし、何より極めてデリケートなものである。
それをブランディングとか、設定だとか、騙っていた等といって誹謗するのはナンセンスだと言わざるを得ない。

次に、まふまふが「全然恋愛をしていないし、恋愛が出来るとしてもしない」という趣旨の発言をしていることについてであるが、この発言は2021年5月に東京ドーム無観客全世界無料配信ライブを終えた後で行なわれたインタビューにおいて、同年1月に発表されたまふまふの楽曲「ユウレイ」について言及した中でなされたものである。
該当部分を引用すると以下の通り。

この曲は、目の前にあるものを拾えば幸せなのに拾うことのできない自分や、そこで感じるもどかしさみたいなものが、ここに存在しているのに存在していないことになっているお化けみたいだなと思う時があって、それを書いた曲です。この曲はドラマ(『アプリで恋する20の条件』)の主題歌としてオファーいただいて書いた曲なので、恋愛をテーマにして書きましたが、僕自身は恋愛をしていないですし、仮に恋愛ができる条件が揃っていたとしても、しません。することができないのです。目の前に幸せがあったとしても、それをとることができない。自分のことだけを考えればできるのかもしれませんが、自分が元気でいられるかわからないですし・・・・・。そういったことを考えると、及び腰になってしまう自分がいて、結局恋愛はできていないです。おそらく、これからもずっとそうなのだろうと思いますそれが、かろうじて自分の中にある恋愛観だったので、そこから膨らませて書いていきました。恋愛のことを書くのは難しいですね。恋愛をしている人は書けると思いますが、僕は全然恋愛していないので書けなくて、結局こういう、少し暗い曲になってしまいました(笑)。それが、たとえかなわないものだとしても、誰かの記憶の中に少しでも、半透明な状態でもいることができたらいいなという気持ちを書きました。それでも僕、この曲すごく好きなんです。すごくいい曲を書けたなと思いました。周りがどう思っているかは、全然わからないですが

『CUT』(2021年8月号)

見て分かるように、この発言というのはまふまふの中の恋愛観にまつわる部分の話であり、視聴者に向けられた発言ではない。
まふまふ自身、CUTのインタビューの中で「ユウレイ」は「ひともどき」と並んで「自分自身を体現するような」曲と語っている。
先述したようにまふまふが恋愛について真剣に悩んでいた時期に作られた楽曲が「ユウレイ」であり、そうした時期に行われた発言であることは留意しておく必要があるだろう。

まふまふが自身の活動における覚悟を歌った楽曲としては、2019年6月に発表された「忍びのすゝめ」がある。

まふまふ自身、この楽曲に込めた思いについて次のようなツイートを行なっている。

CUTのインタビューにおいて、まふまふは同楽曲について「活動してきた中で感じた」ことを書いたと語っており、当時の楽曲公表後の配信においても「自分の活動者としての立場を忍者に例えていて、こういう活動をする限り人を好きになってはいけないし、そんなものは諦めなければいけないんだぜ、その覚悟でやれよ」と楽曲に込めた思いを明かしている。
まふまふは楽曲の公開に先立つ1月に、次のようなツイートも行っている。

まふまふが女性活動者と関わることをなるべく避けてきたことは事実だ。それはまふまふ自身やその周囲も、リスナーも認めるところだと思う。
活動初期は別としても、まふまふが人気となっていった2010年代後半以降はとくにその姿勢が顕著だったと言えるだろう。

まふまふの仕事関係者等に対して、あらぬ疑惑をかけて嫉妬等で攻撃を行っていた自身のリスナーがいたことも、こうした姿勢に拍車をかけた部分が少なからずあるのではないかと個人的には思っている。

当時の歌い手界隈では女性とコラボするだけで炎上したり、叩かれたり、特に女性の方に攻撃が向くということがしばしばあった。これは女性ファンや仕事関係者等への接し方でも同様であったと言える。
そらるも2018年頃にそうしたことに悩まされて活動休止をしていた時期があったし、他にも同じようなことで炎上した歌い手は少なくない。
当人同士の関係は良好でも暴走するリスナーがいる手前、表面上絡むことを避けていた人も少なくないだろうし、暗黙の了解として男女コラボがタブー視された部分があったこともまた事実である。
今はこうした風潮は昔よりは多少マシになりつつあるとはいえ、今でもそうした部分が残っていることは否めないだろう。

まふまふの発言を色々踏まえると、それ(男女コラボ等)によって荒れてしまうこと、もっと言えば自身を慕うリスナーが相手を攻撃して相手に迷惑をかけてしまうこと、応援してくれているリスナーが嫌な思いをしてしまうこと等々をまふまふが懸念してた部分があったようである。
この辺りの事情も「忍びのすゝめ」が出来た背景の一因となっているのではないだろうか。

このようにこれまでのまふまふを振り返ってみると、まふまふは恋愛や結婚と程遠い生活と活動を続けていく中で、元々悲観的だった恋愛や結婚を諦観するようになり、自身が人気となっていく中で覚悟を決めて活動を継続していったものの、幾年月を重ねてリアルな年齢となっていく中で次第に恋愛や結婚について真剣に悩むようになっていった、というのが実際の所なのではないかと思われる。

まふまふは『CUT』(2019年10月号)のインタビューにおいて、自身の二面性については整理整頓して考えることが出来ていて、求められてるからそうしているのかというとそういうわけでもないという趣旨の発言をしているが、意識的にせよ無意識的にせよみんなが望み、喜び、理想とする「まふまふ」を演じ、そうであろうとし続けて来た部分がある。
まふまふ本人の発言を元にするならば、「まふまふ」は「明るくてお気楽で、わけわかんないことばっかり言ってる楽しそうな人」だという。

何年間も、過去に遡ってまでまふまふの動向を追っていた身としては、時としてまふまふが無理をしているように感じることもあったが、それはおそらくそうした事情があってのことだと思う。

そうした中で皆から期待され求められる「まふまふ」と、そうではないもう1人のまふまふとのギャップを含めた自分自身の苦しみ、悩み、葛藤を経てそのことを歌った楽曲が「ひともどき」であったと思っている。

まふまふ自身、インタビューの中でこの楽曲については次のように語っている。

本当に、自分のことしか書いていないです。人のことを一切書いてないです。自分のための、自分の曲です。この曲にはふたつの意味があり、ひとつは歌詞の通り、人と呼ぶには出来損ないの自分、身体的な意味でも精神的な意味でも人になれない、人未満の自分は一体何なのだろう。見た目が人の形をしているだけなのに、なぜこんなに『この人生を歩みたい』ということばかり考えてしまうのだろう。あの時、いっそピタッと心臓が止まってくれたらよかったのに、まだ生きながらえて、もっともっと健やかに生きていきたいと思ってしまうのは一体何なのだろう、ということを言っている、本当に自分自身のことを書いた曲です。もうひとつの意味はそれとはまったく違い、「まふまふという存在を、中の人である僕が見て歌っているという曲」という側面があります。『ひともどき』である、真っ白い髪をした目の男の子。心臓が止まってほしかったというのは、まふまふとしてのそれを、いっそ消してしまいたいと思う瞬間がどこかにあったということでもあります。そう考えると、歌詞の意味が全然違って聞こえてくるはずです。こんなことまでつまびらかに話して大丈夫ですかね?(笑)。要するに、片方は死生観。もう片方は『まふまふ』という活動について歌った曲です。どうしてこういう曲が書けたのか・・・・・・自然と出てきましたね。書き進めていったら、これはこの意味にもとらえられる言葉になっているな、というふうに、ふたつの意味がひとつの歌詞になって出てきました。気づいている人もいて嬉しかったです・・・・・・(笑)

『CUT』(2021年8月号)

まふまふは同じインタビューの中で「このような活動をしていると、本当の自分が何なのか、わからなくなってしまいます。『本当の自分はこうであるはずなのに、今の僕は何者なのだろう』という感覚がずっとあった」と語っている。

同年の10月、まふまふは次のようなツイートを行なっている。

こうした二面性の問題が完全にまふまふの中で解決したわけではないと思う。
だが、まふまふは「まふまふ」として生きて来たことが自分の人生の全てだったと考えることで、こうした問題について一応の折り合いをつけようとしたということは言えるのではないだろうか。

まふまふは2022年6月の無期限活動休止を発表し、活動休止前最後のライブである有観客東京ドーム公演の最後に「輪廻転生」を歌った。

それは同時に今までのまふまふへの訣別という意味合いもあったのだろう。

そして昨年6月9日に無期限活動休止から復活を遂げて、8月に新曲「クロスワードパズル」を発表した中でその心境について次のように語っている。

もうきれいな自分、白黒はっきりしてる自分でなくてもいいんじゃないかと思ったし、そうじゃない自分もいることを出そうって思ったんです。挑戦というかー僕もこういうところがあるんだっていう、視聴者さんたちに対する懺悔みたいなものでもあります。なんて情けないんだって感じですけど、ちゃんと自分の悪いところを認めていくこと、『自分はこういうやつです』って言って、『でも次からはこうはなりたくない』っていうメッセージを伝えたい、という思いがありました

『CUT』(2023年12月号)


もちろん、ここまで書いてきたことがまふまふの苦悩や葛藤の全てではない。
古くは学生時代にいじめを受け、若き日には友と思っていた人物の裏切りと社会的圧力、精神的・身体的な苦痛を伴ういじめを受けてそれに伴う鬱病やパニック障害、人格障害の発症等を経て、数年前に心原性失神に突如として倒れ、そして今回明るみになったようなことやそれに伴う再度の心身の破壊や多くの病気の併発による無期限活動休止ということだけを見ても、ほんの一部分に過ぎないことが分かると思う。

しかしながら、まふまふの苦悩や葛藤を少しでも伝えられることが出来たとすれば、このノートを書いた甲斐があったというものであるし、何よりそのことによってまふまふのこれまでの苦悩も少しは浮かばれるのではないかと思っている。


騒動を受けてリスナーとして思うこと


今回の騒動を受けてまふまふの声明文や発言等を見て、リスナーとして自分が率直に思ったことしては、まふまふは「自分が見て来たまふまふ」のまんまだったんだな…ということである。

何年にも渡って視聴してきた身としては、実はキャラで言っていたり、やっていたりするんじゃないかと疑った瞬間が全くなかったわけではない。
しかしながら、ある時から「この人はキャラとかそんなのではないんじゃないか、いやきっとそうに違いない」と思うようになり、今回の騒動でやはりそれが間違いではなかったことを改めて確信できたというのが正直なところである。

まふまふが交際し、結婚し、離婚していたことにショックを受けたリスナーはいるだろう。
しかしながら、それ以上にまふまふが傷つき、苦しみ、ずっと死にたいと思うほどまでに追い込まれていたという事実に大きなショックを受けたリスナーは少なくないと思うし、自分も後者の一人である。

まふまふは視聴者に対して隠し事をしていたこと、嘘をついてしまったことを謝罪し、このことは一生忘れずに生きていくということを語っている。

2022年2月に女性活動者(当時は妻)との交際疑惑、同棲疑惑が出た際にまふまふが「ゲームをして遊ぶ仲」「友人の女性活動者」といった表現をしていたことは事実だ。
しかしながら、まふまふ自身は「結婚の事実を発表したい」と考えていたようだし、先方やその関係者の意向等の様々な大人のしがらみによって公表出来なかったこと、疑惑が出た当時にも正直な話をすることは難しかったであろう事情は同情に値すると思っている。
それを無理やりにでも公表するべきだったと主張する人がいるのであれば、それはただの世間知らずにすぎないだろう。

まふまふが恋愛や結婚と遠く、恋愛を諦めるような覚悟をもって活動を行ってきたことは事実であり、そうした覚悟をここ何年かで明らかにしていたことも確かである。
そうしたまふまふを応援していたリスナーがいたことも間違いないし、そうしたリスナーの中には失望した人もいることは事実だろう。
仮に今回のような形ではなく正式に交際・結婚を公表したとしても、そうした人が出ることは避けられなかったと思っている。

ただしこれは個人的な意見に過ぎないものの、一切考えや覚悟を変えないことが善というわけではないし、それが変わることが悪というわけでもないと思う。それが悪だというならば、この世界は悪人しかいないことになろう。

人間は日々変わり移ろう生き物であるし、極論かもしれないが自分の正直な気持ちを理性で抑えようとすることもある意味では嘘である。
何に対しても一貫性がなければならないというのは一貫性バイアスに過ぎないと思っているし、実際そんなことは不可能なのではないだろうか。

結果的にこれまでの発言と一転し、嘘をついた形になってしまったことは事実だが、悪として弾劾されなければならないほど酷いものだとは全く思わない。
まふまふはアイドルではないし、何より同じ人間である。
恋愛をしたい、結婚をしたいと思うのは自然なことであり、それを制限する権利は誰にもない。元々そうした願望が強い人だったと思う。
恋愛や結婚をしたからといって必ずしも公表しなければならないものでもないし、そこは本人の自由意志が尊重されるべきだと思っている。

本人が覚悟を定めて様々なものを背負いこみ、結果的にその考えや覚悟が揺らぎ、ぶれることがあったからといって、自分はまふまふを責めることは出来ないし、責める気にもなれないし、裏切られたとか騙されたという感覚も少なくとも自分にはない。

応援できなくなってしまう人がいることは仕方ないと思うし、そうなってしまう人達を非難する意図は全くない。
ずっと応援したいという気持ちがあっても、途中で応援できなくなってしまうこともまた自然なことであると思っているからだ。


リスナーから見たまふまふの人間性


去年の配信でまふまふは16personalityの性格診断(俗にMBTI診断)を受けた結果「INFJ」であったことを明かしていた。
人間というのは複雑であり、正式なMBTI診断でもないこのような検査でその人のことが分かった気になると思っているのは軽率だと思っているが、「INFJ」の特徴はまさに自分が見て来たまふまふそのものである。
筆者自身も診断を行ってみたところ同じ「INFJ」と診断されたが、確かにまふまふの思想や思考等に共感する部分が少なくないこともまた事実である。

ここからは一リスナーである自分が、活動者としての彼の姿を見て、あるいは彼の公の発言等を通して感じたまふまふの人間性について、3つほどに絞って具体的に書いていこうと思う。

まず一つは「性善説の人」である。
端的に言えば「ピュア」であり、また「理想主義者」である。
まふまふにリアリストな側面があることは分かっているが、それにしてもこうした面が強いと感じている。
これは長年まふまふの事を見ている方々は同意してくれるかもしれない。

過去にブログで「自分はなかなか悪意に気づくことができず、すぐに人を信じてしまうような人間でした。情に訴えかけるような作り話は鵜呑みにしがちで、つくづく自分が嫌になります」と語っていたり、配信でも明らかにそれは危ないでしょというものに鈍感でさらには「あんまり人の事を疑うのはよくないと思ってる」と言っていたり、「こういう活動をしていて有名な人で悪いことをする人はいない」という趣旨のことを言ってみたり、「人から好意を伝えられて嫌だと思う人はいない」と断言してみたり等々…そのように感じた理由を挙げればキリがない。

まふまふの優しい人柄や、聴いててこちらが恥ずかしくなるような純度100%の少年のような真っすぐさ等もこの辺りに起因してるのだろう。
このノートを書いている最中にまふまふが先日のツイキャスで「元々性善説で生きて来た」「話せば分かるはずだとか、打ち解けていけるとか、平和な世界があるんじゃないかと期待したいところがある」みたいなことを語っており、「うん、だろうね」と思ったのが正直なところである。

もう一つに、「ストイックなところ」である。
発言の節々から感じる真面目で責任感が強く、自分自身に厳しく、悪は許せないという強い正義感や、目標の為に努力を惜しまない部分等はその典型であり、音楽やゲーム(特にスマブラやAPEX)への姿勢を見ても特にそれを感じるし、まふまふの素晴らしい魅力であり、長所の一つである。

まふまふはインタビューの中で歌った後は何もできなくなるくらい心身を削って歌わないといけない、という趣旨のことを語っているが、まさにそのような苛烈な部分等はストイックさの極地と言っていいだろう。
2021年の紅白歌合戦でカンザキイオリの「命に嫌われている」を歌唱した姿はまさにそうした部分が誰しもに伝わるほどのものであったと思う。

こうした部分がなくして今日まで音楽活動を続けることはできなかったであろうし、ドーム公演や紅白出場等が実現することもなかったであろう。
SNS等で発信される刹那的な生活や、自分自身を蔑ろにしているような部分を見ているとその弊害も少なくないのではないかと思うが…それについては後述することとする。

最後に、「利他主義者」である。
まふまふがリスナーの為に配信時間を考慮し、CDをはじめとしたグッズやライブのチケット等の値段をなるべく安価に抑えようとしていることや、自身の見聞や体験を踏まえて活動者のサポートを行っていること、ネットシーンで活動しているアーティストやクリエイター達が活動しやすい環境にするために努力してきたこと等は特にそう感じさせるには充分であった。
利他主義を前面に出す利己主義者は腐るほどいるが、そうした中において非常に珍しい奇特な人物だと思う。

これはインタビュー等を読んでいて感じたことであるが、まふまふは活動を始める前からずっと人の役に立ちたいと思っていたが叶わなかったという部分が根っこにあり、「まふまふ」として活動を始めてから特に人の役に立てるようになったと考え、それで意識的にか無意識的にか利他的に振舞おうとしている部分もあるのではないかと思っている。

まふまふはかつてそらるとの配信において、自身の悩みとして「自分が楽しいと思えることがない、相手が楽しそうにしていると自分も楽しい」ということを語っており、他人が喜んでいると自分も嬉しいという趣旨のことは他の場でも度々発言している。

他人の喜びが自分の喜びというのは珍しいことではないし、誰しもがそうした部分を持っていると思うが、まふまふの場合は単にそうしたことにとどまらないところがあり、それは尊敬に値する魅力であると同時に危険さをはらんでいる部分がある。それについても後述することとする。


リスナーとして今、まふまふに思うこと


ここまで個人的に素晴らしいと感じるまふまふの人間性の長所の部分について書いてきた。だが、それらは全て短所となり得ることもまた事実である。その部分についてはこれまで抱いていた思いと共に、まふまふへの諫言ともいうべき内容をここで記すこととしたい。
たかだかリスナーごときが偉そうに言う義理はないという意見も当然あるだろうし、そんなことを書いたところでどうなるわけでもないと言われることは百も承知の上である。

まふまふの性善説的なところは、裏を返せば人のことを信じすぎていて人の悪意に鈍感であり騙されやすいということでもあり、事実そうなっている。
先日のツイキャスで自身の欠点として「善悪の判断がつかない」「この人が良い人なのかどうかということが全然わかんない」と語っていたように、本人も自覚があることだろう。
リスナー目線からしても「ちょろい」「世間知らず」なところがあったことは事実で、まふまふの過去の発言を思い返してみても最初は警戒していても会って話せばすぐ「良い人」判定をしていたり、多少ご飯に行っただけで仲良いと言ってみたりする危うさがあり、単刀直入に言えば「人を見る目がない」と感じることもしばしばあった
いつかそれで大変な思いをするのではないか、気を付けてほしいなあと心配していたが、案の定であり時既に遅しだった。

まふまふは経営者でもあるし様々な人と関わり、仲良くしなくてはいけない立場であることは充分理解しているが、本当の意味でこれから仲良くなれる人間や信頼できる人間は見定められるように、人を見る目を養ってほしいと切に願っている。

もちろん、人を見極める能力というのは現実的にはかなり難しいことだと思うし、まふまふに限らずそれが出来れば苦労しないというのはその通りである。それだけの情報を得られない状況であるならば猶更だ。
しかしながら相手の本性は少し喋ったり、食事に行ったり、ゲームをしたりする程度で分かるようなものでは決してないし、それだけで相手を良い人と判断してしまうのは早合点であることだけは強調しておきたい。
特にまふまふ程の人気や立場のある人間であるならば、今までもこれからも悪意や目的を隠して善人面をして近づいてくる人間は少なくないだろう。
特に第一印象が良すぎる人間や、媚び諂って近づいてくるような人間にはくれぐれも警戒するようにしてほしいし、付き合い方には気をつけてほしい。

とはいえ、このような点については今後は周りの頼れる友人達に相談するようにするということなので、ぜひそうしてもらうのが一番良いと思う。
そうした中で人を見る目が養われていくことを期待したい。

次に、まふまふのストイックな部分については、意志の強さの表れでもあり、悪く言えば頑固なところがあるということに他ならない
まふまふが心原性の失神で倒れて以降も、そらるや自身のリスナーから何度不摂生の極みのような食生活を窘められてもそれを改善する気がない部分(本当は改善しているのかもしれないが配信等での発言からはそうは思えない)や、極端なまでのダイエットを周囲から心配されても辞めようとしない部分、先方と交際、結婚することについて周囲や関係者から反対を受けていたのを押し切って結婚した部分等はその典型だと思っている。

まふまふに比べれば若輩である自分がこんなことを言うのも何かもしれないが、自分の信頼できる友人や家族達が反対するような恋愛、結婚を強行して上手くいくことはほぼない
もしかしたらロミオとジュリエット効果となってしまったのかもしれないが、くれぐれも今後はそうした場合には慎重に冷静になれるように気を付けてほしいと思う。
そして何より恋愛や結婚はお互いを支えあうものであり、哀れみや同情心だけで決断するべきではないし、当然一方的な関係では上手くいかないし、それを継続したところで結果として自分が疲弊することになってしまうものである。実際そうなってしまったことだろう。
また、長期的な交際や結婚を望むならば、同棲も不可欠であると思う。

もちろん、まふまふの人生はまふまふのものであるからどのように生きようが自由である。特に「まふまふ」としての活動はまふまふが好きなように、やりたいようにしたら良いと思っている。

だが聞くべきことを聞かずに突き進んだ結果、傷つき苦しむことになってしまうのは他の誰でもないまふまふ自身であるし、それによって傷つき悲しむのはまふまふだけではなく、周囲の素晴らしい友人達や応援してくれるファンも同様であるということだけはゆめゆめ忘れないでほしいと思う。
これまで以上に健康や食生活にも気を遣うよう心掛けてほしいし、それが結果としてこれから先多くの人を救い、導くことに繋がるはずだ。

まふまふの場合、相手に気を遣ってしまうあまりに、本来人に頼るべき場面でも周りに頼ったり相談することが出来ず、自己完結しようとして苦しんでしまう傾向が少なからずあるのではないだろうか。
今回の騒動でも、毎日おかしいと言われ続けたら自分がおかしいんじゃないかと思ってしまうという趣旨の発言をしていたが、おそらくは反復バイアスや学習性無力感に陥ってしまい、思考ロックの状態になってしまっていたのだろう。
先述したようにまふまふの周囲には素晴らしい友人達がいるのだから、そうした気心のいらない人達にもっと頼っていいし、何事につけても相談するようにしてほしいと思う。
そうした状態になる前に何人もの人に相談し、頼ることでこうした事態になることは避けられるはずだからだ。

最後に、まふまふの利他主義的な部分についてだが、まふまふの場合のそれは自己犠牲をも厭わない、あるいは自己犠牲を伴っている部分がある。

この点については過去にそらるがまふまふに対して「犠牲にならなくてもいいなら犠牲にしないほうがいい」「自分を大切にすることも大事」「自分が犠牲になるよりも自分を大切にしながら相手の事も大切にしたほうがいい、その人の事を大切にしている人もいる」「まふまふは自分を犠牲にしてその時上手くいけばいいやと考えてるところがあるのが長続きしない一つの要因だと思う」という趣旨のことを言っていたことが思い出されるが、その意見に100%同意する。

ストイックの短所で述べたところにも共通する部分であるが、自分のことを大切にすることが、結果として周りのことを大切にすることに繋がるということをまふまふはもっと自覚してほしい。
そのことがまふまふ自身を守り、まふまふ自身を救い、結果として他の人達を守り、救うことに繋がることに他ならないからである。

自分を犠牲にしてまで利他を行なおうとする菩薩のような姿勢は心底尊敬に値すると思っているが、自分を犠牲にして他人に尽くすことだけが利他ではないし、それが最上のものでもない。
自分自身を大切にして、自分がやりたいことや自分が楽しいと思えることを追及した結果として、その他人に福徳がもたらされる、そのような形の利他もある。
現にまふまふは音楽の道を志し、「まふまふ」として活動を始めたその時から既にその利他を実践している。

まふまふは過去にNHKに出演した際に「まふまふ」を形成するのは自分だけではない、リスナーと共にこれまで歩んできた、一緒に活動してきたようなものだということを語っている。
勿論そうした部分があることも事実であるし、それを否定するわけではないが、忘れないで欲しいのは「まふまふ」としての活動を始めたのも、これまで継続してきたのもまふまふ以外の他の誰でもないということである。
確かにリスナーは応援してきたし、一緒に盛り上がってきたが、我々リスナーというのは本来的にまふまふが活動していく中で生まれた副産物であるに過ぎず、まふまふありきの存在に過ぎない。

まふまふは自身のリスナーに配慮したり、遠慮したりして活動を行ってきた部分があることは間違いないであろうが、先述したように「まふまふ」としての活動はまふまふがやりたいようにやってもらいたいと思う。
例え自分がやりたいことと、リスナーが望んでいることが相反して悩むことがあったとしても、自分がやりたいことを優先しても全く構わないのだということだけは声を大にして言いたい。

もしもまふまふが3年前に悩んでいたのと同様に今でも「自分が(自分だけで)楽しいと思えるものがない」、他者ありきな存在だと思っているとするならば、それは無意識か無自覚なだけである。
他者を抜きにして自分自身で「楽しい」「やりたい」と思えている部分が一切なく、自分自身のためという部分が全くなかったとすれば、今日まで音楽や「まふまふ」としての活動を続けることはできなかったはずだ。
音楽の道を志したことも、ギターを始めたことも、音楽に熱中するようになったことも、「まふまふ」として活動を始めたことも、苦手だったライブをやりたいと思えるようになってやるようになったことも、誰かしらの影響を受けた部分こそあれまふまふ自身がやりたい、楽しいと思ったからに他ならない。

決して他者ありきではない、確固とした自主性をまふまふはちゃんと兼ね備えている。このことは一リスナーに過ぎないといえども断言するし、自信を持ってほしいと思う。


これまでも、これからも


自分はこれまでと同じように、これからもまふまふのことを応援する気持ちに変わりはない。
もっとまふまふの歌を聴きたいし、彼の作る音楽を聴きたいし、一層人として成長してこれからどんな活躍を魅せてくれるのかを心から期待している。

色々好き放題書いてきたが、人として素晴らしい部分も、不器用な部分も両方あってこそまふまふであることもまた間違いない。
そのような人間・まふまふをこれからも応援していきたいと思っている。

まふまふ自身は騒動を受けて、次のようなツイートを行なっている。

しかしながら、こちらとしてはずっと前から胸を張って応援してるし、「俺はまふまふが好きだよ、音楽もそうだし、人としても尊敬してるよ」と堂々と人に言えるほどの人物である。

そのような声を聞いてもまふまふは「そんな大した人物ではない」「もっと向上しなきゃいけない」と恐縮したり謙遜したりするのかもしれないし、実際そう思ってるんじゃないかと感じるが、あんまり自身のことを卑下したり、卑屈になったりしないでほしいと思っている。
そういう気質は今後も変わらないのだと思うが、そこがまたまふまふらしい部分であるとも言えるだろう。

最後にここまで長文、乱文をお読みいただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。


PS(まふまふさんへの弁明)


万が一にもないと思うが、もし何かの間違いでこのノートがまふまふの目に留まってしまった場合の弁明文として…

まふまふさんへ

過去の発言の数々を掘り起こして赤裸々に様々に言及し、好き放題言ってしまって申し訳ありません。
まふまふさんからしたら「それは違うよ」「そんなことないよ」と思う部分が部分があるかもしれません。
何か問題があれば即時に訂正、削除するので「brokenarrrrrrrrrあっとまーくgmail.com」までご連絡いただければと思います。

自分も辛かった時期にまふまふさんの歌と音楽に救われ、寄る辺としながら今日まで生きてきました。
いつかあなたに感謝の気持ちを直接会って、目の前で言える日が来ることを夢見て、これからも生きていこうと思います。

どうか心身を大切にして活動してください。これからも応援しています。
まふまふさんの未来に幸あらんことを。

あ、出来れば可愛い感じの女の子向けのグッズだけじゃなくて、バンドマンやミュージシャンが出してるみたいな、かっこいいグッズやシンプルなグッズも少しはあると買いやすいので、そこのところは検討していただけるとありがたいです(..'﹃ '..)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?