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銭湯と身体/外付け庭園

一日のうち、いつ日記を書いているのか。今日こんなことがあったな、といういわゆる日記的回想のほとんどは、風呂で行われている。朝の出勤時間と昼休みにその回想を思い出してトピックをメモすることが多く、それらがいい感じに発酵してくるのを待って、本文にダダダっと書き起こすのはなぜか退勤直後が多い。

こっちでの自己紹介において、「どこに住んでるんですか」というあるある質問に対するカウンターとして繰り出す「銭湯の上に住んでいます」はキラーフレーズとなりつつある。「銭湯の上に住んでいる人」という名乗り方をするだけで、自分のパーソナリティについてちょっとだけ滲み出して伝わるものがある気がする。物件に巡り合った際の引きの強いエピソードと、直島銭湯を担当していた話までできればさらによし、という感じだ。

都市における銭湯の効能は、身体性の回復にある。東京に来てまず感じたことだけれど、人間ひとりの占める面積に対してシビアな場面が多い。物理的圧迫を受ける満員電車に限らず、例えばチェーンのコンビニやカフェでも田舎の同じ系列店とは店の作りがそもそも違うとか、同じ値段で住める物件の面積がとても小さいとか、「生きてるだけで場所を取る」感がする。狭いだけじゃなくて、個人主義的に切り取られていて共有地が少ないので、はみ出してここまでは延び広がりを持っていい、みたいな感じも少ない。必然的に、なんていうか縮こまった身体性をしている人が多い。直島に住み始めたとき、おねえさんからばあさんまで島の女はなんかエロいよね(これはありありとした生物として存在している感じがする、という意味なんだけれど)という話をしていた気がするけど、その逆というか、個体の匂いが極端に薄い感じがする。そしてそれはその人が悪いのではなくて、環境からそうあるように要請される、ということなんだと思う。

まあでも私は、瀬戸内で得たのびのびした身体性をキープしたい、奪われたくない。広い家に住んでいるわけではないけど、我が家には銭湯がある。銭湯に入ると、単に温まってリラックスできるというだけじゃなく、自分に身体があること、身体が空間を占めていること、質量があること、ただの生き物であることをちゃんと思い出せる感じがするのでとてもよい。

自宅の機能のうち、風呂だけ大きい面積で外付けされているのはなかなか愉快だ。我が銭湯のなかでお気に入りのスペースは、電気風呂の端っこのビリビリしないゾーン。ここの段差の部分で半身だけ浸かる。好みの温度よりも結構温度が高いので長湯はできないけれど、江戸っ子的にぱっと入ってさっと出るコツも心得た。電気風呂のビリビリゾーンが好きなおばあちゃん、水風呂とジェット風呂を往復するお姉さん、仁王立ちで浸かる韓国マダム二人組、みなそれぞれのスタイルがある。近所のスタメンは、1人分の風呂を沸かしたり掃除するのが大変な高齢者と、狭い部屋に住んでいて時々大きい風呂に入りたい若い世代に二極化している。


日記をいつ書いているのか。ほかに日記的回想を行っているタイミングとして思い浮かぶのが、休日の新宿御苑。もうすっかりヘビーユーザーだ。直島の積浦に住んでいたとき、とりあえず月曜の朝は琴弾地(つつじ荘のあたり)でぼーっとする、みたいな習慣があったのに近くなってきた。これも自宅の外付け、身体性の回復と延長のための場所。

広い新宿御苑だけれど、もう大方のエリアは回って、ゾーンごとに来ている目的や属性が異なることもわかってきた。明らかに年パス勢が多そうなエリアもちらほらある。最近のお気に入りは巨大樹のエリア〜母と子の森のエリアで、庭園というよりはかなり森っぽい。そこで過ごす人たちは、植物や動物に興味関心がある人、一眼レフを首から下げているカメラが趣味の人、何時間も同じベンチで読書している人、自然観察に来た虫取り網キッズなどの属性が多い。土の上をあるく小道や、虫も多いので、服装が他のエリアと違うのが特徴。

他エリアを見渡すと、海外からの観光客、芝生で映えるピクニックをしている女子、近所のおしゃれ喫茶店で珈琲をテイクアウトしてきたカップル、バトミントンやボール持参で身体を動かしに来たファミリーなどのウキウキ属性から、レジャーシートや日よけなどのグッズで小さく城を形成して日陰でうとうとしている夫婦、本気のランニングをする人、そのへんのベンチにパソコンを持ち込んで仕事をしている人、など普段遣いの民まで様々。入場料があり、飲酒ができないので比較的治安がよく、安心してそれぞれの人が過ごしたいように過ごしている感じが心地よい。

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