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被投的企投

髪を切った。

20年ほどずっと肩下に伸ばし続けていたロングヘアを、ばっさり、ショートカットにした。人生で初めてのショートカット。髪にはさみを入れる音が、今までになく近くて思わず身震いする。

似合うかどうかは別として、変化はさまざまに起こった。まず、髪を洗うのが楽過ぎて洗った気がしない。乾かすのが楽過ぎて、乾かした気がしない。それから、「えりあし」という部位の存在を知った。チクチクしたけどだんだん慣れてきている。薬局でどきどきしながらはじめてのハードワックスを念入りに選ぶ姿は、さながら男子中学生のようだ。

何より、そわそわするのである。物理的に自分を覆うパーツがなくなって、剥き出しにされている感がはんぱない。女性の方は、うっかりノーブラで出掛けそうになった時のことを、男性の方は、うっかりスカートを履いてみてみた時のことを(一回くらいあるでしょ?)ぜひ思い出して頂きたい。あんな感じなのだ。恥ずかしい、心もとない、いやーーーん。

ロングヘアという鎧を脱ぎ捨てた結果、世界と接する面積が物理的に増えた、ということもあるのだろうが、わたしは、こんなに世界に投げ出されている存在だったのか、長い髪の中でぬくぬくしきたけれど、ほんとうの自分はこんなに危うい存在だったのか、ということに突如気がついてぞっとした。

と同時に、鎧を脱ぎ捨てた自分の可能性にも気付いた。今まで自分はこれこれこういうタイプだから、と決めつけてしまっていたことを、容易に乗り越えられる気がするのだ。あれだけ似合わないと思っていたショートカットでさえ切ってしまえばなんとかなるのだから、あれもいけるんじゃないだろうか、これもありなんじゃないか、自分から線を引いていた理由がつまらない思いこみだったんじゃないか、と。もっと自分から世界に企てていかなくちゃ、とも感じるのである。

…というような以上の話をひっくるめると、哲学の用語でいうところの「被投的企投」になるらしい。ショートカットの哲学は深い。

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