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あたらしい日記

 静岡県三島市を訪ねた。文学フリマ東京で出会った「波と緯度」の二人が、日記にまつわる連続企画「あたらしい日記を生きる」をすると聞いて、波と緯度ファンの私が行かずして誰が行くと思い馳せ参じたのであった。「日記が書けない」の日記は、SNSを通じて波と緯度の本人二人に読んでもらう機会を得て、その日記の感想をさらにもらう、という交流が生まれる状態となっていた。

 波と緯度の二人に関しては、5月の文学フリマ東京での短い立ち話と、二人の(でもどちらが書いたのかはわからない)日記、あとはinstagramでのメッセージのやり取りくらいしか情報がなかった。プロフィールはまるでわからないのに、日々の詳細な質感の部分だけ知っているというのは不思議な関係だ。でも、きっと仲良くなれるはずだと思ったし、何なら、もうずっと長い友達でいるみたいな気分さえあった。
 
 イベントの前に甘味処で二人が落ち合うとのことで、同席させてもらう。例の文学フリマ東京の日の日記の話からはじまって、互いに「いったい何者なの?」みたいな話から、内藤礼とかヴァンジ彫刻庭園美術館の話などもした。滞在時間は30分ほどだったけれど、直感に従って三島へ来てほんとうによかった、と思う。
 
 CRY IN PUBLICというオルタナティブ・スペースへ移動して企画が始まった。みんなの自己紹介では、これまでの日記遍歴なんかを話した。日記を書いている理由もスタイルもひとそれぞれ、そしてCRY IN PUBLICの磁場で集まっている人たちのムードに圧倒されつつ、はじめて来た人も安心して口を開ける空気があった。

 今回の主催の一人、書店ヨットの菅沼さんが持ってきた一冊は、小沼理「みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに」。何を書いたらいいか分からない人はとりあえず日記を書いたらいいと思う、という私が日記を書きはじめるにあたって後押しになったのと全く同じフレーズを紹介してくれて、そのフレーズについて最初の日記「日記を書こうと思う」にも書いていたことを思い出せた。
 
 波と緯度の二人からは、二人で共通の場所に日記を書いていく営みについての話。日記は、出来事を覚えていたい、あとから読み返したい、みたいな保存の働きが強い傾向にあるものだけれど、波と緯度の試みでは書いた瞬間に誰が書いた日記か分からなくなる、だから書くことで手放せる、という話には衝撃を受けた。日記のある箇所について褒められても、ふたりともどちらが書いたか完全に分からない、思い出せないこともあるらしい。二人で書いていれば、片方が書いた内容に応答したくなったりするものだと思うけれど、そういうことはせずに、二人が互いの日記に共感するわけでもなく、しかし同じ場所にそのまま存在できる、ということは大大大発明だと思った。
 
 CRY IN PUBLICの西山さんは、毎日書くことはままならない、という話をしてくれて、その代わりに他の日記の書き方(ある人の一日の過ごし方や思考が記録されて一冊の本になっているものとか)を紹介してくれた。そのおかげで、私も日記を書いているけど毎日書くことはとてもできない、という話ができた。書けたときも時間軸があっちこっち行ったり、話題もいろんなものを跨ぐ形になってしまうし、でもあくまで日記を書こうと思って取り組んでいるんだよなあという気持ちもある。正々堂々日記と呼ぶことに後ろめたさを持っていたけど、そういうのも含めて「あたらしい日記」でいいんじゃない、と言ってもらった気分。
 
 これから一ヶ月、各自が自分が思う、自分にとっての「あたらしい日記」を生きて、また8月に集まることになった。どんなことが可能だろうか、と考えつつ、自分にとっては「日記を書こうとしている自分」があること自体がこの数ヶ月とてもあたらしいモードだなということがわかった。

 あの夜は一体何だったんだ、と思うような、ディープに日記について考えた時間だったけど、終わったあとは5人で中華に行ってわいわいご飯を食べて、たのしく話した。とても数時間前に着いた街とは思えないくらい居心地がよかった。水の景観が美しく、三島の街の魅力にもすっかりやられてしまった。

 友人夫妻がやっている「山小屋書店」のポッドキャストにゲスト出演しないか、という話があったのも同じ頃。「山小屋書店」はまだ実店舗はないけど、ときどきイベント出店なんかはしていたりするみんなの心のなかにある書店。ポッドキャストでは、基本的に毎回一冊の本を紹介している。
 
 なんの本について話そうかなと考えて、やっぱり日記本かな、とそこはすぐ決まった。日記について考える切り口としてやっぱり面白いと思ったから、「波と緯度」の話をすることにした。
 
 「波と緯度」のすごいところは、この特殊な形態の日記について考えることで、普段日記というものをどう定義づけているか、それをどう打破するか、みたいなことを考えさせる力があるところ。

 日記を書くことは、主語を自分に取り戻す作業であること。読み手のことを考えると、それに対して境界線を緩めあう作業であること。あとは、人の日記に自分が登場することの思った以上の嬉しさについては、ポッドキャストで山小屋書店の二人と話しながらようやく言語化できた気がする。三島に行った日、身につけていた赤いイヤリングが、波と緯度の最新のGoogleドキュメントに登場したときは嬉しかった。私の日記を泣きながら朗読したと言っていた彼女のこと、そんなに?と思っていたけれど、ああこれは泣いちゃうかもな、と思った。

 日記のノンフィクション/フィクション性については、紀貫之「土佐日記」からドラマ「架空OL日記」まで飛び出したり、思ったよりずっとちゃんと日記研究トークだった。

 日記を公開してみて分かったことは、見てくれる人がいるということと、意外と見られてないな、ということの両方。ZINEもそう。開かれつつ閉じているあり方はポッドキャストと似ているねという話になって、なんでそもそも山小屋書店はポッドキャストをやっているのか、という問いに発展したのは予想外で、でもとてもいいテーマだった。

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