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世界一の観覧車

 無性に観覧車に乗りたい。 

 ものすごく観覧車に乗っているわけではないし、ましてやデートで観覧車に乗るなんていうベタなこともしたことがないのだけれど、やはり街を眺望することには独特の楽しさがある。なので、展望台や観覧車は割と好きだ。ひとりで乗ったこともある。 

 ただ、ひとつ問題がある。中心を向いて観覧車に乗れないのだ。無数の鉄骨が織り成す無機質な模様を見ていると、急にその高さが具体性を帯びてきて、背筋がぞくぞくするのである。「この高さは、これくらいの数の支えがないとめちゃくちゃ危ないんですよー!あなたはいまその先っぽにぶら下げられてるんだけどね!」とでも耳元で囁かれている気がしてならない。高所恐怖症ではないけれど、ものすごく高いのはやっぱり怖いのだ。 

 なので、観覧車に乗りこんだら、いそいそと鉄骨が見えないサイドの席に座る。さりげない感じで死守する。景色だけがどんどん広くなっていく。頂点を少し過ぎて鉄骨が見えてきたら、ゴンドラが揺れやしないかとひやひやしながら、そそくさと反対側の座席に移動する。よし大丈夫、高さは抽象的なままだ。わたしはなんかよく分からないしくみで宙に浮いている。やっほー!観覧車一周のうち、全体の8分の5をすぎたあたりから、急に余裕が出てくるのはどういうしくみなんだろう。緊張していた身体がほっと緩んだのもつかの間、気付けば地上におかえりなさい、といった具合なのだ。 なんでこんな思いをしてまで乗りたいんだろう。

 観覧車に関して、最近どきりとした一節がある。

 「観覧車ってどれも世界一高いんだよ」(中略) 「いったん乗ってしまえば、どれでも、この観覧車が世界のどの観覧車よりも高い眺望が楽しめると思ってしまうんだ」

 (辺見庸『反逆する風景』「一九九五年三月に消えたごく小さな観覧車」より)

 つまり、観覧車に乗るということは、いつも初めての高さを味わうことみたいなのだ。簡単に言ってしまえば、「女の子はいつでも今が初恋でしょう?」というのと同じ類のことだと思う。葛西臨海公園で乗った100メートル級の観覧車も、祖母の家の近所にある小ぶりな観覧車も、おなじくらいのドキドキを私にもたらす。シンプルで、無意味だけど、決して慣れることのないドキドキ。 懲りずに乗ってしまうわけである。

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