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横断的に読む/うっすら重ねる

 東京に来て、しんどい部分は当然いろいろある一方で、これまでずっと地方で抱えていたある種の絶望感がなくなった。いくら自分ひとりが何か思っていたとしても変えるための手立てがないとか、同じレベルで課題を感じている人がいないとか、この感覚を共有してくれる人はいないとか、そういう種類の孤独はいつの間にか遠くへ行ってしまった。世界には先駆者や理解者や同士がいる。適切な場所にいけば、初対面でも高い精度から対話をはじめられる場面が多くて、ああ説明しなくていいんだ、ここでは普通のことなんだ、という安心感がある。人間の数の母数が多いと、辺境の人であれそれなりの数になる、そういう点では息がしやすい。

 文学フリマでもそう感じた。「日記を書いてる人っているのかな」と思ったときに、これだけ多くの人たちが日記を自由に書いてそれぞれの形で発表しているという事実に、ドンと胸を打たれた。しかも、やってる人はいっぱいいるから自分なんて…という気持ちには一切ならなくて、それぞれが好き勝手にしている、それがそのままで尊重されている、だから自分も好き勝手にすればいいんだ、と思えた。

 話題の日記本界隈の著者の方も個別でブース出展している人がちらほらいて、言葉を交わせた。インターネット上でふんわり知っていた人とか本とかにも出会えたし、はじめましてのお店の人とも気軽に交流できた。ひとつ前の日記に書いた「波と緯度」の著者のお二人が、その日記を読んでくださって、それぞれ熱いメッセージをくれた。葛藤していた半年でしたが報われた、とメッセージにあり、ああ書いてよかった、と思った。

 買ってきた日記本を横断しながらあちこちちょっとずつ読む。違う人の視点から、同じ日のことが語られる。別の本に、突然同じ出来事が登場する。同じ人が、違う形で日々を記録する。それぞれのささやかな語りが、重層的に織り上がって、景色がぼんやり浮かび上がってくる。やったことのない読書体験だ。「日記をつけた三ヶ月」の冊子の最後に、参加したメンバーの日記をコラージュして作られた連詩があって、これもとてもよかった。

わたしがホッキョクグマについて1分間しゃべりだしたとき
けっこう危ういテーマのような気がして、
でも誰とでもできることではなくて、
だからこそ今日の空間がとても心地よかった。

「日記をつけた三ヶ月」連詩より抜粋
※日記を書いて読み合うワークショップを行った参加者が、
最終日にこれまでに書かれた日記の中から言葉を抜き出して一行ずつ作った連詩

 日記というとどうしても個人の内側のドキュメンタリー的な側面が売りであることが多くて、そこが面白い一方でちょっとだけ息苦しい気がしていたから、複数人で何か一つを紡いでいって、結果もとの現実から好き勝手な方向へ離れていく、という作業がいいなと思った。あくまで構成要素は現実を生きている人たちの野生の言葉であって、それぞれの生へのリスペクトありきで用いられている、日記版の本歌取りのような感じ。それぞれの個の生活がうっすらうっすら重なって、無限に重なっていった先に浮かび上がるのが社会とか時代とかの正体なんだよな本来は、などと思う。

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