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日記が書けない

日記が書けない。

昨日、編集者の白石正明さんが、著者が書けないときどうするかという質問について、書けないこと自体も切り口になるから、語りにくいということについて語ってくださいと言う、と答えていたのでその戦法を借りてみようと思う。

文学フリマに行った。下北沢の月日に行ったときに知った、日記をつけるワークショップの人たちがまとめた「日記をつけた三ヶ月」のブースに行ったら、メンバーの方が別のブースも出していると紹介されて、そっちにも行ってみた。

そこで出会った「波と緯度」というZINEは、一見すると普通の日記なのだが、実は書き手が二人いるという。同じGoogleドキュメントを、とある日は片方だけが書いたり、とある日は一人が書いたものにもう一人が書き足したり上書きしたり、どの部分を誰が書いたかがごちゃまぜになっていて読者にはそれがわからない。だから、その通りの一日を生きた人間は存在しておらず、そういう意味ではフィクションだが、一方でノンフィクションでないかと言われるとそうでもない。

どこかのだれかの唯一無二の、現実に起こった経験であることが、他者の日記を読むことのよさであると思うのだけれど、一方で、あまりにも個別具体的すぎる日記は面白くない。読んだときに共感したり反発したりする材料にならないから。だから、できる限り個人の秘密を覗き見るような性質を持ちつつ、かつ普遍性をもつことがいい日記には要請されると思うのだけれど、案外それって難しい。

「波と緯度」の著者の方と話しているうちに、「日記を書いていると、だんだん自分自身という存在が邪魔になってくるときがあるんですよね」という言葉が自分の口からぽろりと出て、ああそういうことだったのか、と思った。これは書こう、これは書かない、という自分の内側での検閲も嫌になってきちゃうし、書いてるうちに矢印が内に向きすぎてしまったりするのも嫌。もっと抽象度を上げてしまえば楽だけど、それでは日記にならない。読者的な視点だけを置いて書けたらいいけど、起こったばかりのホカホカの出来事から幽体離脱するのは容易じゃない。

そんなこんなで、書いたものを直してしまう。

また白石さんの話だけれど、「書き直した本は売れない」みたいな話もされていて、要は文章に勢いがなくなるから読み手も面白くないのだ、と。キュアとケアという概念があるけど、悪いところを治して良くしましょうね、というのが一般的なキュアの考え方、本来その人が持っているもので完璧だ、というのが白石さん的なケアなのだけれど、編集も同じで、編集者の仕事は「なおす」ことではなくて、書き手が本来持っている部分が発揮できるようにお世話をする、すなわちケアすることなんだと言っていた。

日記をつけるワークショップでは、最初は赤の他人だったメンバー同士に徐々に関係性の変化が生まれ、その場のなかで書ける内容というのも変化していったという話を聞いた。受け止めてくれる人たちがいる、という安心によって引き出される何かがあるとすれば、それは相互のケアなんだろうなあと思う。このくらいまでは書いてもいいかな、そのまま出していいかな、という海岸線をゆるりと変化させていくことが、書けるようになるということなのかもしれない。

「波と緯度」の著者プロフィールと聞いた情報から、たぶん花椿の「今月の詩」に選出された作家さんなんだろうなあと思い、花椿から資生堂、資生堂ギャラリーでいまやっている展示のことを思い出した。文フリでもうすでにお腹いっぱいのクタクタだったけど、この足で行かなければならない気がして銀座へ。

「shiseido art egg」第17回の作家のうちのひとり、岩崎宏俊氏による「ブタデスの娘」。実写映像をトレースしてアニメーションを制作するロトスコープという技法を使った映像作品がメインだった。一見すると、トレースなんだからそれは現実の再現だろう、とも思えるかもしれないが、岩崎さんに言わせると、私たちは思い出すたびに記憶を再現しているのではなく生成しているんじゃないか、ということらしい。

個別の記憶は誰かが残さないと消えてしまうという感覚でありつつ、でも「この映像に日付はない」というような過去でも現在でも未来でもあるような普遍的な形で出力しようとする感覚、二つが両立していて、こういう感じもありなんだ、と思った。

起こったことを具に書き起こす記録的な手法を取ることに慣れておらず、一日で一区切りという時間の感覚もあまりないようで、自分はすこぶる日記に向いていないタイプなのかもしれないけれど、岩崎さんのドローイングみたいな日記(どういうものなのかはまだよくわからないけど)ならやってみたいかな、という気もした。

こうやって日記を書くことについての日記を書くみたいなメタ的な視点に立とうとするのも嫌なところじゃん…と思ったりもするが、「日記研究日記」みたいになってしまってもそれはそれでいいか。

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