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I WAS MADE FOR LOVING YOU

久しぶりに一日中現代アートをぶっ通しで見て、しかもすごく真剣に鑑賞者であろうとしてみて、ヘロヘロになった

I WAS MADE FOR LOVING YOU/サエドッグ
インスタレーションの部屋には1時間強座っていて、そういう人間がひとりいると何をするでもなくても、全体の磁場が変わって、鑑賞の度合いが変わってくる
(デ・マリア室や母型なんかで日常的に起こっているアレ)みたいなのも久々に
現代アートの美術館なんて実験室なんだから、普段の行動規範を適用しなくていい、というのに慣れている
もし、電車のなかであの犬に出会っていたら同じようには振る舞えない

アクティブ・バイスタンダーであること
それ未満の、こちらからなにかしなくても、目を逸らさない、見ているだけでも何か起こる、無視しない、遠巻きに見ていることの勿体なさ、得られなさ
デ・マリアの階段、結界はないのに1段目を上がれない、上がっていいですかと聞けない、ジェスチャーで聞く人、躊躇いなく上がる人
今回の場合は上がっていいですかと聞ける人が犬に触れられているんだと思う

場のルールを理解するより先に、入室してすぐ自分のターンが来てしまった
大きな犬が、こちらに視線を向けてまっすぐ近づいてくる、緊張感
何もしないで、まっすぐそれを見つめている
目を合わせて、手に触れて、それから頭を撫でてほしそうにするので撫でる
横抱きにして背中も撫でる、傷に触れる、涙を拭う、「泣いてるの?」と声をかけてみたけど頭を押し当ててくるのみ
一度なつくと犬は離れたがらなくて、結構長い時間そばにいた

動画めちゃくちゃ撮られてんなと思った、30人くらいが見ているし、スマホがこっち向いてる
それでも舞台の真ん中にこの犬を放っておけないと思わせる何かがあったからやめなかった
鑑賞は外から眺めることじゃない、鑑賞する側とされる側は両義的
わたしも客体に回ったと勘違いしているあなたたちのことしっかり見てるからな、と思う

子どもはすごい、こわさ、得体のしれなさと好奇心のあいだで戦う、親が「触っちゃだめだよ」と決めつけていてなんかムカついたので「触っても大丈夫だよ」と言った、いきなりは触らせてくれないので、どうしたらいいか考えてトライしている
傷ついた犬と映える写真を撮ろうとする人、子どもに「もうちょっとこっち」と指示を出す親、グロテスク
犬がすり寄ってきても、指一本触れない人、でも見つめ合ってはいる
だいたいは、なんかちょんちょんと触って離れていく感じ、「動物ふれあいコーナー」のそれ、犬は一生懸命愛を受けようとすり寄るけれど十分には愛されない
その犬を、ちゃんと犬として扱っていた人が、その一時間でひとりだけいた
大型犬を飼っていた仕草が感じられる女の人、好奇でなく、愛を向けていることがわかってみているだけで胸がいっぱいになった
愛されている犬はとても嬉しそう、でも泣いていて傷ついている

ラテックス性、キュッキュッという床との音、不気味さと可愛さ、でもなぜか最終的にはどう考えても大きめの犬としか思えなかったから不思議、存在感が完全に犬なのはなぜだろう
一方で、ものすごい量の汗、中の人間の身体の生々しさも感じる、このポーズしんどくないのかな、きょうは暑そう、とか考えちゃう

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