見出し画像

4年前のこと①

2011年3月9日、大学の合格発表があり、無事志望校への入学が決定。その翌日の10日には、受験前に放置して腰くらいまでのスーパーロングになっていた髪を切って、はじめてのパーマをかけた。「パーマがとれちゃうから今日は頭洗わないでね」という美容師さんの忠告どおりにする。このあとしばらく髪が洗えない事態になるとは。11日、どこかへ出かけようとしたが、家の中で右手の小指をなぜか強打し、何となく不吉な感じがして出掛けるのをやめる。ルールル、ルルル、と「徹子の部屋」を見た後、のんびり昼寝をしていた。大きな長い揺れ。今まで震度6強も体験済みだったが、レベルが全然違った。黒々としたゴシック体で「死」という漢字がゴゴゴゴゴ…と目の前に現われたのを覚えている。その時は「宮城県沖地震」というものが数十年に一度必ず来ると教えられていたので、それが「ついにきたんだ」と思った。食器棚を押さえようとしている母に「そんなものどうでもいい、生きてればいくらでも片づけられるんだから離れて」というようなことを叫んだけど、文法がめちゃくちゃになって上手く喋れなかった。しばらくして大きな揺れは収まっても、ずっと揺れていた。棚の上のものは落ち、ガラス類が割れて飛び散っていた。アップライトピアノが定位置よりも1mほど前進してリビングのど真ん中に。部屋のなかはぐちゃぐちゃだったが、思ったより原形をとどめているのでかえって驚いた。建物の形がなくなったかと思っていたのだ。とにかく足元が危ないので、スリッパを履いてガラスの破片を片づけた。そのあとでやっと外の様子を確認。マンションの駐車場に集まっている人たちがいたので、階段で下りる。エレベーターは停電で止まっていた。マンションの住民と「大丈夫でしたか」と声を掛け合う。みんな何が起こっているのか分からなくて困惑していた。普段はあまりしゃべらない人とも何故かすんなり話せた。不安な気持ちを共有するようにしばらく身を寄せ合って、これからどうするかを話し合った。ワンセグでテレビ中継を見ていた人が声を上げる。「仙台空港に津波が来てる」。はじめは言っている意味が分からなかった。映像を見せてもらっても、これがどういう意味なのか分からなかった。空港がどれくらい海から離れているのか分からなかったが、「自分がこの足で立ったことがある場所に海の水が押し寄せている」という事実がとても恐ろしかった。小学生の子どもを持つお母さんたちは学校に迎えに行くことを決めたようで、最初に動き始めた。妹の高校が徒歩10分ほどのところにあったので、学校に行けばもっと情報もあるかもしれないとも思い、母と二人で妹を迎えに行くことにした。その間、何度か家族に電話をしたが、つながらなかったと思う。

②につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?