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ふれる

「掌を机に乗せて、ぺたっとくっ付けてください。確かに机に触っている、と感じますよね。さて、この時、あなたの掌の何分の一が実際に机の表面と接地していると思いますか。」

講義室の大半の学生が、机に手を乗せたまま考える。教授が尋ねる。学生は質問の意図がよくわからないまま当てずっぽうで数字を答える。8割、7割、なるほどね。3割、えー、いくらなんでも少なくない?

「正解はね、一万分の一らしいんですよ。嘘だろって思うでしょ?」

私たちは、掌に溝があることなんて普段まったく考えもしない。指紋やら、掌のくぼみやら、名前はよく分からないけれど、とにかく人間の手にはとてつもなくたくさんの「でこぼこ」が存在しているのだ(腸にあるでこぼこを広げるとテニスコート何面分、とかいうイメージに近いような気がする)。それを私たちは知らない。知らないからこそ、「机の上に手がぴったりくっついている」と感じることが出来る。そういうことらしかった。

これは言いかえると、「ぴったりくっついていると思っているものが、実は一万分の一もくっついていないことにすら気付かない鈍感さ」のうえに、我々の普段のあたりまえの生活が成り立っている、ということである。もし、自分の掌が「やっべー、一万分の一しか触れてねえよ」と感じ取る能力がある人間がいたとしたらどうだろう。机に触れているときも、猫ののどをごろごろしているときも、誰かと手を繋ぐときも、たかが「一万分の一」なのである。その人は一生「触っている」という感覚に満たされないだろう。考えただけでも地獄だ。発狂してしまう。

けれど、ときどき立ち止まって思いださなければならない。掌の一万分の一がせっせと感覚器官を働かせ、それを想像力で補ってくれているから、私は普通に暮らしていける。あれにも、これにも、「ちゃーんと」触れることができるのである。そんなことに思いを馳せながら、そっと机に手を乗せる。

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