見出し画像

アイアムアイ

少し前のことだけれど、旅先で「アイアムアイ」という名のカクテルを飲んだ。

四月、世間ではすでに新学期が始まろうとしていた。私はというと学校へは行かず、船に乗った。旅行と言っても目的もなければ滞在日程も決まっていない、いわば逃避行だった。理由は、まあ色々あるんだけれど、ここでは割愛。とにかく、もうとにかく、物理的に逃げた。

その日は、観光地らしいところは行かず、その辺の商店街とか、その辺の住宅街とか、そんなところばかりをうろうろしていた。一晩泊まる宿を決め、チェックインを済まし、再び街に出る。

ふらりと入ったその店で、メニューに「アイアムアイ」の文字を見た。自分の居場所がわからなくなって逃避行に出掛けた旅先で、「アイアムアイ」だなんて皮肉なこともあるもんだな、と思った。でも何となく気になって、頼んでみた。アイ・アム・アイ。ちょっとだけ言うのが恥ずかしかったのは、ここだけの秘密。

そのまま石膏の彫刻にして部屋に飾っておきたいような、首から肩にかけての骨格が極めて美しいお兄さんが運んできてくれたそれは、KAHLUAにespressoとmilkの入った、苦くて甘い味だった。アルコール度数は高くなさそうなのにやたらと酔いがまわったのは、素敵なお兄さんの微笑みのせいだったのだろうか。ぐいぐい飲みほして、ふらふらと宿に帰った。

翌朝目が覚めると、あら不思議、私は「大丈夫」になっていた。アイアムアイ、私はワタシ、なのだ。そう簡単に変わってしまうものなんかじゃない。帰ろう、おうちへ帰ろう。そうして、私はその逃避行を終わらせることに決めたのだった。「アイアムアイ」は、魔法のカクテルだったらしい。その証拠に、あれから2カ月経った今でも私は「大丈夫」のままだ。

もしもまた魔法が切れて「大丈夫」じゃなくなってしまったら、あのカクテルを飲みに行こう。丸一日船に乗って、それからバスに乗って、電車に乗って、さらにもう一本電車に乗って、降りたら大通りから3本くらい路地に入る。外階段を上がって、二階がお店。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?