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4年前のこと②

母親と妹の高校へ向かう。あれだけ揺れたのに、住宅ばかりのこの一帯には、これといった大きな変化は見当たらなかった。道を急ぐ人が多い。明らかにいつものこの時間帯とは人の流れが違う。高校に着くと、生徒たちが講堂に集められていた。妹はあっけらかんとしていた。自力で帰れる目処がついた者から解散となったようで、三人で帰ることに。近所の魚屋さんが開いていたので、そこでパンを買った。いつも魚だけでなくお惣菜なども置いているお店。どれも美味しい。電気・水道・ガスが止まっていることは確かだったので、この時すでに母は夕食の心配をしていたようだ。帰宅してからは、とにかく日が沈んで暗くなる前に出来ることをしようということになって、各部屋からろうそく、懐中電灯、ラジオなんかを掘り出した。だんだんと暗くなるにつれて寒さも増してきたので、今までにしたことのないような着込み方をした。最後に帰宅したのは父だった。全身ひどく雪まみれだった。父は自転車で通勤していたが、もっと家の遠く交通手段の無くなった同僚に自転車を貸し、自分は歩いて帰ってきたと言っていた。家族が全員揃ったところで、ひとまず「今日の夜を乗り切る」ために必要なことを済まそう、ということになった。水道が止まってトイレが流れなかったので、2リットルのペットボトルを2本、トイレに常備することに決める。浴槽には、昨日の桜の入浴剤を入れたお湯がまだ残っていたので、それを汲んで使った。なので、水道の止まっていたあいだ、我が家のトイレはずっと桜の香りのするピンク色の水だった。普段よりも不便で不衛生な暮らしのなかで、そのいつもと違う桜色だけが妙に浮いていた。夕食は、カセットコンロで調理した。ガスボンベにも限りがあって、いつ手に入るか分からなかったので、調理時間は節約した。冷蔵庫の中で傷みやすいものから順に食べることにして、肉類をひたすら焼いて食べ、冷凍の餃子なども食べたと思う。こんな家族団欒の時間は久しぶりだったので、嬉しかった。ろうそくの明かりだけで食べる夕飯に、少しわくわくしてしまう自分が嫌だった。お腹がいっぱいになったところで、ようやく自分たちが置かれている状況がいつまで続くのかが不安になり始めた。「この出来事の全体像」みたいなものが全然分からなかった。中学校のはんだ付けの授業で作った懐中電灯付きラジオがこんなに役に立つ日が来るとは思っても見なかった。ジージージーとラジオの発電装置をせっせと回す音が、いつもと違って静かな夜のなかで、ひときわうるさく感じられた。でもこの発電装置を回すことだけが、唯一自分に今できる生産的な営みみたいに思えて、ずっと回していた。ラジオから聞きとれた情報はわずかなものだったけれど、それでもとても勇気づけられた。用事のない電話が私は好きだ。人の声というものはどうしてこんなに安心するのだろう。電気のない夜は長く、20時ごろには全員ふとんに入ったと思う。動き回っているうちはあまり考えないようにしていたけれど、体を横たえてみると、絶えず揺れていた。怖かった。

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