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インスタに載せてない花/ののはな通信

instagramに載せている花だけが私の花のすべてではない。noteに書いてあることが私の日々のすべてなわけがない。「人生はドラマではないがシーンは急に来る」とくどうれいんが言っているけれど、こんなんあの坂元裕二だって書けやしないんだからと思うシーンだって多々ある。

日記が書けなかったのは、書いてもいないうちから書きたいことに蓋をして、別のことをなんとか書こうとしてたからだったらしい。突破口として、下書き保存だけの日記も書きはじめたら、とたんに書けることの自由度が上がって、めちゃくちゃ日記を書けるようになった。すべてを晒すことが日記の目的ではない、行間に書かれていないことがあるという前提に立ってしまえば気が楽だ。「日記、別にフィクションでもいいじゃんスタイル」の発見により、出力の仕方を工夫すればいいのかもと気がついたのも大きい。紙媒体に落としたときのアイディアも出てきた。

現在の生活の記録は、紙の手帳、スマホのメモ帳、noteの下書きにある日記と、出力している日記、4つの階層が存在している。手帳は出来事の箇条書きだけ、何時にどこで何があったか、食べたもの、体調、引用の走り書きなど。忙しいと書かなくなる。スマホのメモ帳はネタ収集用のような感じで、思いついたタイトルの一部とか、自分のなかでの小見出し的なものの列挙。印象に残った光景とかそれへの感想とかも短文で書いてある。

noteに下書きしているだけの日記は、もうそれなりの数が蓄積されていて、むしろそっちのほうが本編。SNSの投稿なんかも、結局一番心が動いた瞬間とか大ニュースについては書けていないことが多くて、下書きに痕跡が残っていたりするのをしばらくして発見したりする。でも意外とみんなそんなもんなんじゃないだろうか。他の人の日記を読んでいると、量が極端に少ないけど含みがあるなとか、飛んでいる日付と日付の合間のなにかありそうな気配とか、そういうのは時々見つかって、本当は膨大ななにかがぎっしり・びっちり・ずっしりあるんだろうな、と想像できる。

ここまで書いて思い出した。三浦しをんの小説に「ののはな通信」という全編往復書簡のみ(手紙もしくはメール)で構成された小説があるけれど、あれも似た構造だ。交わされる手紙と手紙のあいだに出来事があるはずなのだけれど、読者はそこを想像するしかない。シーンは直接描かれないし、断片的にしかわからない。時間の流れもスケールが大きいので、読書体験の消費カロリーがとんでもなくデカいのだけれど、「書かれないことのよさ」を発見できる作品だ。坂元作品も重要なシーンでセリフがなくなったりする。沈黙には理由があり、黙っている人はお喋りだ、というのは美術鑑賞やカウンセリングの現場における実感でもある。「書けなさ」は書く人にとって普遍的なテーマで、書かれていないことに目を向ければ読み方も変わってくるのかも。

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