可哀想な儂に悲しき過去…
自分は、元不登校だ。理由は色々あるがまあいじめだ。そして、受験でメンタルを病んで、ようやく入った大学を精神疾患で1年休学していた。そんな感じなので腹を割って話せるような友達もいない。コミュ力もついでにない。なんて可哀想な自分。実際自分のことは可哀想だと思っている。時々「可哀想な儂」になって、悲劇のヒロインであるように錯覚する。
だが、自分は本当に悲劇のヒロインなのだろうか。もしそうだとしたら、自分よりもっと可哀想な人はどうなる?小学校からずっと学校に通えなかった人は?親から虐待を受けている人は?親に愛されなかった人は?先天的に障害がある人は?大きな病を患ってしまった人は?
もっと具体的な例も出す。自分が最近追い始めたタレント、アレン様は少年院に入っていたことがあるそうだ。どうやらいじめが原因で非行の道に走ってしまったらしい。そんなアレン様は現在SNSや著書で🌰🈵(アレン様のファンをそう呼ぶ)に寄り添い、力強い言葉で励まし元気づけている。それはきっと、数え切れないほどの苦しみや悲しみを抱えて、受け入れてきたからこそ仰ることができる言葉なのだろう。
もう亡くなってしまった人でも、自分より可哀想な人なんて有り余るほどにいる。中原中也なんてとんでもなく可哀想だ。幼い頃に弟を喪って、実の子供もとても可愛がっていたのに、みんな夭折してしまった。どれだけショックを与えていたかは中原が遺した詩を読めば痛いくらいに分かる。
自分が悲劇のヒロインになれるなら、上に挙げたような人たちはみんな王様になれるだろう。いや神にだってなれる。
だから不幸自慢は不毛だ。どれだけ自分の「可哀想」を語っても、それよりも可哀想な人はいる。その上自分の可哀想を、「や、誰々に比べたら大した事ないから」としてしまう。人間それぞれに可哀想な事があって、それぞれ時にはうずくまってしまうほど苦しんでいるのだから、無駄な諍いしか生まない。それに心の苦しみを大した事ないとどこ吹く風でいるのは不可能だ。いずれ精神疾患という形で現れる。
もういっそ可哀想に押し潰されて命ごと消えてしまえばいいが、生きることは簡単にはやめられない。もちろん、耐えきれなくて衰弱してしまったり死ぬ決断をしてしまったりする人もいる。
でも自分は生きている。生きているのだから、生きることを続け続けるしかない。悲しき過去ももう過去なのだから、ありのまま受け入れるなり抱えるなり乗り越えるなり忘れて成仏させるなりしなければならない。何かしなければ明日には歩いていけないのだから。
なんて可哀想な自分。