三國志人物伝 袁紹

後漢末期の群雄の一人 最高位は大将軍
(?〜202)
188年 中軍校尉(西園八校尉の一つ)に就任
189年 何進の暗殺を受け、宦官を皆殺しにする
190年 反董卓連合の盟主に就任
191年 韓馥に冀州牧の地位を譲り受ける
192年 界橋の戦いで公孫瓚に勝利
197年 大将軍に就任
199年 易京を陥落させ公孫瓚の勢力を滅ぼす
200年 官渡の戦いにて曹操に大敗
201年 倉亭の戦いにて再び曹操に敗れる
202年 病没

袁安から四代に渡って三公を輩出した名家であった汝南袁氏に於いて、若くから宗族の長の候補として目されていたという。小柄ではあったが秀麗で威厳のある容姿をしていた。
実父は生後間もなく亡くなっており、叔父の袁逢(司空)・袁隗(司徒)に育てられる。

20歳で濮陽の県令に任命されると清廉との評判を得た。母が亡くなると3年の喪に服し、さらに父の喪にも服した。6年間の服葬の後、洛陽に隠れ住んだ。

宦官の趙忠らは、袁紹の行動を不審に思い危険視していた。叔父の袁隗は、一族を滅ぼすつもりかと袁紹を叱ったという。何進の掾に召されるとようやく官途に就くことにした。侍御史・虎賁中郎将と累進し、188年には中軍校尉も兼ねた。

189年、霊帝が崩御すると後継者争いが起きる。
蹇碩を返り討ちにした何進は妹の何皇后の息子劉弁を即位させ、外戚として権力を握る。
更に十常侍ら宦官の一掃を謀り董卓らの諸侯を洛陽に召集する案を献策し採用させた。
折り悪く何進が宦官に暗殺された。袁紹は宮中に兵を進め宦官を皆殺しにした。

洛陽の混乱に乗じて召集された董卓が軍を進め都を制圧。
そのまま実験を握ってしまうと、袁紹は冀州に逃亡した。

190年1月、皇帝をすげ替えるなど専横を極める董卓に対して橋瑁らの呼び掛けにより諸侯が集まる。
袁紹は反董卓連合の盟主に就任した。しかし董卓軍の精強さを恐れ一向に戦わず。
董卓は廃した劉弁を毒殺する。
2月に入ると董卓は長安に遷都を行った。また、盟主の袁紹に対する形で董卓は袁隗らを三族に渡り処刑する。
3月に入り痺れを切らした曹操らが董卓に挑むも敗北。

191年に入ると袁紹は劉虞を皇帝に立てようと画作するも周囲の反対や本人の固辞により断念。
陽人の戦いで孫堅が華雄を討ち取ったものの、大きな戦果を挙げることはなく、袁紹派と袁術派の権力闘争の様相を呈していた連合は崩壊した。

増長する公孫瓚に怯える韓馥から、冀州牧の地位を譲り受けると華北にて公孫瓚との戦いが始まる。

192年、界橋の戦いで勝利する
翌年公孫瓚は劉虞を殺害。劉虞の旧臣達が反乱を起こすとこれに連携し公孫瓚を撃破。公孫瓚は難攻不落の易京城に籠る。
この戦いは199年に地中を掘り進めた袁紹軍が易京城を陥落させ終結。公孫瓚を滅ぼした。

献帝(劉協)が長安を脱出した際には、擁立するかどうかで家臣団が対立するも董卓の立てた劉協を快く思わず、曹操に擁立を許した。実権を握った曹操によって爵位が送られるも曹操より下の位であったことに抗議。大将軍となる。

曹操が中原の諸勢力を破り勢力を拡げると関係が悪化。
二大勢力の様相を見せるようになった。

公孫瓚を破り黄河の北側をおおよそ支配した頃、劉備が曹操に対して反乱を起こし独立。袁紹を頼った。
配下の田豊は、これに乗じて南進し曹操を叩くべきと進言するも息子の病を理由に拒否。
袁紹の動きを警戒していた曹操は、袁紹軍が動く気配が無いことを見るや劉備を直ちに蹴散らした。

翌年ようやく南進を決意する。
家臣団の中でも持久戦か速戦かに割れるも、袁紹は速戦を選択。食い下がる持久戦派の田豊を投獄してしまった。
200年2月、南進を開始する。
緒戦に顔良、文醜が討ち取られるも兵力に勝る袁紹軍はジリジリと前進する。

官渡に防衛線を引いた曹操は防戦一方。秋になると領内の反乱もあり退却を考える状況であった。
一方、袁紹軍では兵糧庫の防衛を強化するよう進言した沮授が軍権を削られるなど、内部対立が表面化していた。

10月、配下の許攸が膠着した戦線を打開するべく、許都を襲撃することを説いた。
袁紹がこれを受け入れず、また家族が罪を犯して審配に逮捕されたことで、曹操陣営に投降した。
許攸は袁紹軍の兵糧庫の場所と、守備の薄さを曹操に暴露する。
追い込まれていた曹操は、本陣の兵の半分以上を率いて急襲をかけた。沮授は兵糧守備の懸念を再び進言。また、前線の高覧・張郃らも同様に兵糧庫の防衛を優先する進言を行った。
しかし、袁紹は郭図の半数の兵で手薄の敵本陣を攻め、残りの兵で烏巣に援軍する案を採用する。
あろうことか敵本陣の攻撃を高覧・張郃に命じた。
防衛と本陣への攻撃のいずれも失敗に終わり、兵糧庫は焼かれ高覧・張郃は曹操軍に離反。袁紹は歴史的な大敗を喫した。

翌年の倉亭の戦いにも破れた袁紹は202年病没。
袁氏の勢力は後継者を定めなかったことから後継者争いが勃発し長子袁譚と末子袁尚による争いで分裂。
いずれも曹操に討たれ袁隗の「一族を滅ぼすつもりか」という発言は現実となってしまった。
袁家が滅びた理由の大半は彼にあるだろう。

ただ、彼の統治は評価が高く魏の時代を超え晋の時代にすら惜しまれたという。袁紹の死に領民は嘆き悲しんだとされている。
容姿に優れ上品で寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握していたと言われる袁紹は産まれた時代が悪かったと言う他ない。政治的な能力は一般的な評価よりかなり優秀であることが見て取れる。

一方で謀略には向かず、群雄達を御する能力は足りなかった。
宮中の争乱に対しては場当たり的な対応が多く、戦においては判断ミスが目立つ。機を伺う能力には欠けていた。
彼の判断に失望して去った部下は少なくない。(結果としてその大半が曹操に流れているのも重要なポイントかもしれない。)

名家に生まれ間違いなく優秀な統治者であった彼は、しかし時代に求められていなかった。

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