思考のゴミ捨て場:大学行きたすぎて感情めちゃくちゃなってきた

 今、めちゃくちゃ大学へ行きたい欲が高まっている。これは5〜7年ぐらい前の時と同じぐらいに高まっているが、昔とは決定的に違うものが一つある。意欲のベクトルだ。

 昔であれば上手くいかない仕事という環境からの逃避、自分が苦しんでいる中、学生生活を楽しんでいる(であろう)同世代への羨望が主だった。結局、大学進学の本を買ったものの精神的な余裕もなかった事や、親が会社をやめる事を泣いてまで引き止めようとした事、極め付けは面談で上司によって、嘲笑的皮肉という形で遠回しに真理を突かれた事で諦めた訳だった。

 今はというと、あらゆる知識への欲求と、今の生活はまあ良いと思っているが、さらにより良いものにしたいという欲求の二つの柱で成り立っている。SNSを通して、溢れるほど存在する情報が物事の基礎も知らないような連中が並べた稚拙なデタラメだらけというのを思い知らされたし、国の政治が悪い方向へと向かってる中で、今の仕事がこの先もあるとは限らないのではないだろうかという不安、不器用なので犯罪やラップや書いた事もない百合ラノベでのし上がる事を目指すよりも学を積んだ方が堅実だろうなという考えがある。

 転職なり資格取ればいいじゃん?というツッコミは当然あるだろう。経済的にも時間的にもマストな選択肢だろうというのは分かっている。でも、今の環境で資格を取っても、転職して環境が変わっても(そもそも底辺校出身の高卒に就ける仕事があるのか?という疑問がある)高い確率で大学に行きたい欲や、行けなかった後悔を感じる事は自明の理だ。なぜなら精神的にどん底の時も、最高に安定した今も変わらずこの欲が出ているからだ。

 こうした感情の大元を突き詰めていくと、自分の人生の舵取りにおいて主体的な選択がほとんどなかった事を改めて思い知らされる。

 自尊心のなさから将来を放棄したまま高校を選んだ。ニートになると公言していたが、結局教師と母親に誘導され、なんとなく工業高校の電気科を選んだ。真面目さだけはあったので成績は上の方、親に言われてなんとなく決めたバイトで稼いでテクノのCDやゲーム用PCを購入できたので楽しかった。自分は万能だと勘違いしたのはこの頃からだった。地元で有名だからという理由でとある企業を選び、面接で失敗した後はかなり落ち込んだ。運良く受かり「これから社会人としてやっていく!」という気概があったが、社員研修で失敗して綻び、正式配属時には見る影も無くなっていた。それ以降は最低だった。ヘルニアと適応障害で休職を繰り返し、ひどい時はずっと悲しい気持ちが続き、仕事に行くか布団に潜るかしか出来ず、不眠症になった事もあった。その時は朝になるまで天井を見続け、Queenのオペラ座の夜やGrandmaster Flash & The Furious FiveのThe Messageを毎日聞いていた事が記憶に残っている。この時期、仕事を無断欠勤し、あらゆる連絡を絶って東京の安宿に3日ほど逃げた事がある。主体的な行動といえるかもしれないが、熱が出てたり精神的に正常じゃなかったので思考という点では主体的かは疑問だ。そんなこんなの結果、ようやく入社5年目で退職した。これは周りの意見を鑑みず、前もって立てた計画の元で行ったので、初めて主体的な人生の行動をしたと言えるだろう。1年無職を満喫した後、就労支援NPOに1年通いそこに就職し、親に絶対無理だと言われていた一人暮らしを2年続け今に至る。

 退職、一人暮らしと人生の大きな舵取りで主体的な選択をして(将来的な事を考えると失敗かもしれないが)成功を積み重ねた今、次の主体的な選択も上手くいくのではないかと思っているし、失敗しても納得出来るような気もしている。一方で、心の中では夢に出てくるほどあまりにも欲求が強く突飛なので、もしかして自分は躁状態に入って正気を失ってるのではないかという引っかかりもあるし、一度寝ると強い感情が収まる(でもしばらくすると出てくる)ので、本当に大学へ行きたいのかという疑問もある。自分が入学するであろう年齢の「30代 大学進学」について調べると必ずといって良いほど「就職のキャリアのビジョンが無いならやめとけ」や「鉄の意思がないならやめとけ」などと言われるが、考える将来に不確定性が強すぎて具体的な未来像が描けないし(まだ学部探しの段階)、意思が強いと言っても常人以上の意思があるかどうかと言われると口を噤んでしまう。そこに「こんな考えは10代後半でやっておくべきで、20代後半になってやるもんじゃない」という自分に対する呆れも生まれていて訳のわからない状態になっている。どうしたらいいのだろう?

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?