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前回ここに日記を書いたのが4月1日なので、ほぼ2か月書けない状態のままここまで来てしまいました。
私は自分を、もやもやした感情未満のものを何とか内言にして文章にして、ともすればそこで感情を初めて規定するような人間だと思っていました。なので2か月も放置するとは……、という静かな驚きをもってスマホに表示される日付を眺めてしまいます。
さすがに無理やりにでも何か書いておきたいなと、メモ帳アプリを開いている状態です。

とは言え今月もTwitterには張り付いていました。自分でもツイート過多だなと思うくらい呟いていたし、ひとのツイートも見ておりました。
タイムラインのツイートもフォローしているnoteも、あるいはバズツイートのリプライ欄も流れてきたネットニュースも読んでしまいがちです。
基本的に文字を読むのが好きです。肉声と違って煩くないし。

さて、5月末ですね。

引き続き私事100%でいきます。
相変わらず住所固定無職です。
何ならまだ失業手当も下りていません(自己都合退職は支給までの待機期間があるので……)。
来月から色々と状況を変えたいと思っていますが、それがどうなるか結果待ちをしている状況です。

世の中がめまぐるしく変わり切迫する中で、悲観でもなく事実として何も貢献できない自分は、せめて世の負担を増やすことがないよう、極力引きこもっておりました。今もそうです。

最近も仲の良い(元)同期の友人と定期的に通話をしています。(元)弊社がこの世の中にどんな対応をとっているのか聞きながら、おつかれさまという気持ちも抱きつつ、胸中は複雑です。(友人のことは相変わらず大好きですが)

(元)弊社は広告宣伝費をわりとかけているので、TVをつければ日に一度は社名を見ることに。引越しをしたところで離れられないなあと思うばかりです。
精神面では(精神面…?)、今だに番組やネットで酷いクレームの話を見るたびに実在しないクレーマーに憤ってしまうし、夢には同期や職場のパートさんがしばしば登場します。これはすぐ忘れられるものではないだろうな。
(ところでこの架空の人間について怒るということ、何物も変えることがなく本当に無駄なので止めたいです)

辞めてよかった!と心から叫べるほどに嫌いな会社ではないし、でもあの職場に戻れるかと言うと、仮に声をかけてもらったとしても戻れない。戻りたくはない。
自分の中で折り合いをつけるしかないのだなあと、3か月近く経つのにまだそんなことを思っています。感情に進捗がないな……?

同時に最近、合理化なのか分かりませんが、離職には「土日開催のイベントに参加するため」という前向きな理由もあったのだなと、そう思うようになっています。

前職において、売上をとるべき土日に、社員は基本休めませんでした。上司に言えばシフト上の休みを貰えることもあったけれど、自身に役職もついて言い出すことがどんどん難しくなっているのを感じていました。後輩に土日休みをあげることはできても、自分はそんなに申請ができない。気持ちの面で。
そのわりに私には行きたいものが沢山あって、それが浮かぶたびに、でも行けないだろうなあと考える。奇跡的にたまたま休みだとしても、シフトが出るのが直前すぎて申し込みができない。

完全週休2日制土日休みの人を恨みそうだったし、「(シフト制を)自分で選んだんじゃん」などと言われようものならその人のことを確実に嫌いになるだろうと思っていました。いや、面向かって言われたことがないので、これもまた架空の人間であって、だからやっぱり架空の人間を脳内にわざわざ作り出すのは止めた方が良いなと思います。
土日に働いている人間がいないと、土日休みの人は買い物や娯楽を味わえません。必要な存在であるとは思っており、また平日休みは休みで人混みが少ないというメリットはあります。

ただ私は、本来は何に制約されている訳でもない(天地がひっくり返ろうと絶対にその人生を送らなくてはいけない訳ではない)のに、自分は「行きたい、行けないなあ」の諦めを今後ずっと繰り返すのか、なぜ?と思ってしまいました。思ってしまった。
そして私は「なぜ(→そうすべきか、あるいはそうしないべきか)」を考えるのがわりと得意なので、というか仕事でそういう研修を受けてきたので、掘り下げて考えてしまいました。

過去に何度もここに書いてきましたが、「趣味/生きがい(正しくは、何とか自分を生きながらえさせるもの)を思う存分楽しみたい」という思いと、「(元)弊社が好き、貢献したい」という思いとのバランスが、上司やその時の評価等々によって完全に崩壊しました。結果、後先考えない退職に繋がった訳ですね。

(過去の自分にもう一度言うけれど、自己都合の失業手当は3か月後から支給だし、去年の収入をもとに算出された国民健康保険は「は???」と口から出るほど高い。なぜか社保の2倍どころではない。のでもう少し後先を考えても良かったとも思う)

横道に逸れましたが……
だから多分、好きなことをしたい、という前向きな退職でもあったはずです。
後悔しそうだから無理やりそう思おうとしているのかもしれないけれど、仮に過去に巻き戻せるとして続きからやり直せるとしてもあの職場に戻りたいとは思えない。から、そういうことだということにしておきます。
経験を無駄だとは全然思っていないし、次の職に役立てば良いなと。というか履歴書の社名が役立つなら役立ってくれ……(心からの本音)

と、以前にも書いたことを散々繰り返してしまいましたが、そんな感じで仕事を辞めたのに、この情勢で、イベント自体がなくなってしまいました。

5月のコミティアと7月の文学フリマ札幌。
どちらも参加できていたら、その時期/場所のサークル参加は初めてだったのですが…。

中止を決断してくれた主催さんたちに関しては、英断だったと思います。早めに決断してくださって感謝の思いもあります。
費用も時間も大量に注いでいるものに対して、はい中止します、って簡単に決められるものではないと思うのですが…。

また個人の話に引き戻すと、今まで「自分で設定した、次の楽しい行事のために生きる」という生き方をしてきたので、イベントがなくなるという事態は悲しいことでしたが、それでも、俯瞰の自身が想像していたよりもショックは受けませんでした。

この時世で、開催すべきでないと考えていたというのもあるし、世界が健康になってから集まりたいと思っていたのもあります。
それからたぶん、今回の不参加(実際は中止ですが)が、「行ける可能性もどこかにあったのに自分で諦めた」訳ではない、からだろうなあと思っています。
不可抗力であることが、逆にショックを薄めている。

私はたぶん、大体のやりたいことは意思さえあれば何とかなると思っている。例えば、本当に世界一周旅行に行きたければ何もかも(仕事も)投げ捨てて行けばいいし、本当に海外に住みたいなら住んでしまえばいい、と思っている節があります。
「行きたい、行けないなあ」とうだうだしている自分が、一番嫌だったのは仕事じゃなくて自分だったのだろうな。

なので今回のイベント中止は、とてつもなく、とてつもなく残念ですが、突然の停電のような衝撃/ダメージではありませんでした。
強いて言うなら多少心の準備をしていた計画停電というところでしょうか。

あとはおそらく、平日は料理をし、いつも同じ時間に栄養をとり、極力湯船に浸かり、わりと早めに眠る、そうした健康的な生活が、継続的なイベント設定で対抗するべき、希死念慮をだいぶ薄めているのだと思います。
喉の閊えを感じる時間も、何もないのに涙が出てくる瞬間も、電車を待ちながら今飛びこんだら、と考える時間も以前に比してかなり少ない。
希死念慮が仕事のみによるものであれば今回の逃亡によって完全に消え失せたのかもしれませんが、そんな短い期間の話ではなく。
仮にそうであれば「ストレプトカーパスの零し言」なんてドッペルゲンガーの物語は書いていないので……(唐突に自作の話)

それはともかくとして、さまざま思うところがあったり日記を書けない期間があったりしつつも、今は割合かなり、健康です。
来月以降もそう在りたい。

ここまで書いておいて、後先考えずに仕事を辞められた幸運や、この時世において何もしないでいることへの申し訳なさなんかを思います。
新聞やニュースやツイートを見ていると日々、さまざまな問題に直面している人の話が立ち現れてきて、それは必ずしもそのひとの責任だと糾弾することができる問題では無いなとしみじみ感じます。

共感を強めすぎてニュースを観られない時もありながら、同時に、残念ながら私は他人の環境を慮れる性質では無いのだと実感します。

私はさまざまに恵まれていて(あえて具体例をあげずにいますが)、もう長いことこの背中に貼り付いている死にたさも、甘えだろうと思うひとがいるかもしれない。
「例えば世界一周に行きたいなら行けばいい」という比喩さえ、性善説というか、夢は願えば叶うと豪語しそうな傲慢さを、我ながら感じます。

環境の違うひとのことを考えると何も言えなくなってしまう。悪戯に傷つけることを避けるために何も言うべきではないのではと思ってしまう。
それでも何も言えない(言語化できない)ことは自分を澱ませるので、どうしてもこうやって書いてしまいます。
私事と前置きをすることで毎回免罪符を振りかざしながら。

……何を書きたいのかますます分からなくなってきました。5月の日記を躊躇わせたのは、そういう居た堪れなさに寄るものかな、と、やはり文章化して読み取れるものがありますね。

先日、最果タヒさんのエッセイ「コンプレックス・プリズム」を読みました。
冒頭のエッセイから泣いてしまい驚きましたが、最後のエッセイ「言語化中毒」を読んで、ああ私もそう(言語化中毒)なのかもしれないと、ふと思いました。
(この本については今度、別で振り返りたいと思っています)

何もかも言ってしまうことが、けして正義でも正解でもないのに、ただ他ならぬエゴのためにこうして書いて残してしまう。
noteは後で見返すので、実際自分のためには役に立っているのだけれど。

今回もそんな5月の日記でした。
月の総括であるなら、月報と言うべきなのかもしれません。

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