人生が余白でできている


 これは純度100%の自分語りなので最後まで読めばあなたはあなたの貴重な人生を数分無駄にする。ようこそ、ここはゴミ溜めだ。

 何事も長続きしない人生だった。
 「嫌いなものこそ目を逸らしちゃダメだ」と思って始めたものは大抵3日と続かない。好きな事もすぐ飽きた。1年続いた趣味は私にとって長かった趣味だ。そんなんだから私の人生には気がつくと特筆すべき事が何も残らなかった。
 得てしてインターネットという場所には何らかのドラマを背負った人間が目に付きがちだ。ブラックな会社で精神ぶっ壊した人のTwitterとか、自殺未遂が辞められなくて何度も繰り返す人のnoteとか、愛犬を亡くした主婦のはてブとか。何かしらの理由があってハプニングが起きていて、そこから立ち直ったり立ち直れなかったりする人達。
 その一方、私は毎日生きるのが辛くて常に生まれてきたことを呪っているが、なにか原因がある訳では無い。病気や障害の診断もない。家庭に恵まれ、友人に恵まれ、デブではあるが健康には違いなく、そんな中で私が勝手に失敗を繰り返して自滅したという普通の失敗した人生だ。

 はっきり申し上げて私は今無職である。なんか理由があっての無職ではなくて、純粋に色んな会社の求人に応募して色んな会社にお祈りされまくっているだけだ。繰り返すようだが、何かがあって前職をやめましたとか、学生時代にいじめられてましたとか、そういうのがほぼない。プレーンな無能からくる無職だ。
 本当に、ぼーっと生きてきたんだろうな、という自覚がある。手元に残ったものがみんな半端だからだ。私にとってはその時その時一生懸命生きてきたつもりでも、世間的にはどうもこれは頑張っていないカウントらしい。

 例えば、幼稚園児の時代から英会話を習っていた。文法だとか単語どもを覚えるのはめっぽうダメだったが、どうもネイティブの発音のモノマネだけはうまかったらしく大人ウケは良かった。大人がチヤホヤしてくれるのが嬉しかったので英語は好きだったけれど、まあ中学とかになると英語が喋れたくらいでチヤホヤして貰えなくなるし、なんなら単語と文法が覚えられないならテストとして手元に残る成績としてはウンチである。
 現在私の手元にあるのは大昔にとった英検2級だけだ。英検2級、何に使えるんだろう。履歴書に書けるギリギリすぎるし、どうせ世間はTOEICにしか興味ない。というか、TOEICももう「古い」ものになりかけていると聞いた。お手上げだ〜い。こんな感じで、幼少期は得意だった英語はコンプレックスに変化を遂げた。こんなような話の繰り返しで今まで生きてきた。

 陰キャのオタクくんとしての自我が目覚める前から絵を描くことが好きだった。幼稚園で私は最もマーカーとおえかき帳の消費スピードが早かった(たぶん)。学校に進んでも、休み時間は絵を描いていることがほとんどだったし、配られるプリントは用済みになった時に裏にお絵描きできる紙だった。絵が上手だね、と大人に褒められるのが嬉しかった。で、そういう道を辿った少年少女は大抵画家になりたいだとか漫画家になりたいだとか言い出すものだ。私もご多分に漏れず絵で食って行きてえという気持ちを抱えた子供だった。
 しかし、もっと絵が上手い同級生が山ほどいたので、さらに彼女たちでさえそれを本職にするのは厳しそうで、その夢は割とすぐに蒸発した。
 現在、私はまだインターネットお絵描きマンを続けているが、画力で言ったら中学校でプリントの裏に描いていたあの頃からひとつも進歩はない。むしろ昔の方が毎日描いていたぶん上手かった。こうして大好きだったお絵描きもコンプレックスに変わっていった。

 中学時代に放送部の顧問からスカウトを受けて声優を志したことがある。その頃私は既にアニメ文化に毒された痛いオタクくんだった。もしこれを読んでいるあなたも痛いオタクくんであるか、あるいは知り合いに痛いオタクくんがいるのであれば想像に難くないと思うけれど、痛いオタクくんという生き物はとかく声がデカいのである。さらに、アニメばっか見ているものだからアクセントだけはそんなに歪んでいなかったりする。人付き合いで生徒会選挙に参戦していた私の公約スピーチが顧問の目に留まり、私は放送部に勧誘された。
 勧誘されたと書くとまるで私の溢れんばかりの才能が顧問を突き動かしたかのようだ(当時私もすっかり自分の才能を過信していた)が、地元の中学放送がマイクに声さえ乗れば評価される甘っちょろい世界なだけである。入部2ヶ月の地区大会で見事初出場優勝を果たした私は、県大会で爪痕ひとつ残すことは無かった。そんなもんだ。

 ここで懲りれば良かったものの、あろう事か私は進学する高校を部活で選んだ。もしこれを受験生が読んでいるならガチの忠告をするが、部活で高校を選ぶのはダメだ。学力と通学時間で選ぶべきだ。
 私は部活で高校を選んだ結果、(第一志望校には惨敗し第二志望の)当時の私のそんなに高くなかった学力よりさらに偏差値の低い、家から2時間の高校に進学した。結果として、私はその偏差値の低い高校の中で落ちこぼれた。学校が遠いから早起きして、部活で遅くまで残って、土日も部活して、自分よりバカだったクラスメイトに成績は置いていかれた(言い訳すると私の頭が良かったとは当時から別に思っちゃいなかった。本当に、バカよりバカだったの!)。
 かと言って、部活でなにか残せたかと言うと半端なもんだ。県大会3位とかそこら。全国にすら届いていない。本来の私の性格なら県大会3位は飛び跳ねて喜んでいたが、先輩も後輩も全国大会に進出していたような部だったので惨めな気持ちになって終わっただけだ。ようやく私は声優への道を諦めた。自分の声と表現力がコンプレックスになった。

 ついでに、大学生活で自動車免許を取るチャンスついぞが無かったので思い返すと部活引退後のチャンスで取っとけば良かったと思うが、当時は引退後も部活に顔を出す必要があったのと春休みはそれからの開放感から脱力し何も出来なかったので運転免許証を持っていないこともコンプレックスだ。私にとってあれは真人間の証である。

 で、簡単入試で入った大学では、新しい目標に向けて(詳細を書くと身バレを避けられないのでふんわりした表現になってしまうが)総合大学で専門性のある勉強をしていた。勘のいい方はお分かりかと思うが就活難航コース一直線である。
 必死に講義に出ながら実習の毎日、もちろん土日も実習。チームで力を合わせて何かを作り上げるって素晴らしい!そういう充実した日々を送っていたが、気がつくと身体と頭がうまく動かなくなっていた。なにかの病気とかではなく、思考がめちゃくちゃ散漫になった。朝起きるのが下手になっていった。ものが覚えられなくなった。やっていることは楽しい筈なのに、期限までに完成させなければと思うと、それが出来ないとチームメイトや他部署の迷惑になると思うと、腰が重くなる。指導教員の顔色を伺うようになった。あれ?私はなにかをされたわけじゃないのに、ひどいことも言われていないのに、いつの間に話す相手のことを信じられなくなっているんだろうか?私の事を褒めてくれた先輩も、どうせ内心私の扱いに困ってるんだよね。笑顔で返事してくれる後輩も、本当はこんな上級生になっちゃダメだって思いながら付き合ってくれてるよね。だって期限は迫ってきてるから、私なんかのこといちいち相手してらんないもの……

 本当はずっとこうだった。中学校から始まっていた。高校もずっとこの調子だった。だから毎日母に「今日はこんなことがあって辛かった」みたいな話を聞いてもらっていた。そしたら、高校を卒業する際に母から「毎日そんなに辛かったなら、こんな高校入れるんじゃなかったよね。ごめん」と言われた。それが本当にショックで、私はただ話を聞いてもらっていただけのつもりだったのに母を傷つけていたんだと思って、反省した私は毎日大学の楽しい話しかしなかった。本当は上手くいかなくて辛いことや馬の合わない教員の愚痴は沢山あった。友達も少なかった。でもそれは人に相談していいことじゃないと思った。だから黙っていたら、出来たことが出来なくなっていった。自業自得だ。

 そんな暮らしを送っていたら、留年が決定した。実は、単位は落としまくっていたがギリギリ卒業に必要な数は足りていた。ただ、バタバタしている中で履修科目を決めたら、単位の種類みたいなやつを数え間違えており、ひとつ大学に認知して貰えない単位が出来てしまった。たったひとつ、単位の種類が違っただけで。でも悪いのは履修科目を間違えた私だ。実は100%私のせいではなくひとつだけ大学のせいで取れなかった単位があるのでそれが認められていれば……という点はあるが、それにしたって他の単位を落としてなければ留年なんかしなかった。
 はっきり言って、バカでも金払えば大卒になれるので有名な大学である。名前聞いたらあーあの金持ちバカ大学、とスッとイメージできる人も少なくないと思う。この大学で留年する奴は、サボりまくった奴かよっぽどのバカだ。私は出席日数にはめちゃくちゃ気をつけていてほとんどサボらず(ごく稀にサボった講義も結局実習の作業にあてていたので休まってないし)、体調不良以外で欠席していない。それでも単位を落としたのは、テストの点数が足りなかったり提出物に不備があったりしたためで、つまり私はよっぽどのバカだったので留年した。同学年同学部で単位を理由に留年・中退したのは私含めてたった3人。バカの大学で留年、ここに学歴コンプレックスが爆誕した。
 ひどい気分だった。ちょうど留年が決まった頃、同級生は就活を始めていたが、彼女たちは実習で扱う専門分野と関係ない一般営業や事務、接客で次々と内定を勝ち取って行った。本気でこの分野目指してんの私だけだったのかよ。そりゃそうだ、本気の奴は専門学校に行く。私だけが馬鹿みたいにガキの夢追っかけ続けてたんだ、みんな私がバカなのわかってて触らないようにしてたんだ。惨めだった。誰にも会いたくなかった。
 ふと、落ち着いた時に実習メンバーが私の陰口を言っていたことを知り、卒業公演を前に実習を断念した。ちなみに言っておくと、陰口を言っていたメンバーは性格が悪いのではなく、私に聞こえないように隠れて言ってくれていただけである。言われていた内容は私の実力からして全て正当な批判だった。
 その後、逃げるように所属したゼミで卒業出来ないのに卒業制作をして、半年を消化するように浪費しながら必要分の単位をもぎとり卒業した。留年ゴミカスクソ野郎に卒業式など存在しないため学生課に証書を受け取りに行き、名前も顔も知らん事務員さんに「おめでとうございます」と不織布のトート(証書入り)を手渡された時のどこがめでたいんだよクソ、という悔しさをよく覚えている。事務員さんだって仕事なんだからおめでとうございますと言わされているというのに、私の感想はひどい理不尽だ。

 で、現在に至る。職安に通いながら、なんの専門性もない、誰にでもできる、誰にでもできそうだけど真っ当に生きていけない私にはできるかわからない、「フツウの事務職」の求人をしらみつぶしに応募して片っ端からお祈り頂いている。厳密には、このステップの前に大学で勉強してきた専門分野の就活もしたがご覧の有様だ。正直、私もどうせ落ちるんだからと思いながら就活してたし。
 「フツウの事務職」を馬鹿にしているつもりは無い。あれは世の中でフツウに生きていくことが出来る人に許された特別職だからだ。私が毎度毎度専門分野の仕事ばかり目指そうとするのは、私に常識的な作業は出来ないと思ってきたからだ。頭の回転が悪くて、世間知らず、不器用、愛想もない、そういう人間が一般社会になんか出られるわけがない。専門職をそういう社会不適合者の受け皿みたいに捉えていたのだ。多方面に無礼極まりない話だ。幼い頃はそれがやりたい、きっと得意だという憧れから目指していた目標が、知らない間に「これがダメだったら死だ」にすり変わっていた。


 どれも中途半端に投げ出してきたが、どの夢も諦めると決めた時はちゃんと悔しくてその度に毎夜泣いていた。夢が叶わなかった事が悲しいんじゃなくて、なんでかイケると思っていた自分が本当に愚かで恥ずかしいだけだった気もする。事実、かつての目標だったものにはもはや執着も未練もない。何事も長続きしない人生は、こんなことすら簡単に諦めさせた。自分の経歴を見返すと、どれも本気じゃなかったんじゃないかと誰かの声がする。そんな気もするし、本気じゃなかったことにして自分を守ろうとしているだけのような気もする。
 そして気がつくと、したいことが無くなり、手元に残った"できるようになったこと"はひとつもなかった。


 こうしてこの文章を書いている間も、実は涙が止まらない。まとまりもとりとめもないながらに、なるべく砕けた、バカバカしい文体で書くことを心がけている。そうすればなんか笑い話になるかもしれない、みたいな可能性にかけての試みだ。結果、ずっとボロボロ泣いてスマホの画面を濡らしては拭き濡らしては拭き、嗚咽した拍子にうっかりゲロったりしながらのタイピングだ。
 生きていくのが辛い。生まれてきたくなかった。産んでくれなんて誰も頼んでない。生きたいなんて言ってない。でもこういう事を言っていいのは生まれついてのハンディキャップがあったり、他者から何かを搾取されたりした人達の筈だ。そういう人達がまだふんばって生きているのに(あるいは死を選ぶこともある。だか私はそれを勇気ある決断だと思うのでそれもまた偉いと思っている)家族に愛され、貧困に苦しむことも無く、友人にも恵まれ、まだ親のスネを齧って社会に出てすらいない私には、こんなことで涙を流す権利はない。ないのだ。それなのに毎日本当につらくて、毎日眠れなくて、寝たら寝たで起きれなくて、身体が重くて思考が鈍い。食うために生きるスタンスのデブだったがこの頃食事すら億劫になってしまった。
 「仕事がつらい」系のツイートばかりの友達を見たくなくて、「仕事がないのにつらい」私はSNSに浮上しなくなった。するとどうだろう、あんなに長い間一緒に遊んでバカやってきた友達とすっかり疎遠になった。当たり前だ。今のご時世、友達と文通も長電話もしないんだから。友情をそんなもんだとは思っていないが、自分のコンプレックスと向き合って職を掴まない限りは二度と会えない親友たちだ。

 自殺も何度か考えたことがある。でも甘やかされて育った私には、死は恐ろしすぎた。
 日雇い派遣バイトで手に入れたなけなしの金を握りしめて向かったホームセンターで、丈夫そうなロープを買った。首を吊りたかったからだ。いざハングドマン・ノットを習得しさらばこの世よまた来て地獄、覚悟を固めようとしたら自室の高所にはロープを引っ掛けられるような取っ掛りがどこにもなかった。そうだよ、自殺ってたいへんなことだよ、やめよ……。本当はドアの反対側に引っ掛けるとかクロゼットを開けるとかやりようはいくらでもあったが、すぐに思いつかなかった。思いつかなかったことにしたのかもしれない。
 不眠のためにお医者様から処方してもらった睡眠導入剤を余らせていた。よく眠れるが寝すぎるためだ。そいつを酒と一緒に一気飲みしてやろうとして、なけなしの金を握りしめて向かったコンビニでストロングゼロを買った。飲むだけで死ねるなら楽なもんだからこれなら怖くない筈だ。でも飲めなかった。結局ただのストロングゼロを1缶開けて、やっぱり甘いお酒の方が好きかも〜などと思いながらベロベロに酔ってただ寝た。翌朝、涙が止まらなかったが泣けば泣くほど二日酔いで頭が痛かった。
 もうめんどくさいので駅のホームから飛び降りるのが楽なんじゃないかと思ったこともあった。PASMO1枚持っていくだけで身軽に死ねるし、適度に世の中に迷惑もかけられるし(人間はヤケを起こすときどうせならめちゃくちゃ世界に迷惑かけちまえみたいな気持ちになる)と足取りも軽く駅まで向かった。本数の多い路線までわざわざ乗り継いだが、電車が来る度に足がすくんで動けなかった。まもなく何番線に電車がまいります、のアナウンスの度に気を引き締めるが、足に力を入れると変な入り方をして進まない。後から思い返すと、小学校で長縄跳びに入れなくて大泣きしたあの日によく似ていた。

 コンプレックスがひとつ増える度に、誰かのせいにしたくなる。でも誰のせいでもない。結局は努力の足りなかった私が悪くて、実力の伴わなかった私が悪くて、要領の悪かった私が悪い。無理矢理誰かになすりつけるなら私なんか産んだ両親が悪いと言いたくなるのだが、両親の教育は間違っていない。私が親の教えをしばしば守らなかっただけだ。正しい家庭に生まれ、正しく育てられ、何故か正しく育たなかっただけだ。私だけがこの世でクソで、ゴミで、生きてるだけで迷惑で、死んだ方がいい存在になってしまった。高い学費の高校と大学に入れてくれた両親を思う度に、そのどちらでも何一つ身につける事が出来なかった事を申し訳なく思う。
 この頃は毎日嫌なことばかり考えて泣いて、はやく就職しなきゃという焦りだけに突き動かされ、しかし身体は思うように動かず布団から出られないままの日々だ。ニートってこうやって生まれるんすね。食事も喉を通らないし、かろうじて担当さんの予約を取れた日だけはなんとか職安に向かい、Web上の求人サイトを使ってメールで企業とやり取りを数件するだけで一日にできることが終わる。あとは泣き疲れて眠るか、気晴らしにソシャゲをいじるかYouTubeでも見ている。気が晴れたことは無いので最近はほぼ触らなくなった。たった数ヶ月前なのに、イベントを走ったり、好きだったバーチャルYouTuberを追っかけたりしていた日々はなんであんな余力があったのかわからない。
 病院に行くことを勧めてくれたフォロワーもいたが、なんだか色々面倒な気持ちがあって行っていない。病名が付いたらさらに就職が遠のきそうとか、こんな理由でお医者様の手を煩わせたくないとか、私を可愛がってくれている両親(こんなダメな子供でも、もうとっくに成人していても、まだ私を支えてくれている。甘やかされているので)に生きていくのが辛いから病院に行きたいですなんて言えないとか。就職さえしていれば自分の給料で勝手にこっそり通院したかもしれないが、まあ職につけていたらこんな気持ちにもなっていないだろう。結局、ちょっと寝つきが悪いのでと2週間分の睡眠導入剤だけ貰いに行き、1晩しか服用していない。
 というか、病名もたぶんない。一時期Twitterで物議をかもした「自分をADHDだと思い込んでいるただの無能」みたいなひでえ言葉があったが、たぶん私がそれにあたる。(※あの言葉は本当にダメだと思いますよ。多方面に傷つく人がいるはず。)病名がついたらついたで人生おわりうんちぶり、と思って凹むし、病名がつかなかったらつかなかったでナチュラルボーンゴミクズであるという医学的証明がなされるなんて怖すぎる。地獄の二択ガチャみたいなもんだ。


 職安で、己の惨めさに耐えきれなくで窓口で号泣した事がある。したいこともなければできることもないのにいっちょ前に社会に出たいなどと、その割に怠惰な感じの毎日を浪費しているくせにのこのこやってきたんだ。また私は窓口で職員さん(いまの担当さんとは別の人だ)の貴重な、きっと意義のある人生に、なんの身にもならない余白を作ってしまった。職員さんは「まだ20代じゃない。その位の歳って、ひとつ失敗すると全部がダメな気がしちゃうよね。若いから。そういう歳だよ。でもね、そんな事ないから。なんでも出来る歳だよ。」と言っていた。優しい言葉だし、たぶんこの人はいい人だ。それなのに私の中には、うるせー!お前はわかってない!いまお前は人間じゃなくてゴミを相手にしてるんだよ!ゴミに気安くなんでも出来るとか言うな!という逆ギレが渦巻いた。優しい人になんて感想を抱くんだと自分に対してさらに嫌悪感が増した。口ではとりあえず「ごめんなさい、ありがとうございます」とだけ繰り返しておいたが、いかんせん号泣していたので向こうに伝わっていたかはわからない。
 ちなみに、その職員さんが号泣する私を慰めようと「正社員のお仕事探しながら元々目指してた分野でバイトっていう手段もあるのよ!」と差し出してくれたバイトの求人たちは、全て私が一度正社員で応募して不採用になった企業の求人だった。死ねーっ!(この死ねは職員さんでも企業の採用担当でもなく、無力な私へのコメントです。)


 もう書くのが嫌になってきたので締める。ようやくだ。9000字くらいか。学生の頃は2000字のレポートだってままならなかったのに自分語りとなると饒舌なものだから、陰キャのオタクくんには救いがない。
 私は一体、この日記を書いてどうなりたかったんでしょうかね。書いたらスッキリすると思ったんだろうか。結局、1行書く毎に余計なことを思い出してどんどこつらくなっていくだけだった。人に見てもらうことで共感して欲しかったのかもしれないが、ここまで全て自業自得だと誰も共感なんかできない。たぶん二度とnoteを更新することもないだろう、なんせ何事も長続きしない人生だから。クソッタレ、人生そのものだってこんなに続けるつもりじゃなかったんだ。
 明日にでも死ねばこれは実質遺書みたいなものになってくれないだろうか。だって、どうせ次の面接もお祈りだし、どこかが拾ってくれたって私はその企業に仇しか返せない。死んだ方が世の中のためなんだ。大学の卒業式がなかったおかげで袴の写真を撮らなかったから、遺影に使えるようなベストショットの私はさぞ幼い事だろう。どうせまた死ねないのだから、このくらいの皮算用は私の自由だ。


おしり

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