身体 記憶 バラバラと、、、。
人間の体の物質は常に流動している。皮膚の表皮がターンオーバーによって剥がれ落ちたり、小腸の細胞(小腸上皮細胞)が1日でベンと一緒に排出することなどから考えると10年前のこの体と今のこの体とでは細胞が全て入れ替わっているので違う人間といっても良いらしい。(更科功「若い読者に贈る美しい生物学講義」)
それは小さい頃にあった左手首のホクロが小さい頃は黒々としていたのに今や線3本しかなくなっていること、昔と今の明らかな肌質の変化などから日々感じていることである。
内側から生成し押し出す構造があってこその更新だ。重要なのはこの構造だ。
記憶も物質だから昔と今では同じ記憶でも変化しているはず。ただ、脳神経は基本的に生まれてから新たに作られることはないという。ニューロンはなくなりはしても細胞のように増殖することはない。記憶ネットワークが崩れるからのようだ。
ある記憶を脳が知覚しようとしている時、当然だが様々な要素が分化して一つの出来事として統合されている。その時、時間のネットワークを外して考えると、現在と過去の基本的な概念である過去が後ろで前に現れているのが現在だという様な関係はなくなって、現在も過去も知覚された時点で並置されるのではないか。
空間を認識する脳の領域に障害があると立体視することができなくなることもあると聞いたことがある。
(大脳性立体視異常)
それと同じように記憶の散在のようなモザイクのような状態は脳の中で普通にある状態なのではないか。昔の知覚した出来事が今の知覚のように思うことがよくあります。
昔の出来事を思い出すとき、空気感、匂い、音、街の感じ、注視した人のしゃべっている口、後ろ姿、など断片的には思い出せるが事細かく滑らかに録画したかの様に思い出せる人はいないんだろう。記憶の力に強弱の差はあれど。きっとその出来事に対する自分の関心が強ければ強いほど鮮やかに残っているんだろう。古いから色褪せるということではなく。私の一番強烈な記憶が小1くらいに夏の夕方四畳半からベランダの外を見ていたことなんてゆうなんてことないものだった。
情動発動と連動して海馬に電気信号を送るか送らないかが決まるらしい。ただ情報を電気で刺激して送るだけでは海馬には送られず、好き 嫌いなどの情動神経を刺激して情報を送ることによって海馬に送られ記憶形成されるらしい。
また別の話だがよく寝る前に幽体離脱の様にして昔の懐かしい街に行ってる想像をする時がある。じっさいあった記憶をなぞるのではなくその街で新たな行動をしてみる。するとそれが記憶となり実の記憶と嘘の記憶が頭の中で混在する。何が本当かわからなくなってくる。思い込み、覚え違いも虚の記憶を記憶してしまったことによるのだろうなあ。寺山修二も「田園に死す」で実際なかった記憶も記憶と言っている。
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