ふさわしいこと

卒制のプレゼンが終わった。もっとすっきりするかと思っていたけど、そうでもなかった。3年生までプレゼンがとても好きだった。最近は、自分にとってふさわしい形になった瞬間がひときわ大切で、それ以上に喋ることがない。わたしのなかの完成。そこでわたしの制作は止まるようになってしまったのかもしれない。プレゼンて、へんだな。でも朗読できてよかった。思っていたよりたくさんのひとに、声や言葉を「好きだ」「きれいだ」と言ってもらえてよかった。今まで教授に完全にこころを開いていなかったけど、「もっと読みたい」「聞きたい」と言ってくれるひともいて、ちょっとムキになっていたなと思ったりもした。でもこの、胸の焼けるようなもどかしさはなんだろう。いちばん引っかかっていることは、教授の言っていた「理解」という単語かもしれない。大勢のひとの理解を得られるかどうかって、そのものの完成度とそんなに関係するんだろうか。わたしは仕事として、社会のためにものをつくったわけではないのに、どうして確実に理解をもぎとる必要があるんだろうか。よくできた商品のパッケージは、手にとった瞬間はうつくしいけど、食べ終わるころには忘れてしまうじゃないか。

想像してみようとする、ひとのこころのありかたが、うつくしいじゃないかって思うのだ。「理解してみたい」と思わせることが大切で、それ以上はそれぞれの想像力や興味関心にゆだねたい。理解をもとめるほど、わたしのなかの神さまみたいな、かすかな湯気が弱まるような気がしてだめだ。他人のためにものつくってるわけじゃないんだ。だとしたら、人に差しだせる限界は、わたしとあなたのあいだにしかない。わたしのことばを、勝手に解釈して、あなたの個人的な思い出にしてほしかった。夢の中で話したみたいに。

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