はやく菜の花畑のあるところまで走って行きたいというきもちと、春になる前にどこかへ逃げてしまいたいというきもちがある。代々木上原の花屋の前で立ちすくむ。こんな綺麗なところにいつまでもいるわけにはいかないのに、名前も知らない白い花が、月光みたいに明るくてなんだか動けない。それらが何本も束ねてあるガラスの入れ物の、横にも花は敷きつめられ並んでいる。わたしはスイートピーしか知らない。けど、店先のお兄さんはきっとその何倍もの花の名前を覚えて、知っているんだろう。レジ袋をもったおばさんが「あれちょうだい」と言って薄い紙に束ねられた、まだみずみずしい切り花を数本買って行く。植物のある暮らしはすてきだと思いながら、来た道をそのまま帰る。風がつめたい。進化したこの街の、冬の記憶は木枯らしくらいなものだ。それなのに、みんな「さむい」とだけ言ってレストランに入って行ってしまう。風の呼び方なんて、ほんとうは誰も知らないのかもしれない。

たまに自分の名前もよくわからなくなる。自分が誰なのかおぼつかなくなる。べつに記憶喪失になったっていうわけじゃない。ただ何もかもが他人事みたいいなのだ。何もかもがどうでもよくて、自分を忘れてしまいそうになる。わたしを思い出してやらなくてはいけないのに。

自分のことを思い出したい。それなのに、なぜか自分の顔が思い出せない。記憶喪失になったわけじゃない。ただそれ以外に言い様がない。そのとき自分が見ていた教室の壁、そのときその場所にただよっていたカレーの匂い、そのとき誰かがわたしにむけたまなざし。そうしたわたし以外の何かを頼りにしてしか、わたしを思い出せない。それがなんだかもどかしい。

1 顔

最近まで、自分がどういう顔をしているのかよくわかっていなかったようなところがある。これでも22年生きてきた。家族写真を撮る機会はあったし、美術の授業で自画像を描いたこともある。でもなんだか自分の顔がどういうものなのか、いつもわからなくて、たとえば「可愛い」と言われたときにどういう反応をするのが相応しいのか考えてしまう。文章を書いていてすら、この表現で正しいのかわからなくて、ため息をつきたくなる。

人と喋っているときに、微笑んでいる、眉をひそめている自分の顔を見ることはない。にも関わらず、顔というのはコミュニケーション手段に欠かせないツールのひとつとしてある。それは表情や仕草とは別のところで。たとえば世の中には「ひとめ惚れ」というきわめて突発的な恋愛の仕方があったりもする。

世に言う思春期のころ、顔の綺麗な人が好きだった。というよりは、人間の顔を造形的に「綺麗だ」と感じることがふしぎで、興味があった。モデルの写真集は一冊も持っていないのに、人形の写真集は三冊持っている。たとえば、わたしは人間の絵を描くときに、鼻を描くのが嫌いだった。どんなに潤んだ瞳の女の子を描いても、鼻を描くと途端に台無しになった。けれど現実世界で綺麗だ、と感じる人にはみんな一様に鼻がある。なんなら鼻の穴もある。美人な先生の顔を見て、どうしたらこの人を綺麗に感じなくなるだろうかと授業中、熱心に考えていたこともある。人間を等しく美しく感じるわけではない。瞳が大きいから綺麗に感じる人もいれば、ひとえ瞼で綺麗だと感じる人もいる。…なんてことは、女性向けティーンズ雑誌に嫌というほど書きつくされてきたことなんだけど。パーツが同じなのに、配置や色や大きさによって綺麗と感じたり感じなかったりするということは今でも不思議だ。

まあとにかく、そうして「どういうものが造形的に綺麗な顔なのか」を考えていくうちに、わたしは自分の顔について考えるのが嫌いになったように思う。顔とは何か、というのを考えれば考えるほど、鏡を見るのが苦痛になった。だからだろうか、未だに化粧をすることにも抵抗がある。

しかし顔とは別れられない。わたし自身は朝と夜にしか顔をあわせない、この顔で、目の前の人に語りかけなくてはいけない。それが時に心もとない。表情のつくり方が正しいのかを、話している途中で知りたくなる。きちんと優しく笑えているか、不満なきもちが届いているのか。このときこの瞬間、この顔が、わたしの伝えたい感情の大きさに適しているのか、誰にもわからない。

まるで目隠しをして絵を描いているみたいだ、いつも。だから、ほんとうはもっと、大切なことはロウソクの火を囲むようにして、慎重に話さなくてはいけないのだけど、いつも風が吹くのが速すぎる。だからわたし達は、描いている絵のタイトルも知らないまま、ここで立っているんだろう。


→ 2 体

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