こころをばなににたとえん

こころはあじさいの花

ももいろに咲く日はあれど 

うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。


こころはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひびきに

こころはひとつによりて悲しめども

ああこのこころをばなににたとえん。


こころは二人の旅びと

されど道づれのたえて物言うことなければ

わがこころはいつもかくさびしきなり。

(永遠の詩07 萩原朔太郎 より「こころ」)

         

灰色の道路に紫のペチュニアが並んでいる。「ひとりになったな」と思った。もう成人して、学生ですらない、わたしはようやくひとりになったのだ。目にうつるすべてが、かけがえのないものに思えたり、あくびがでる程どうでもよくなったりする時期がきた。春になったということだ。

どうしてだろう。感情が、分割できない。喜んでも哀しんでもいないわたしが、わたしを分割したくてたまらない。しかしわたしはどうしようもなく一個なのだった。これ以上にもこれ以下にもできない、ちっぽけな「ひとつ」。

こころのことを考えるとき、ふんわりとした丸いシルエットを思い浮かべる。しかしそこから噛み砕いていくことができない。その輪郭は手漉きの和紙のほうにやわらかく、同時に脆くて、ふれたらどこかが欠けてしまいそうだ。もっと小さなときだったら、ハートのマークひとつで説明できた。それは心臓のマークでもあった。こころと、心臓は同じだった。しかし、こころと体は、どうやら違う。

たまに体の真ん中がへこむように苦しい。でもいらないと思ったことはない。虫歯を繰り返し舌でなぞるときのように、わたしはその穴を撫でつける。ふしぎなことに、それを信頼していると思う。わたしはこの痛みを信頼している。

自分の顔が見えない、体も上手につかえない、わたしが人と向き合うとき、あてにしているのは、このどうしようもなくあやふやな円みだけだ。これだけは差し出せる。これだけは過不足なく、できるだけわたしの望むとおりにあなたに差し出せる。そんな風に思っている。手にとって見ることもかなわないのに。

いつか、綺麗になって話がしたい。今はまだ書くこともおぼつかないわたしだけれど、いつかあなたに話したい。だからしばらくは黙って、花でも見ながら歩くつもりだ。

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