『夜明けのすべて』の自転車たち
『夜明けのすべて』をみてきた。すごくよかった。山添くんが自転車に乗るシーンがとても気持ちよさそうで印象的だったけど、その感じが最後の自転車でコンビニに行くシーンにまでつながっていて、この作品にとって自転車とはなんだったのか、ちょっと考えてみたくなった。
プラネタリウムが重要な役割を果たす物語なのに、自転車で終わる。考えてみると、自転車は、自転する地球や、移動式のプラネタリウムなど、作中に出てくるいろいろなモチーフと重なるところがある。
それでも、物語は自転車で終わった。だから、そのことを考えるうえで重要なのは、それが藤沢さんが山添くんに残したものだということだ。自転車は、去っていった藤沢さんが山添くんに残した「光」だ。それは映画がわたしたちに残してくれたものでもあるかもしれない。
そもそも藤沢さんはどうして自転車を譲ったのか。作中にその答えはない。
なので、わたしが勝手に考えてみる。
自転車に乗るとは、「生きづらさを抱えて生きていく」ことの言い換えとして機能しているのではないか。
自転車は、自分のリズムで回転する。回転せずに歩くのとも、電車のように、他人のリズムで回転させられるのともちがう。
物語の時系列的に、山添くんにとっての藤沢さんが、会社の先輩というよりもなにより、生きづらさを抱えて生きる先輩として描かれていることは重要だ。
山添くんがパニック障害を抱えていることを知った藤沢さんが、かれに共感を示すも、PMS(月経前症候群)とパニック障害をいっしょにされたことに山添くんが違和感を覚えるシーンがある。
あのシーンはいっけん、藤沢さんが無神経だったようにみえる。しかし、「わたしたちは同じ生きづらさを抱えていますよね」ということではなく、「生きづらさを抱えて生きていくことは同じですよね」と伝えようとしていたとしたらどうだろう。
藤沢さんはすでに、生きづらさを抱えて生きていくことを受け入れている。自転車に乗れている。それにたいして、山添くんは受け入れられていない。パニック障害は治り、元の職場に戻れると思っている。
だから、そんなかれにたいして自転車を譲るのは、ひとつのメッセージとして読める。生きづらさを受け入れて、自分のペースで生きる。天動説から、地動説へ。
ただ、自分の生きづらさを抱えた藤沢さんが、母親の介護も抱えて生きていく、という終盤の展開は、彼女を強く描きすぎているような気がしたのは触れておきたい。
夜空の星はきれいだ。それはつらい夜を過ごすわたしたちを慰めてくれる。でも、夜が開ければ、星は見えなくなる。
それでも自転車に乗ることで、自転車に乗るように生きることで、星は見えなくても、地球と同じように自分がいま回転していることを感じられる。
あたりには、いまここでしか感じられない風が、音が、光が満ちている。
生きることで見える景色がある。
はやくなくていい。のろくたっていい。つまずいたっていい。どんなペースでもいい。車輪の小気味よいリズムが、わたしたちを次の夜明けへと導いてくれるだろう。