車の中でしか語ることのできない話
「存在に意味がある」と先生は言った。私もそれを強く信じることができたらと思った。自分より先生が信じることの方が信じられる気がした。
出口のない問いに対して、自分が納得できる答えがあるとしたら、それは自分が考えた果てに出会えるものなのだろう。誰かの中に答えを求めても意味はないのかもしれない。にもかかわらず、私は私の答えを先生の中に求めてしまう。そこに私はいない。答えはない。でも、私の中にも答えがあると信じられない。
私のできることが、私自身で考えることなんだろう。でも、そうすることが怖くて仕方ない。
生きていてほしかったと思っていいのかわからなかった。極限まで苦しんでいる人にそれを望んでもいいのかわからなかった。こんな風に思いたくはないのに、私の頭の中から消えない。
「人を責めてもいいところで、あなたは自分を責める」と先生は言った。私はあの人を責めてもよかったのだろうか。あの人のせいにする自分は責任転嫁をしているようで、そんな自分が許せなかった。私はあの人を責めてもよかったのだろうか。よかったのかもしれない。そうは思えなかったけど、そうだったのかもしれない。
先生に心配をかけたくなくて、言えなかったと言ったら、先生はそれをあなたは僕に迷惑をかけると捉えているけど、そうではないと言った。あなたに対して、僕ができることが限られていて無力感を覚えることはあっても、そこにあるのはあなたが苦しんでいるという事実だけだと言った。
存在に意味がある、それは私にも当てはまることとして言ってくれたのだろう。私はその言葉の意味を私自身で考えたい。
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