見出し画像

君のために


あらすじ

 大学生の桂木愛音は、学校に向かう電車内で痴漢に襲われそうになった専門学生の松林奏志を助け、これをきっかけに二人は仲良くなる。
 その後、同性愛者だとカミングアウトした松林に「電車で助けてもらった時に一目惚れした」と告白された桂木は、付き合うことにした。
 喫茶店や花火大会など、デートを重ねていく二人。時には同性同士で付き合うということの偏見に直面してしまうこともあった。
 交際を重ねれば重ねるほど松林の想いに触れ、このままで良いのか、という思いに桂木は囚われ始める。
 そして出会って二ヶ月で、松林に別れを告げた。
 セクシャルマイノリティ同士の恋愛を描いた、仄悲しい恋愛小説。




 君のために


 二千十六年、七月。
 友人から「内定もらった!」とメッセージが来ていたことに、学校に向かう電車内で気が付いた。大学三年生の前期課程修了を目前に控えた頃で、この友人が早いのか俺が遅いのか分からない。というか俺は一切、就職活動をしていないのだが。
 親から「大学は絶対行きなさい」と言われ、自宅からの距離でなんとなく選んだ総合大学を出て、何になりたいなどと、夢は全くない。それどころか、サークル未所属で趣味などもない俺に、アピール出来ることは何もない。ダイバーシティ関連を見てみても、いまいちピンとこない。
 ずっとこのままでいたい。自分から動くことなく、毎日のらりくらりと過ごしていける、学生のままで。
 時間だけはそれを許してくれないから、最近少しだけ焦っている。高校時代の友人たちは積極的にインターンや企業説明会に参加したり、OBに連絡をとって情報収集に励んでいるらしい。なんなら高卒で就職し、社会人として立派に働いている友人もいる。そんな歳なのだ。
 ちらりと車窓に目をやると、通過していく駅に佇むリクルート姿の青年が一瞬だけ見えた。もしかしたら面接なんかが上手くいかなくて落ち込んだ顔をしていたのかもしれないが、スーツを着ているだけで輝いて見えた。
 ホームボタンを押し、表示したままだった友人とのトーク画面を消す。なんて返せばいいのか分からず、とりあえず「おめでとう」とだけ送ったが、顔文字もスタンプも何もつけていないから、無愛想に捉えられたかもしれない。
 まともに生きている同級生たちの姿を見ていると、俺の歪さが浮き彫りになっていく気がする。
 現実逃避のつもりで目を瞑った。急行電車とはいえ、大学の最寄り駅までまだしばらく時間がかかる。
 そして心地良い揺れと寝不足が相まって、夢への扉を心置きなく開きかけた時。
「やめてください!」
 人の疎らな車内に、女性の鋭い悲鳴が響き渡った。
 驚いてパッと目を開けると、ドアを背に立つ学生らしい若い女性が顔を真っ赤にして、目の前の初老の男に怒鳴っている。
「今私のおしり触りましたよね!? 痴漢ですよ!」
「たまたま揺れて当たっただけだろ、大袈裟だな」
 男の方も少しイラついている様子だ。
「たまたまじゃないでしょう! これだけ空いてるのに、わざわざ私の真後ろにいたんだから」
「車両を移動する途中だったんだ。言いがかりをつけるな!」
 ちらりと周りの乗客に目をやると、みな目線を手元のスマホに向けている。男が歩いて来ていたのかどうか、見ていた人は誰もいなそうだ。いたとしても、声を上げる人はいないだろうが。
 早く停車駅に着いてくれないかな。車窓を流れ過ぎていった駅を見ながら、そう祈った。
「まーまー。落ち着いてくださいよ」
 ひとりの男が席を立った。金髪の若い男だ。
「なんだお前は」
「次の駅に着いたら、二人とも降りて、一緒に駅員さんのとこに行きましょ。ね?」
「生意気な口をきくな!」
 初老の男が手に持っていた鞄を金髪の男に向けて放り投げた。一気に空気がこわばり、まずい、と直感した。
「うわっ」
「なんでオレも駅員のところに行かなきゃならねえんだ! この女が勝手に騒いでるだけだろ!」
 初老の男が金髪の男との距離を詰めながら怒鳴る。俺の体は勝手に、膝に乗せていたリュックを放り出し、二人に向かって駆け出した。
「ひっこんでろ!」
 初老の男が右の握り拳を振り上げた。瞬間、二人の間に横向きに飛び込んだ。
 勢いよく振り下ろされた男の右手首と、肘の辺りをぐっと掴む。両腕に体重をかけ、重心を落とす。
 それで、体格差があっても特に力を入れることなく、男を投げることが出来る。体がまだ覚えていてくれたことに感謝した。
「う、うわあ!」
 重心がブレた男はみっともない叫び声を上げながら、横向きに転がった。そんなに勢いはつけなかったが、男は素人らしく全く受け身が取れずに、床に体を投げ出した。暴れられても面倒なので、男をうつ伏せに転がし、腕を返してわき腹を伸ばして、動けないようにした。
「……おお」
 小さな声が聞こえ、顔を上げる。ズレたメガネを元の位置に戻すと、金髪の男と目が合った。男は驚愕の表情を浮かべ、胸に手を当てている。
 しまった、と思った。怖がらせてしまったかもしれない。
「あのっ」
 なにか言おうと口を開いた時、ドアが開く音がした。誰かが呼びに行っていたのか、後方ドアから車掌が飛び込んできたのだ。
「……えっと……」
 ドアに凭れて立つ女性と、その反対側のドアに追い詰められていた金髪の男、そして二人の間に転がる初老の男と、その男の腕を締め上げている俺とを、交互に見ながら言った。
「とりえず、みなさん……一緒に事務所まで来ていただけますか?」
 機械音声がちょうど、次の停車駅を告げるアナウンスが流れた。
「……はい」
 誰も、逆らう人はいなかった。



 一時間ほど事務所に拘束されたが、注意だけ、という形で解放された。
「正義感が強いのは良いことだけどもね。もう危ないことはしちゃだめだよ」
 おっとりとした口調の駅員に見送られ、事務所を出ると、目の前の柱に凭れて、あの金髪の男が立っていた。俺と目が合うとパッと笑い、走って来た。
「さっきは、助けてくれてありがとうございました!」
 目の前で止まり、勢いよくお辞儀をした。
 サイドの長い金髪が揺れ、左耳に三連のピアスが見えた。よく見ると眉毛が茶色いし、頬などに毛穴がない。睫毛も綺麗に上を向いていて、どうやら化粧をしているらしい。オシャレな青年だ、と思った。
「いえ、俺はなにも。怪我がなくて、良かったです」
 朗らかに笑う男の顔に、恐怖は浮かんでいない。驚いただけで、怖がらせたわけじゃなかったようだ。
「もし良ければ、お礼に昼ご飯を奢らせてくれませんか?」
「え、いやいや! そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないですよ! あなたがいてくれなかったら、きっと僕、酷い目に合ってましたから!」
「かもしれないですけど……」
 ちらりと左手首の腕時計に視線を落とす。入学祝いに父親が買ってくれた物だ。シンプルな時計盤は、必修の講義がとっくに始まっていることを報せている。
「なにか予定とかあるんですか?」
「いや。たった今学校に行かないといけなかった理由が無くなったところです」
 必修科目の後に組んでいる教養科目は今日、教授の私用で休講になる連絡が入っていた。今から学校に行っても、受講する講義は何も無い。友人との約束もない。
「じゃあ! ご飯行けますね?!」
 男の顔が期待で輝いた。
「良いですよ。行きましょうか」
「やった! ね、どこに行きます? 行きたいところはありますか? 最近バイト頑張ってるので、良いとこのフレンチとかでも良いですよ。ホテルに入ってるようなとこ」
「いや、そこまでは。あ、あそことかどうですか?」
 駅構内に入っているファストフードのチェーン店の赤い看板を指さした。
「良いですね。僕、期間限定のやつにします。それで、えっと……」
 男が言い淀んで、始めて気が付いた。
「あ、桂木です。桂木愛音」
「オシャレな名前ですね。僕は松林奏志といいます」
「松林さんも、爽やかでいい名前じゃないですか」
「いやぁ、苗字が長くて、覚えられにくい名前ですよ」
 名前を褒められたことは、ほとんどないから素直に照れる。女の子みたいな名前だね、が褒め言葉になるのなら別だけど。



「桂木さんって、なにか格闘技されてるんですか?」
 期間限定のなんとかベーコンバーガーにかぶりつきながら、松林が尋ねる。食べながら話すから、口端にべったりとソースがついた。
「高校に上がる頃まで、合気道を習ってました」
「へえ! かっこいい!」
 ソースを拭いながら、大声を上げた。
「いや、そんな良いものじゃないですよ」
 合気道は力技と言うより、テコの原理を用いてほとんど力を入れずに相手を投げる技が多い。護身術に、と習う女性も多いくらいだ。
 同級生達はどんどん大きくなっていくのに、俺はいつまで経っても背は伸びなかったし、筋肉も付かなかった。心身の鍛錬のために習っていたが、気が付けば自分より体格に恵まれた年下の男の子達を羨ましく思うばかりになってしまって、それで、辞めてしまった。
「でもそのお陰で僕は助けてもらえたんだし、その僕は桂木さんのことをかっこいいと思ってるので、素直に受け取ってください」
「あ……りがとう、ございます……」
 そんなに真っ直ぐ褒められたこともない。どう反応すれば良いのか分からず、とりあえずポテトを口に運んだ。
「松林さんこそ、なにかスポーツしてないんですか?」
「なにもしてないですよ」
 大口を開け、バーガーにかぶりついた。
「え、もったいない」
 つい、無意識のうちに言葉が滑り落ちていた。
「ほうでふか?」
 口いっぱいに頬張っている松林がもごもごと言う。
「だって背が高いですし……大食いっぽいですし」
「意外だって、よく言われます」
 空いている左手で口元を隠しながら松林が答えた。松林の目の前のトレーには、今手に持ってるバーガーの他にもうひとつチキンのバーガーと、Lサイズのポテトも乗っている。
「高校生の頃はよく勧誘されましたよ。運動部から。でも運動することがぶっちゃけ嫌いでしたし、音楽が好きだったので、軽音楽部に入っていました」
「ボーカルですか? 演奏する方ですか?」
「ベースやってました」
「おお。かっこいい」
「いやいや」
 ふにゃっと松林が笑う。人はもしかしたら、自分には出来ないことが出来る人をかっこいいと思うのかもしれない。
「では、学校も音楽系ですか?」
「いえ、美容専門学校です。将来、美容師になりたくて」
 夢があって良いですね、と良いかけて言葉を飲み込んだ。俺が口にすると、皮肉のような響きになってしまいそうで。だから、ただ「オシャレですもんね」と言うに留めた。
「男っぽくないとよく言われてしまうんですが、メイクが好きなんです。ところであの、桂木さんが嫌ならいいんですけど。多分、桂木さんの方が僕より年上なので、敬語じゃなくても良いですよ。年上の人から敬語で話されてると思うと、少し、むずむずします」
 食べ終わったベーコンのバーガーのラップを綺麗に畳みながら、松林が言う。
「そうなんで……ああ、専門学校って、二年制ですか?」
 見た目で判断してしまっていたが、言われて確かに気が付いた。
「はい。僕今年入学したばかりの一年生です」
「俺は四年生大学の三年生なんで、ふたつも離れていたんですね」
「結構先輩でしたね」
 年下だと分かると、笑った顔が幼く、可愛く見えてくる。金髪と三連ピアスに目を瞑れば、だが。
「分かりました。でも俺も人に敬語で話しかけられるの苦手だから、松林さんが良いなら、タメ口で話してほしい」
「え! でも先輩にタメ口なんて」
「先輩命令や」
「意地悪ですね!?」
 笑って、観念したように小さくため息をついた。
「ねえ、桂木さん。友達になりませんか? 友達なら、タメ口で話せる気がします」
「それはちょっと分かる。良いですよ、連絡先の交換もしましょう」
 スマホを取り出し、緑色のメッセージアプリのアイコンをタッチする。松林が出したQRコードを読み取る。サメの写真がアイコンの〈奏志〉という名前のアカウントが出てきた。
「サメが好きなんですか?」
「はい! あのつぶらな瞳が可愛いくって!」
 そう食い気味に答えた。大きな瞳が煌々と輝いている。つぶらな瞳だとは思うが、可愛いとは思えない。だってこいつら人喰い鮫だぞ。
「ちなみに、なんてサメですか?」
「シロザメです! 食べれるんですよ」
「た……べるんですか……サメを」
 そういえば中華料理のフカヒレはサメだと聞いたことがある。
「桂木さんのアイコン可愛いですね。……誰ですか?」
 それまでのにこにこした笑顔が半分程消えている、気がする。どこか冷えた口調で、詰問されている気分になった。
「妹の推しのアイドルで。韓国の人って言ってたかな。推しと友だちになっている感覚を味わいたいんだと。だから妹の中では、俺のアカウントの名前も変えられてるよ」
「なんか……悲しいね」
 同情された。
「難しい妹なんだよ」
 高校二年生、思春期真っ只中だ。
 ポテトを口に放り込む。塩の塊があったのか、少ししょっぱかった。






「電車で痴漢から助けた子と仲良くなって連絡先を交換したぁ!? どこの恋愛マンガの世界線っスか! 愛音サン!」
「声でけえよ。うるさい」
 週に三日ほどバイトしているいる焼き鳥店のオープ作業中、一緒に店内を掃除している木村純に何気なく話したところ、この反応が返ってきた。
 木村純は、黄色に近い明るいウルフヘアをワックスで尖らせるようにセットし、薄暗い中でも目立つ程の濃いメイクをしているため、よくビジュアル系バンドマンかホストかとよく勘違いされる見た目をしている。性格も言動もフットワークも軽い。なので内心でこっそりとチャラ男と呼んでいる。
「いいなあ。オレも女の子にモテたーい!」
 モップの先に器用に顎を乗せ、ため息と共にそう吐き出した。
 どうやら松林のことを女の子と勘違いしているようだ。ちゃんと話を聞いていたのかどうか。でも状況的には女の子も助けたことにはなるんだろうけど。
「……女の子、だよなあ」
 なんとなくめんどうで、訂正せずそのままにした。
「しかも昼ご飯奢ってくれるとか、健気」
「うん、まあ、そうだな」
 適当に流す。
「で? どんな子っスか? 可愛い子なんスか?」
 チャラ男は唇を尖らせて言う。
「んー」
テーブルの上の備品をどかして拭きながら、少し考えた。
「ずっとにこにこしてて、金髪なんだけど可愛い感じかな。それと、ピアス」
「ピアス?」
「そう。左耳にピアスをあけてて。三連で、カッコイイ感じ」
「……オレ、愛音さんは黒髪サラサラロングの色白清楚系美女と付き合うもんだと」
 驚きのあまりか、少し呆けた様子で呟いた。
「偏見が凄いな」
「地味な眼鏡男の彼女ってったら、こんな感じのイメージありません?」
 両手でOKサインを作り、手首を返して目に当てて言った。モップは壁に立て掛けている。
「ちょっと待て。お前、俺のこと地味な眼鏡男だと思ってるのか?」
 チャラ男は小さく「やべっ」と呟くと、慌ててカウンターの中へ引っ込んで行った。
「海野さあーん! 聞いてくださいよー! 愛音さんについに彼女が出来そうっス!」
「なんだと!? 一大事じゃないか!」
 仕込み作業中だった社員マネージャーの騒ぐ声が店内に響く。
「どんな子だって!?」
「金髪でピアスつけてる子っス!」
「ええ! なんかの詐欺じゃないのか!?」
「確かに! 愛音さーん! その子、大丈夫なコっスかー!?」
「……うるさいな」
 というか一大事のハードルが低すぎないか?




 翌週末。松林に誘われて、アミューズメント施設内のゲームセンターに来た。
 場所は松林の最寄り駅近く。俺の最寄り駅の隣駅なのだが、大学と反対方向で、来たことは無かった。言われた通りに改札を出て、目の前にある自動販売機の横で待つ。目の前の改札に、ボーイスカウトの集団が入って行った。ボーイスカウトって、どんなことするんだったっけ、など考えていると。
「桂木さーん! お待たせー!」
 名前を叫びながら、松林が走って来た。涼しそうな水色のツートンカラーのTシャツを着ている。
「……そんなに走らなくても」
 肩で息をしている。赤い頬が緩んでいた。
「えへ。早く会いたくて」
 息が整うのを待ち、ゲームセンターに向かう。駅構内を抜け、外に出ると照り付ける日差しに目眩がしそうだった。だけど道向こうの商店街に入ると、屋根があるおかげがほんのりと涼しい。
「ここの商店街を抜けたら、すぐそこだよ」
 そこは、想像よりもデカかった。五階建ての建物全部がアミューズメント施設となっている。カラオケやボーリング、ゲームセンターやフードコート、人気のキャラクター専門店なんかもあるらしい。自動ドアを潜ると、汗がスっと引く冷気に包まれた。
「プリクラも撮りに行く?」
 エレベーター横の各ホール案内板を指差して松林が言う。フロアの半分がプリクラコーナーになっているそう。
「いや。恥ずい」
「えー。恥ずかしいことなんて何も無いのに」
 妹に自慢気に見せられたことがある。彼氏とのツーショットプリクラを。お揃いのポーズをとり、二人の周りを落書きのハートで囲み、原型をほとんど留めていない顔面加工。それを撮るだけでも勇気がいるのに、まして友達と分け合うなんて。
「友達じゃないなら良いの? 恋人とか」
「恋人なら……まあ」
 どんどん降りてくるエレベーターの回数表示機を見上げながら答えた。男友達も彼女とデート先でプリクラを撮った、と話していたのを思い出したから。
 視界の隅で松林が小さくガッツポーズをしている。なんでや。
 軽々しい音が鳴り、エレベーターが開いた。中には誰もいない。先に待っていた人々に続いて乗り込む。
「対戦系のゲームしようよ。太鼓のやつとか、シューティングゲームとか」
「カーレースもやろう」
 ドアが閉まり、エレベーターがゲームセンターフロアに向かって上昇して行く。
「お腹が空いたら、一階のフードコートでご飯だよ!」
「いいな」
 エレベーターを降りた時は超がつくほどご機嫌だった松林は、今。
「なんで取れないのぉ」
 クレーンゲームに数千円を注ぎ込み、目に涙を浮かべていた。
 三十センチはある大きな猫のぬいぐるみは丸みを帯びたフォルムで、二本のアームでは掴みづらい。余程クレーンゲームが上手い人ではないと、到底取れなさそうな難易度だ。だけれど。
「……空間把握が出来てなさすぎる」
「なにそれ! 野生の能力!?」
 松林はそれ以前の問題だった。さっきから的はずれなところにアームが落ちてばかりいる。
「一回やらせて」
 松林が退き、正面に立つ。百円玉を投入すると、軽快な音楽が鳴り響いた。ボタンを長押しし、クレーンを動かす。両サイドにぬいぐるみの台が設置されているせいで、横からの奥行きが把握しにくい。
「あ! ……あー、惜しい」
 一度ぬいぐるみを持ち上げられたものの、すぐに元あった位置に落ちた。隣で松林が悔しそうな声をあげている。
「ここダメだな、アームが弱い」
 潔く身を引いた俺と違い、松林は無念そうに一度持ち上がったぬいぐるみを見つめている。
「狙うなら、ああいう小さいぬいぐるみの方にしないか?」
 肩を叩き、先程まで女子高校生たちが囲んでいた台を指さした。レッサーパンダやアルパカ、ヤギ、サル、他にも見慣れない茶色の動物など、あまり見ないような動物ぬいぐるみが入っている。
「なんやあの微妙なラインナップ」
 女子高生たちで中の景品がよく見えていなかったのだ。パンダ、パンダと言っていたのは聞こえていたから、てっきり白黒のパンダのぬいぐるみがあるのかと思っていた。
「あ、レッサーパンダ可愛い」
 興味が逸れた松林の腕を引き、台の前に連れて行く。中には景品一覧表が貼られていた。見慣れない茶色の動物はウォンバットなんだそうだ。一体なぜ。
「ウォンバットのレア感。初めて見たよ」
 隣で松林もウォンバットに目を引かれている。
 試すつもりで百円玉を一枚、投入した。先程とは違う軽快な音楽が流れる。
 何を狙うか迷って、ぬいぐるみの山の頂きにいるヤギに決めた。草を食み、ふさふさの髭がリアルだ。あと横に細長い目が怖い。
「上のヤギ狙ってみる」
「頑張れ!」
 スティックを掴み操作すると、クレーンがふらふらと動き出した。時間制限制の台で、時間内なら何度でも微調整が可能だ。これなら取れそう。
「もうちょっと前! もうちょっと前!」
 いつの間にか台の側面に張り付いていた松林がアドバイスを叫ぶ。真剣な眼差しに、少し笑ってしまった。
 クレームを動かしていると時間が来て、強制的にアームが降りていく。
「あ、もうちょっと右だったのに……」
 残念がる松林を他所に、緩いアームはするすると降りていく。そしてヤギを跨ぐようにアームを開き、しっかりと掴み、持ち上げる。
「お!?」
 松林には悪いが、ほとんどアドバイスを聞いていなかったのだ。時間ぴったりにベストポジションに辿り着いていたクレーンは、意図したとおりにヤギを景品口まで運んで来てくれた。
「わあ! すごい!」
 手を入れ、ゲットしたヤギを掴み出す。それを大はしゃぎしている松林に見せると、途端に表情が険しくなった。
「目、怖くない?」
「それな」
 松林に渡すと、無言でヤギを抱きしめた。
「ねえ、さっき見つけたんだけど。僕がお金出すから、取ってくれない?」
「あんまり自信ないけど。良いよ」
 連れてこられたのは動物のぬいぐるみ台の真後ろにあった、サメのぬいぐるみがぎっちり詰まっている台だ。何種類か入っているが、ジンベイザメとハンマーヘッドシャークと、恐らくホオジロザメしか分からない。
「……全然分からないんだけど。これ、なんの種類が入ってんの?」
 ぬいぐるみを凝視していた松林は、輝く瞳をこちらに向けた。狂喜の色を浮かべている。
「ジンベイザメとホオジロザメ、シュモクザメ、ウバザメ、イタチザメだよ。僕シュモクザメが欲しい」
「……どれがどれ?」
 先の台と同じく、中の壁に景品一覧が貼ってあるようだが、ぬいぐるみが多すぎてなにも見えない。
「青色に白い斑点のがジンベイザメで、一番無難な見た目なのがホオジロザメ、頭がハンマーみたいな形なのがシュモクザメ、口を開いてて中が骨みたいなのがウバザメ、背中に縞模様があるのがイタチザメだよ」
 すらすらと答えてくれる。言われて気が付いたのだが、シュモクザメはハンマーヘッドシャークのことだったのか。お世辞にも可愛いぬいぐるみとは言えない。
 このゲームセンターにはまともな景品は無いのか、と気になって辺りを見渡した。変わった景品の台はサメと、先程ヤギを獲得した動物の台の二つだけらしく、どこのゲームセンターでも見れるような有名なアニメのフィギュアや、キャラクターのぬいぐるみも所狭しと並んでいる。
「いいよ、頑張ってみる」
「やったー!」
 シュモクザメは山頂付近にいるものの、下半分の尾にウバザメが乗っかっている。持ち上げる時の重りにならなかったら良いのだが。
「いきまーす」
「いえーい!」
 何かと奏志が持ち上げてくれる。益々楽しくなってきた。
 百円玉を奏志が入れる。ライトが点いた。この台は、右と上に一回ずつしか動かせない。
「あ!」
 奏志が悲鳴をあげる。
 慎重になりすぎて、シュモクザメの手前にいたホオジロザメの背中に、アームが突き刺さってしまったのだ。
「ああ……なんて可哀想な」
 いつの間にかまた、側面に貼り付いている。
「次こそ!」
 落ち込む奏志を見ると、ムキになってしまった。
 立て続けに三回失敗したところで、ようやく上に乗っているウバザメをどかせばいいのに、ということに思い至ったのだ。
「ということで、ウバザメを転がしまーす」
 幸い、ウバザメのフォルムは丸い。奏志に作戦を話し、百円玉を投入する。
「取れそうならウバザメもくださーい」
 語尾を真似て奏志が言う。ジンベイザメは可愛いと思うのに対し、ウバザメが一番怖いと思う。
「頑張らせていただきまーす」
 クレーンをウバザメの真上まで移動させる。するするとアームが降下していき、二本のアームががっちり掴んだ。だが。
 丸い形が仇となり、するりとアームから逃れ、転がり落ちた。
「……あー」
 二人とも、何も言えなかった。
 山の麓までバウンドしながら落ちたウバザメは、お世辞にも頑張ったら取れる、とは言えなかった。それに他に山頂付近にいるウバザメはいない。松林は誰がどう見ても落胆していた。
 これは本気でシュモクザメを取らないと、と意気込んだ。今度は五百円分一度に投入してもらい、プレイ回数を六回に増やして臨む。今やハンマーヘッドシャークに乗っかっているサメはなにもいない。剥き出しのぬいぐるみがそこにはある。
「……むず」
 ハンマー型の頭にアームが引っかければ、そのまま楽に落とし口まで運んでくれそうだと思ったのだが、そもそも頭の方が重い。五回チャレンジして、ダメだった。
「ごめん! ちょっと、両替行ってくる!」
 これ以上は松林にお金を出してもらうことに抵抗を覚え、自分のサイフから五百円を投入した。そして動かせすぎたせいで、ほぼ垂直に突き刺さっているシュモクザメに狙いを定める。
「桂木さん、お待たせ……あ!」
 戻って来た松林は、歓喜の悲鳴をあげた。俺の手にイタチザメとホオジロザメのぬいぐるみが握られているからだ。ちなみにホオジロザメは先程、背中にアームを突き立てた子だ。
「凶暴ザメだー!」
「ごめん、シュモクザメは取れんかった」
「あらら、ほんとだ、下に落ちてる」
 ぬいぐるみを受け取り、台の中を見て首を傾げた。多分、斜めに突き刺さったような形のシュモクザメに目を合わせている。
「ありがと、桂木さん」
「どういたしまして」
 友達とゲームセンターに遊びに来たのはいつぶりだろうか。多分、中学生以来だと思う。
「ねえねえ! 対戦ゲームやろ!」
「その前に店員さんに袋もらお。すみませーん」
 早くもクレーンゲームコーナーから出ようとする松林の腕を掴み、店員さんを探す。無事に袋をもらい、ヤギとサメ二匹を入れて、ゲームコーナーに向かった。
 結論から言う。松林は、絶望的なまでにゲームが下手だった。
 ホッケーのゲームで自分のゴールに円盤を何度も押し込むドジをやらかした。シューティングゲームでは一体もゾンビを撃てずに喰われてた。
 とまあ、ここまでは多分、よく見る光景だが、問題はカーレースゲームだった。
「……なんで全部のバナナを轢いて行くんだよ、逆に器用だぞ」
「僕まだ免許持ってないもん!」
「なら絶対とるなよ」
 終いにはバナナでスピンした後、そのまま逆走していた。逆走を示す宙を飛ぶ亀を見て、パニックになってた始末。ぶっちゃけおもろかったし、表情筋が痛くなるくらい笑った。
「桂木さんが強すぎるんだよ」
「俺、普通だと思うんだけど」
 ちょうどお昼時で、ここで切り上げてフードコートに降りた。食の好みは違い、俺はラーメンで、松林はがっつりとんかつ定食を注文して来た。
「……すごい量」
「ご飯大盛りで、追加で唐揚げも付けちゃった」
 俺はそっと、小盛ラーメンと半チャーハンから目を逸らした。
「そういえば前から聞きたかったんだけど」
 不意に奏志が箸を止めた。
「何?」
「愛音ってたまに関西弁出てるよね。イントネーションとかもたまにそっちの感じだし。もしかして関西の出身なのかなって」
 掬っていたラーメンを啜る。メンマが上手い。
「ああ、いや。俺じゃなくて、父親が兵庫の人で」
「あ、そうなんだ」
 奏志は唐揚げを頬張った。
「そそ。だからドラマとかで見る大阪弁とは違うやろ? そこに住んでたこともないし、父親の方言と、年に数回会う向こうの親戚の方言が移っただけ」
「僕の親戚は全員関東圏だから、方言とか特になくて。良いなあ、可愛い」
 大阪弁女子は可愛い、とかネットで見たことはあるけれど、成人済み男性も可愛いと思われるのだろうか。若干のエセ感があるのが良いのだろうか。と、内心で首を捻った。
 最後は揃ってデザートのアイスを食べた。松林がトリプルを食べていたことに、もう何も感じなかった。
「次はカラオケに行こうよ」
 帰り道、松林がエレベーター横の、各フロア案内パネルを指さした。最上階の五階はカラオケだけのフロアらしい。
「良いな。流行りの曲とかあんまり知らないから、今度おすすめ教えてよ」
「分かった。好きそうなやつ探しとくね。曲調の好みとかある?」
「いや、特には」
 そんなことを話しながらエレベーターに乗り、アミューズメント施設を出る。それまで涼しい建物内にいたからか、煌々と照りつける陽が痛いほど暑く感じた。
 来た時と同じ商店街を歩く。朝は開いてなかった店が、ちらほらとシャッターを上げている。その中で、松林が何かに食いついた。
「ね、あそこ少し見てもいい?」
 指さしたのは「宝石商」の看板を掲げた店舗だった。軒先にテーブルがふたつ置かれ、様々な石のアクセサリーが並んでいる。
「いらっしゃいませ。ここはパワーストーンを置いてて、ダイヤモンドとかの宝石なら、店の中に入ってくださいね」
 俺たちが近付いてきたのを見て、テーブルの傍に立っている女性が声をかけてきた。奥のカウンターに男性がひとりいた。夫婦か兄妹だろうか。
「いいじゃん、パワーストーン」
 そう言うと、松林は「ね」と答えた。
「あ、ピアスもある!」
「ふふ。本当は一個五百円なんですけど、特別に三つで千円にしてあげる」
「やった!」
 完全に松林が捕まった。
 ピアスに興味のない俺は二人から少し離れ、反対側の端に置かれたブレスレットを眺める。こちらは一本千円からだが、大振りな玉がついてるわりには安い気がする。
 赤、青、ピンク、紫、白。同系色でも石が違うのか、見え方が全く異なっていて面白い。
「あ、これいいな」
 ふと目が止まったのは、水色の石で作られたブレスレットだ。ひとつひとつの色味が若干、違って見える。手に取って見てみると、水色の石は光を浴びて、様々な角度にきらきらと輝いた。不思議な雰囲気だ。
「愛音もなにか見つけた?」
 手に小袋を持った松林と、テーブルを挟んで女性が一緒に来た。
「ああ、これ。おしゃれじゃないか?」
「あらあら」
 ブレスレットを見せると、女性が微笑んだ。
「さっきお客様が買ったピアスのひとつに同じ石が使われてますよ。水色のやつ。好みが似てるんですね」
「あ、そうなんですか」
 まさかのお揃いになってしまった。ちらりと松林を見ると、頬がほんのり赤い。
 桂木さん、と名前を呼んだ松林と目が合った。
「プレゼントするよ。こっちまで来てくれたお礼に」
「え、いや」
 松林は俺の言葉を待たずにブレスレットを掴み取ると、女性に渡してしまった。
「この水色の石はアパタイトなんですよ」
 会計が済んだ後、丁寧に梱包しながら女性が教えてくれた。
「アパタイトは、心身に溜まった不要なものを浄化してくれるパワーがあるんです。石言葉は信頼と調和。持ち主も送り主も、お互いがいつまでも共に、健やかに過ごせますように」
「ありがとうございます」
 梱包されたブレスレットを受け取る。ほんのり冷たい気がした。
 商店街を抜け、待ち合わせ場所だった改札口へと戻る。
「じゃ、僕はここで」
 松林が立ち止まる。
「今日は誘ってくれてありがとう。楽しかったよ」
「こちらこそ。ね、次遊びに行く時はさ、そのブレスレットしてきてよ。僕もピアスつけていい?」
「もちろん」
 答えると、松林は頬を弛めて小さくガッツポーズをした。
「桂木さん、気を付けて帰ってね」
「ありがと。また連絡する」
「うん! 待ってる」
 朝買っていた往復券を改札機に滑り込ませる。ホームに上がる階段の前で振り返り、小さく跳ねている松林に手を振った。
 西陽が入り込んでくるホームに出ると、ちょうど電車が滑り込んできたところだった。電車に乗り、一駅だからとドア横の手摺に持たれるように立つ。手に持ったままだったブレスレットを袋から出し、光にかざす。宝石は静かに輝いていた。






〈話したいことがあります〉
 松林から突然の謎メッセージが来たのは、二人で遊びに行った三日後のことだった。
〈今日五限目まであるから遅くなるけど〉
〈じゃあ、僕が桂木さんの最寄り駅まで行くから。疲れてないなら、会えないかな?〉
〈いいよ〉
 どこか店に入るかと聞いたが、すぐに終わる話だから、と言うので駅近くの公園を指定した。位置情報まで出る地図アプリのリンクを送った。
 十九時待ち合わせにしたのだが、こういう時に限って講義が五分早く終わり、いつもより一本早い電車に乗れてしまった。
 明るい時間なら遊具で遊ぶ子どもが多い公園なのだが、薄暗くなりつつあるこの時間になると、人気はほとんどない。ショートカット目的で公園内を足早に横断している人が数人いるくらいだ。
 なんとなく童心に返って、ブランコに腰掛けた。太い鎖がキィ、と鳴いた。
 足を地面に着けたまま、上半身を揺らす。辺りに人はいない。なら、と思いっきり宙を蹴りあげたい衝動に駆られ始めた頃、向かいの入り口から俯き気味の人影が入ってきた。
 金髪が街灯の光を反射させている。松林だ。
「桂木さん。ごめん、待たせてしまったみたいだね」
「ううん、気にしないで。隣、座る?」
「いや、僕はここで」
 そう言って安全柵の手前で立ち止まる。
「来てくれてありがとう。それで……えっと」
 どこか思い詰めた様子の松林が話し出すまで、待つ。
「あ……桂木さん、ブレスレット」
「結構気に入ってるんだよ」
 左手首につけたブレスレットをかざす。
「……僕は、桂木さんとは友達でいたいんです」
 ブレスレットに視線を落としたまま、松林が話し始める。
 風が吹き、金髪が揺れた。それで、ちらりと耳が見え、同じアパタイトのピアスが見えた。
「うん」
「話してると楽しいし、僕、久しぶりに男の子と遊びに行けたのも、すごく楽しかったんです」
 うん、と返すことも躊躇われた。ただ黙って、じっと松林の顔を見つめる。松林は俯いたまま、自分のアパタイトのピアスを撫でた。
「ほんとごめんね、急に。この前……遊びに行った時、わざと隠さないでみたんだけど、桂木さん、全然気付いてなかったみたいで。だったらこのまま、黙ったまま、側にいようかなって思ったけど、それはなんだか……騙してるみたいで、嫌だと思ったから。だから……」
 松林がピアスから指を離し、顔を上げる。今日初めて目が合った。
 目尻の方までほんのりと赤い。
「好きです、桂木さんのこと。電車で助けられた時、一目惚れしました」
 真っ直ぐ見つめ返してくる茶色い瞳が、少し、揺れているように見える。
 なんて返すべきなのか。同性から告白されたことは初めてだし、友人からそういう話を聞いたこともない。
「そっ……か」
 言葉に迷っているうちに、また松林の顔が下を向いていった。
「……ごめんなさい、やっぱ気持ち悪いですよね。もう、二度と会いませんから」
「え、なんで?」
 自分でも驚くほど力強く、即答してしまった。けれど俺以上に、松林も驚いている。
「え? なんでって……え? 嫌じゃないんですか? 僕、桂木さんと同じ男ですけど……ああ、もしかして桂木さん、男装女子ってやつですか? 愛音って名前は女の子でもいけそうですもんね。それに身長も」
 動揺しているのか早口になっている。手を突き出してストップをかけ、松林さん、と呼びかける。
「どうして自分のことを好いてくれてる相手に、気持ち悪いなんて思うんですか」
「どうしてって……同性だから?」
「それ関係ある?」
「……分かんない」
 へらっと松林が笑う。無理したような笑い方だった。
 ブランコから立ち上がり、松林に近付く。
「桂木さん?」
 優に手の届く距離にいても、二人の間には腰よりも低い安全柵があった。
「付き合いたい?」
「へ!?」
 松林の声が上擦った。
「俺は、松林さんとは同じ気持ちではないけれど。それでも良いなら」
「い、いいよ! え? ほんとに? ウソじゃないよね!」
 飛び跳ねながら、心臓の辺りを強く握り締めている。その拳が震えていた。
「ウソじゃない」
「……初めて告白が成功した」
 涙目になって、力が抜けるように地面にゆっくりと座り込んだ。そして俺のことを見上げながら、ありがとう、と笑うのだった。
 その白い頬を、一筋の涙が伝い落ちた。その涙が綺麗だ、と思った。
 だから俺も、おめでとう、と。無意識で、他人事のような声音になってしまったけど。松林は幸せそうに笑っている。
「愛音って、呼び捨てにしてもいい? それか他に呼んでほしい愛称とかある?」
「いや、愛音でいい」
「ふふ。じゃあ、僕のことも奏志って、呼び捨てで呼んで」
 愛音、と呼んだ声が熱で枯れている。
「これからよろしくね。ありがとう」
 微かに聞こえる電車の音が、逆に現実離れして聞こえた。




 電車で助けて仲良くなった子に告白された、と話すと、チャラ男は分かりやすく固まった。
「……まぢ!?」
 数秒の後、歯に当てたような独特な音を発した。
「声がでかい」
 ピーク時を過ぎた今、厨房には俺たちしかいないが、それでも他人の耳は気になる。
「あ、おい、木村。手を止めるな、焦げるぞ」
「やべっ」
 チャラ男はあちち、と言いながら慌てて串を返していく。その横で俺はお通しを用意していた。どちらも何も喋らない時間が続き、不意にキッチンプリンターが動き出した。客の注文内容が続々と吐き出されていく。
「お通し三つお願いしまーす」
 そのタイミングで顔を出したフロアの女性スタッフに、トレイに載せた日替わりのお通しを手渡す。今日はいんげん豆の煮物だ。
 女性スタッフが厨房から出て行ってから、オーダーリストを確認しているチャラ男が口を開いた。
「それで、なんて答えたんスか?」
「良いよって答えた」
「えー! おめでとーございます! 春が来たんですねえ、今夏っスけど!」
 学が無さそうなわりには文学的な言い回しをする。
「ちょ、声でか」
 耳がキーンとする。その横でチャラ男は満面の笑みで何度もおめでと、おめでと、と言ってくれる。嬉しいんだけど危ないから跳ぶのだけは止めてほしい。
「いやあ、ついに愛音サンにも。まじおめでとっす」
「なんか照れるな。……でもこれって、そんなに祝われるようなことなのか?」
「はえ? もしかして、イヤでした?」
 ポテトを冷凍庫から出し、規定量を測ってフライヤーに投入した。その隣のフライヤーにも、唐揚げを投入した。
「嫌ってわけじゃないんだけど」
「ふーん?」
 気の抜けた返事をし、そういえば、と言葉を続けた。
「その子って、前言ってた子っスよね? パツキンピアスの」
「地味な眼鏡男には不釣り合いってか?」
「思ってない! 思ってないっスよ!」
「ま、俺、見た目より性格重視だから」
「……ほーん」
 ちらりとチャラ男を見ると、文字通りニヤニヤと笑っていた。
「なんだよ」
「初彼女で性格重視っすか」
「付き合うのは初めてじゃないからな」
「まっぢぃ!?」
 チャラ男は仰け反って驚く。オーバーだなあ、と視界の端で見ていた。
「でも、愛音サン」
 姿勢をただし、ついでに声のトーンもただし。
「デートの時はメガネやめたほうが良いっすよ」
 真顔でそう言い放った。
「……ダサいから?」
「それもありますけど」
「あるんだ……」
 産まれて今年で二十一年。うち半分以上を眼鏡をかけて過ごしてきた俺は、軽くショックを受けた。
「ちょ、落ち込まないでくださいよ。愛音さんはメガネない方がカッコイイんすよ」
「……ほんとに?」
 そんなこと、人数合わせで連れて行かれたお世辞とお世辞が飛び交う合コンでも言われたことない。
「ホントですよ! オレのこと信じてくださいよぉ」
「うーん。そこまで言うなら」
 明日、眼科に行ってみようかと思えてくる。





 奏志にデートに誘われた。隣町にあるおすすめの喫茶店に行こう、と言うことで、俺の地元駅ホーム内で待ち合わせることになった。別路線への乗り換えも出来るこの駅はそこそこ広いため、ホーム内にある待合室で落ち合うことになっている。全面ガラス張りのそこは、中にいる金髪姿が目立って見つけやすい。
学期末レポートなど重なり、最後に会ってから二週間が経ってしまっていた。毎日のように電話で話していたけれど、久しぶりに会うので緊張している。換気のためなのか開け放たれたドアから中に入った。奏志はスマホに視線を落としていて、俺が入って来たことに気付いていない。
 逸る鼓動を抑えながら、声をかける。
「奏志、お待たせ」
 ぱっと顔を上げ、そして。
「あ、愛音……さん……!?」
 奏志がスマホを手放した。足元でカタカタと音がする。
 なんとなく理由は察した。コンタクトにしたのと、私服をチャラ男に選んでもらったからだ。
「初デートはやっぱ気合い入れないとですよ!」
 そう言われ、無理矢理連れ回されたのだった。私服がビジュアル系バンドマンのステージ衣装らしいチャラ男のファッションセンスは不安だったのだが、以外にもそれらしくまとめてくれた。水色のサマーベストは暑いのでは、と思ったが、意外に通気性が良くて良かった。普段適当なTシャツにジーンズだけのファッションとは大違いだ。
 お揃いのアパタイトのアクセサリーを持っている、と話したところからチャラ男なりに選んでくれた、同系色コーデだ。
 服の他にメンズメイクやヘアセットの仕方まで教えてくれたので、今度なにかお礼しなくてはいけない。
 奏志も左側のサイドの髪を編み込み、その先を紺色のスリムピンでとめている。アパタイトのピアスと同系色だ。シャツインしているデニムのベルトもそれらと同系色で合わせている。
「お揃いコーデ?」
「だね」
 顔を赤らめて奏志が笑う。
「僕たち、何も言ってなかったのに考えること一緒って。ねえ、見て。僕スマホケースも青色にしたんだよ」
「ほんとだ」
 他の客もいるから、二人で声を抑えて笑う。こそばゆいような、落ち着かない、奇妙な心地がした。



 電車に乗って見知らぬ街に辿り着いても、もぞもぞする感覚は収まらなかった。それは奏志も同じなのか、落ち着きなさげにしきりに辺りを見渡している。
 ほとんど無口なまま、奏志のおすすめの喫茶店に入る。店内の一番奥の席に向かい合って座って初めて、奏志が口を開いた。
「あー、だめだ。ペアルックって、ドキドキするね」
 両手で顔を隠し、ふふふ、と堪え笑いをしている。肩が揺れているから、何も隠せていないけれど。
「いらっしゃいませ。ご注文決まりましたら、お呼びください」
 バイトらしい幼さの残る女性が俺たちの間に立ち、氷水をテーブルに置きながら言う。奏志は女性がいる間ずっと、顔を隠していた。
「ね、僕、今すごい顔してない?」
 右手を離し、顔半分だけ見せてきた。耳まで赤く、締りのない顔をしている。もしくは、これを幸せそうな顔というのだろう。
「……たるんでる」
「やっぱりー!」
 再び両手で顔を隠した奏志の声が、人の少ない店内に響く。
「声がでかい」
「ごめん。でもね、だってね」
 指の間から両目だけを出した。
「……好きな人とのペアルックって、隣を歩いているだけでこんなに幸せな気持ちになれるって知らなかったから。初めてなんだよ、どうしたらいいのか分からないよ! それにメガネじゃない愛音がカッコよすぎて直視出来ないし……。というかなんで愛音はそんなに冷静なの!?」
 最後は謎にキレられた。
「いやあ。だって……デート……を楽しみたいから」
 デート、の単語を口にするのがものすごく恥ずかしい。耳に熱がこもるのを自覚した。奏志が小声でかわいい、と言ったのには聞こえてなかったフリをする。
「そうだよね。僕もデートを楽しみたいから……頑張って冷静を繕うね! 愛音みたいに!」
 顔を覆っていた両手を離し、テーブルの端に立てかけられているメニュー表を取った。
「頑張って」
 微笑みかけると、また両手で顔を隠してしまった。



 店のイチオシメニューだというシーフードピラフのセットを二人分注文した。それを半分ほど食べたところで見慣れてきたのか、ようやく奏志は普段通りになった。
 イチオシメニューだと言うだけあって、シーフードピラフは、バターの香ばしさと、エビと野菜の甘さが絶妙で美味い。量はそれなりにあるが、お米がパラパラしているので軽く感じる。まあ完全な錯覚で、普通にお腹いっぱいになっているけれど。
「で、そのワインディングが難しくって。すぐ絡まってグチャってなっちゃう」
 髪にパーマをかける時に髪をロッドに巻いていくことを、ワインディングと言うらしい。美容師国家試験の実技で課題なんだそうだ。
 一区切りついたところで奏志はスプーンを離し、ミルクティーを飲んだ。
「愛音は? 大学でなにか専攻してるの?」
「一応、教職課程は取ってる」
「へえ! かっこいい!」
 感心する奏志に、心がモヤっとする。
「別に……。やりたいこともなくて、でも親に大学は出なさいって言われて、じゃあなんか取るかって。それで将来困らなさそうな教職を選んだだけで、別にこだわりとかもないし。そんな、褒められたものじゃ……。やりたいことがハッキリしてる奏志の方が、ずっとカッコイイよ」
「それ、愛音の意見でしょ」
 真っ直ぐ、茶色の瞳が見つめてくる。怒っているような、悲しんでいるような。それから目が離せない。
「僕は、僕には出来ないことを頑張ってる愛音がかっこいいと思ってるんだよ。だからもっと自信を持って、受け取ってよ」
「……ごめん」
 自信を持たない方がいい。期待しない方がいい。調子に乗るなんて以ての外。だって、それがないって、自分には出来ないことだったって現実を突きつけられるのに、もう耐えられない。
 だから、好きだったもの全部捨てた。
 いつからかスプーンから手を離し、手首で煌めくアパタイトを握りしめていた。
「……僕はね、高校生の頃に一時期引きこもってた頃があって」
 不意に奏志が告白した。全く想像だにしなかったことだけに、素直に驚いた。
「え?」
「僕の名前。奏でるに、志で奏志って言うんだけど。両親二人共音楽が好きで、そっちの道に進みたかったらしいんだけど、まあ、家の事情とかで叶わなくて。それで、僕に色々な楽器を習わせてくれてたんだよ」
 ほっそりした、白く長い指が、ミルクティーのグラスを叩く。まるでピアノの鍵盤を叩いているように。
「自分の夢を子どもに託すって、よく聞く話だよね。それでピアノから始まって、バイオリンやギター、ドラム、三味線……。何を演奏しても、それなりに演奏出来ていたんだよ。先生にも褒められて、だから自惚れて、天狗になっちゃって。高校の時に入ってた軽音楽部の文化祭でのステージで盛大に失敗しちゃってさあ。そこではベースやってたんだけど。それで、あ、僕、大したことなかったんだって。現実を知った」
 奏志は椅子にもたれ、左上を仰ぎ見た。ほんのり瞳が濡れている気がする。
「好きな人がいたんだよ。軽音楽部に。かっこ悪いところを見られちゃって、しかも盛大にミスったから、メンバーに顔を向けられなくて。きっと裏で悪く言われてる。幻滅された。怖くなって部活を辞めちゃって、学校に行けなくなって。その頃に他にも色々あったこともあって、何をするのにも自信が持てなくなった」
 いつも笑ってばかりいる目の前の奏志からは、想像がつかない。なにも口を挟めないまま、じっと手元を見つめる。すると。
「それで、えっとね……ふふ、すごく単純なんだけど」
 肩を竦めて小さく笑う。何を言うのかと思いきやスマホを取り出し、有線イヤホンを刺した。
「これ。昔の曲なんだけど、子どもの頃からずっと好きで。引きこもった時に何年かぶりかに聞いて、元気が出た歌」
 ほら、聴いてみて、と右耳用のイヤホンを渡された。耳にイヤホンをさし、コードが短いので少しだけ腰を浮かして、テーブルについた両腕に体重をかける。
 奏志が二人の間にスマホを置いた。画面に出ている再生ボタンが押されると、前奏が響く。前奏に混じって低い男の人の歌声が聴こえる。英語だ。
「聴こえてる?」
「うん」
 短い前奏が終わり、ボーカルが入る。洋楽かと思ったら、メインボーカルは日本語だった。
 スマホの画面に表示された歌詞を目で追いながら、普通だなあ、と思った。歌詞が。
 たまには一緒に酒を飲んで。温泉に行こうと話をする。どこか気怠げにも聴こえる歌声や歌詞から、特定の相手が想像しにくい。でもそれが。
「良い曲じゃん」
 すごく、すんなり心に入り込んでくる。
「でしょ?」
 自慢げに鼻を鳴らしている。
 サビで急に複数人のコーラスが入った。テンポが上がり、雰囲気が変わる。
 ――自分を壊せ。
「……へえ」
 目を瞑って、五感すべてで曲の良さを余すところなく味わいたい気分だ。
「ねえ、気付いた?」
「ん? 何を?」
 顔を上げると、奏志の顔が目の前にあった。目と目が合うと、奏志はすぐに顔を伏せた。
「……ちか」
 そう呟いた口元が、少し綻んでいるように見える。
「あ、じゃなくて。ふふ、この曲、歌ってる人。誰か気付いた?」
「……全然」
 数秒考えてみたけど心当たりは無い。そもそも芸能人には全然詳しくない。
「この人はねえ」
 にやにや笑って、今も活躍している二人組お笑い芸人の名前を上げた。
「えっ、全然気付かなかった」
「最後に相方の声も入ってるんだよ。聴いてて」
 言われて、すぐに黙る。耳を澄ますと、コーラスに混ざって二人が初めて出会った頃の話をしている。
「話す声と歌声って、違って聞こえるもんね」
「いや、でも……気付きたかったな」
 好きな芸能人、というわけでないのだが、日本に住む人なら誰でも知っているくらいの超有名人だ。普段から意識せずにテレビで見ている。それなのに気付けなかったことが、シンプルに悔しい。
「他は? なにか好きな曲、ない?」
「好きな曲、かぁ。……僕ね、両親の影響でか、昔の曲が好きなんだよね。それもバンドやロック系の曲」
 だから、と言葉を続ける。
「愛音は、知らない曲ばかりかもしれない」
「いいよ。聞かせて。それに、前に曲をオススメしてほしいって約束してただろ」
「覚えててくれたんだ」
 約束以前に純粋に、奏志が好きなものが知りたかった。捨ててしまった感情を取り戻したくなったのだ。楽しそうに笑う奏志の顔を見ていると。
「じゃあ……この曲」
 スマホを手に取って操作する。すぐにリピートしていた曲が切り替わった。バイオリンだろうか。特徴的である前奏が聴こえる。また歌詞を表示したスマホを二人の間に置いてくれた。
「二人だけのロックユニットなんだよ。ギターとボーカル」
「これは……聞いたことある」
 愛のままに。ボーカルの声も特徴的なのだが、タイトルと同じサビの長いフレーズが記憶の端に引っかかった。どこで知ったのかまでは出てこない。
「サビ以外は初めて聴いた気がするけど。良い曲だな」
「でしょ!」
 嬉しそうに叫んだ。
 他にも、夏のイメージが強い五人組ロックバンドや、逆に冬のイメージが強い四人組ロックバンドの曲を聴かせてくれた。どちらもボーカルは男性だった。
「愛音の好きな曲は?」
 柔らかな風を感じさせるアウトロが聴こえなくなった時、何気ない口調で奏志が尋ねた。
「……ない」
 嘘でもなにか言えば良かったのだろうが。生憎、数年ほど自ら進んで聴こうとした曲はなかった。
「なにか趣味とかは?」
「そういうのも、今は、全然」
 奏志から顔を逸らし、下を向く。皿のすぐ横に一粒の米が落ちていた。
「……そっか」
 奏志の声が沈む。ガッカリさせた。きっと白けさせた。
 嘘でもなにか。なにかないのか。
 捻り出そうと記憶の底を掘り返すが、合気道以外好んで取り組んでいたものは何もなかった。
「じゃあ」
 不意に明るい声が耳に届いた。
「今から、好きなものにたくさん出会えるんだね」
 眩しい、と思った。
「そう、だね」
 楽しそうな笑顔が、嬉しそうに輝いている。
 そんなこと、初めて言われた。
「一緒に見つけていこ」
「……うん」
 恥ずかしながら、少し目頭が熱くなった。今まで、寄り添ってくれるような人はいなかったから。こんなに明るく笑いかけてくれる人はいなかったから。
 顔を見られたくなくて、視線を落として頬杖をつく。掌にピラフのバターで塗れた唇が当たった。




「……はあ。幸せそうでいっスね」
 チャラ男が、恨みがましくため息混じりに吐き捨てた。
「筋金入りの無趣味の愛音サンに付き合ってくれる人とか。それで、映画面白かったんスか?」
「センス良かった」
「ほおお」
 チャラ男の口端が歪んだ。ピラフを食べた後、奏志がおすすめの配信映画を何作か教えてくれた。チャラ男もその内の恋愛映画を見たことがあると言う。その話で盛り上がっていたのだけど、不意にやさぐれてしまった。
 デートに着ていく服を選んでくれたお礼にと、今日チャラ男と二人で、パスタ専門店に来ている。この店を指定したのはチャラ男だ。季節限定、夏野菜盛りだくさんカルボナーラパスタを食べたかったのだそうだ。確かに美味しそうではある。
「しかも、偶然にもお揃いコーデ? それはそれは、ようござんしたねえ」
 素揚げされたナスにフォークが突き立てられる。そのままくるくると、パスタ麺を巻き取って、口に運ぶ。全く美味しそうに食べていない。
「ナスが泣いてんぞ」
「オレの心も泣いてるっスよ」
 聞くと、昨日行った合コンで良い雰囲気になったバンギャがいたそうなのだが、二次会のカラオケでチャラ男がバラードを歌ったところ。
「違うわ。ないわ」
 と言われ、フラれたのだそう。
 そんなこともあるのか。笑いそうになって、堪えると噎せて、口の中のナポリタンを吹き出しそうになった。
「でもさあ、バンドの曲ってシャウトが多いし、早いし。そもそもオレの声に合ってないと思いません!? オレ、悪くないっスよね!」
 以外に細く、爽やかな声質のチャラ男が怒る。
「まあ……バンド系は、違うな」
「でしょー!?」
 今度はトマトにフォークが突き立てられる。果肉が皿の中で飛び散った。残酷な光景だ。
「まあ、オレのことはいいっスけど。次のデートの約束とかしたんスか?」
「ああ、来週末の夏祭りに行くことになった」
 掬い損ねたマッシュルームが落ち、ソースが跳ねた。服には付かなかったが、テーブルが少し汚れてしまった。
「来週末? この辺で祭りありましたっけ?」
「いや。ちょっと遠出するんだけど。会いたくないから絶対言わん」
「ほんとは会いたいくせにぃ」
 紙ナプキンでテーブルを拭きながら、ちらりとチャラ男を見る。気持ち悪い笑顔を貼り付けている。
「あとそのうち、水族館に行きたいなって思ってて。サメが好きなんだって」
「サメ好きなんて、珍しい女の子っすね」
「いや、うーん、まあ、女の子なら、そうかも」
 未だに相手は男だと言えないままでいた。言うタイミングを逃したままというより、言うのが怖くなった、の方が正しいだろう。

 それは、あの喫茶店デートの帰りのことだった。人通りの少ない裏道を二人で並んで歩いていた時のこと。
「ね、愛音。手繋いでいい?」
 なにも答える前に、手を取られた。指を絡められ、軽い力で握られる。少しかさついているが柔らかい肌だった。関節が角張っていて、俺よりも少しだけ大きな温かい手。
 手なんて気にしたこと無かった。指のささくれが今初めて、気がかりになる。
「おい。誰かいたら」
「だって繋ぎたくなったんだもん。大丈夫、誰か来たらすぐ手を離すから」
 ふふふ、と幸せそうに笑っている。ほんのり赤らめた頬で。
 そんな顔をされると、突っぱねられなくなる。手を握られるくらい良いか、と、奏志の好きにさせることにした。
 そして目の前の曲がり角から突然、若い女性二人組が姿を現した。セミの音がうるさくて、二人が近づいて来ていることに気が付かなかった。
「あ」
 慌てて手を振りほどいたが、遅かった。
 気まずい空気が漂う。女性二人はそそくさとすれ違い、背後で囁き合う。
「……見た? もったいないよね。背高い方カッコイイのに」
「外でイチャつかないでほしい」
「ね、ヤバいよね、きもい」
 気になってしまうと、嫌でも耳が会話を拾ってしまう。
「愛音。ごめん」
「大丈夫」
 笑顔の消えた奏志の背中を、軽く叩いた。
 同性同士でいることが、世間一般でどう見られているのかを、嫌でも思い出してしまった。吐き気が込み上げる。
 奏志がいつも幸せそうに笑うから、忘れてしまっていたんだ。
「え、あー……男の人、だったんすか。愛音さん、オレにもう近付かないでください」
 そんな嫌な想像をしてしまいって、チャラ男の誤解を解けないままでいる。

「愛音サン? どしたんスか、そんな難しい顔して」
「あー……いや」
 完全に手が止まっていた。チャラ男はもうほとんど食べ切っている。
「ちょっと疲れてるだけだ、多分」
「大学とかどんな感じか知らないっすけど、友達がレポートがヤバいーって泣いてたんで。大学生って大変そうっスよねぇ」
 その一言で夏休み課題のレポートをまだ書いていないことを思い出し、さらに気持ちが沈んだ。
「ね、愛音サン。デザートも頼んでいっスか?」
「いいよ」 
「いえーい!」
 チャラ男は最後のひと巻きを口に入れると、咀嚼しながらメニュー表を開いた。満面の笑みで。
「……ずっとこのままでいてほしいなぁ」
「ん? なんスか?」
「いや、こっちの話」
 冷たくなったナポリタンを口に運ぶ。玉ねぎが上手く飲み込めなかった。





 約束していたわけではないのだが、二回目のデートでプリクラを撮りに行った。場所は付き合う前に行ったゲームセンターだ。およそ一か月しか経っていないのに、あのウォンバットなどの動物の台が無くなっていた。代わりに、鳥のぬいぐるみの入った台があった。これもまた変わった台で、色鮮やかな南国調の鳥が山積みにされていた。
 プリクラは、思いのほか面白かった。
「ナチュラルな加工とか出来るから。ほら」
 お金を入れて、最初に加工の設定をする。モデルの見本写真を見て、安心した。けれどその安心は、撮影スペースに入ると無くなった。
「カメラに向かって小顔ポーズ! 三、二、一」
「なに小顔って」
「僕の真似して」
「カメラに向かってハートマーク! 三、二、一」
「それ可愛い」
「ふふふ」
 シャッターが下りるまでの間隔が短い。早い。見たことないけれど、連続撮影をするモデルの気分だ。早くて焦るし、なにより初対面の指定ポーズが意味分からない。
 撮り終わった頃には疲れていた。
「ふふん。好きな人とプリクラ撮るのが夢だったんだあ」
 ほんのり頬を染め、満足そうに笑う奏志を見ていると、まあ、多少の疲れは満足感で掻き消された気がした。
 二人並んで落書きをして、終了。印刷された小さな写真に、大きな幸せを感じた。
「こう、改めて見ると。奏志って、可愛い顔してるよな」
「ふぁっ?!」
 すぐ横にいた奏志が変な声を上げるから、腹を抱えて笑った。
 透明のスマホケースを買って、中にプリクラを入れる! と奏志は言っていた。二人で指ハートしている写真のを入れるらしい。初めてやるポーズで悪戦苦闘中の俺を、奏志が爆笑している徹底的瞬間が撮られている。
 良い写真だと思う。良い笑顔で。
 楽しかったなあ。
 数日前に撮ったその写真を、ベッドに寝転がりながら眺めていると。
「お兄ちゃん」
 妹の心音が突然、部屋のドアを開けた。驚いて飛び起きる。
「今日もパパとママ、帰ってくるの遅くなるって」
「急に開けるなよ」
「何それ、プリクラ? 誰の?」
 遠慮を知らない心音はつかつかと歩み寄り、ベッドの端に腰掛けた。奪い取られる前にと、プリクラを差し出した。
「なーんだ。彼女かなって思ったのに、男の人か」
 第一声がそれだった。溜め息交じりに言う。
「勝手に見といてなんやねん」
「可愛い顔してるじゃん。友達?」
「まあ……そんな感じ」
 目敏い心音は誤魔化せなかった。
「同じ石のピアスしてるじゃん」
 俺の左手首のブレスレットと交互に見比べながら言う。
「お前も友達と同じストラップ買ったって言ってただろ、修学旅行で。あんな感じだ」
「ストラップとアクセサリーは違うくない? それとも男の人はそうなの? まあどうでもいいけど」
 心音が立ち上がる。
「最近ちょっとオシャレしてるし、それ、珍しくコンタクトじゃん。彼女じゃないなら彼氏かと思った」
「ばっ……かなこと、言うな!」
「なんで? なにがバカなん?」
 心音の瞳の奥で怒気が揺れる。いつもならヘラヘラ笑いながら部屋を出て行くのに、なにか琴線に触れてしまったようだ。再びベッドに腰を下ろし、口を開いた。
「オシャレすんのがバカなん? 彼氏がおんのがバカなん?」
 めんどうくさい。
「どっちでもいいだろ。出て行けよ」
 ベッドに寝転がり、プリクラを眺める。奏志はいつものように、笑っている。
「あほ」
 捨て台詞をひとつ吐き、心音は部屋を出て行った。
 家族にだけは知られたくない。絶対。




 目に映る景色全てに鮮やかな色があった。それ以上に、楽しそうな人々の笑顔があった。
 電車に揺られることおよそ一時間。奏志と県外の、河川敷での花火大会に来ている。
「ねえ、次何食べる?」
 ケチャップとマスタードのかかった通常より太いフランクフルトを頬張りながら、奏志が尋ねる。
 断続的に花火が上がる音を聞きながら、二人で食べ物の屋台を中心に巡っていた。川を挟んで北側が屋台、南側が観覧スペースとなっている。けれども北側にいる客も、屋台で買った食べ物を片手に、通路の端で立ち止まって花火を見ている。
 対して奏志は食べてばかりで、ろくに花火を見ない。列に並んでいる時に少しだけ空を見上げるくらいで、あとは食べて、話してばかり。花より団子とはこういうことだろうか。
「俺、もうお腹いっぱいなんだけど」
「えー、もう? たませんと焼きそばとフランクフルトしか食べてないじゃん」
「それとラムネを飲んでるから、膨張しちゃって、腹が」
 半分無くなったボトルを振る。ビー玉がカラカラと音を立てた。
「僕もラムネ飲んでるんだけど。全然平気ですけど。僕が大食いみたいに」
 奏志は少し、拗ね気味だ。
 大食いじゃないかと言われれば、違うと思うぞ。なんて、言わないけど。
「うーん。そろそろ甘いものが欲しいし。綿菓子かかき氷なら」
 腹にたまりにくそうなふたつを挙げた。途端、顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、綿菓子にしよ! さっき前通った時、カラフルなのがあって可愛かったんだよ!」
 こっちこっち、とフランクフルトを食べながら先導する。少し手のかかる弟が出来た気分だ。彼氏なんだけど。
「祭り好き?」
「大好き!」
 即答だった。
「どこを見てもみんなが笑ってるじゃん。この辺一帯が陽気な空気で、明るくて。踊ってる人もいて。愛音は? 祭り、好きじゃないの?」
「俺は……」
 すぐ傍を、三人家族が通り過ぎて行った。母親と父親と、母親に手を引かれて歩く幼稚園児くらいの幼い男の子。愛し愛された結果の形。
「奏志と一緒なら、好きだと思う」
 前までなら心の片隅に引っかかった光景が、今は苦じゃない。
「うん」
 満足そうに、微笑んだ。
 綿菓子の屋台の前に、小学生くらいの女の子が三人いた。そのうち二人がすでに綿菓子を受け取っている。三人目にも手渡され、すぐに折り畳み式テーブルの向こうから、大学生らしい若い女性が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。どれにしますか?」
 女性がメニュー表を指さした。無難な白色の綿菓子とピンクか青色、どちらかの単色綿菓子が三百円、レインボーカラーは五百円だ。
「僕、レインボーがいいです!」
「俺も」
「では、合計で千円ですね」
 女性は微笑んで、背を向ける。
「レインボーふたつ」
「はいよ」
 そこには、父親らしい年格好の男性がいた。綿菓子の機械にザラメを流し込んでいる。
「これで、お願いします」
 奏志が千円札を差し出した。
「ごめん。手が塞がってるから。あとで五百円返す」
 まだ食べきっていないフランクフルトと、ラムネの瓶を掲げる。あと二口でフランクフルトを食べ切れるのだが、これが、どうしてもキツイ。
「え? いいよ。さっきラムネを一緒に買ってくれたじゃん」
「でもそれは二百円だし、さすがに」
「いーって、いーって」
 勢いよく顔の横で手を振った。
「ありがと」
 素直に甘えることにして、お礼を口にした。
 男性はどうやら、レインボーカラーの綿菓子に苦戦しているそうだった。ザラメの補充を、いつの間にか女性が行っている。こういう時に、花火はひとつも打ち上がっていない。
「今ならちょうど見られたのにね」
 空を見上げた俺につられて、奏志も空を見上げている。二人で煙で曇っているだけの夜空を眺めていた。煙が風に流され、少しづつ形を変えていく。ふと視線を逸らすと、川を見下ろすように立つマンションのベランダにも、ちらほらと人の姿があった。自宅から花火が見られるなんて羨ましい。そのままぼうっと眺めていると。
「お待たせしました」
 女性が綿菓子をふたつ差し出した。デカイ。さっきの小学生女子たちが持っていたものよりも遥かにデカイ。多分二倍はある。
「ザラメを入れすぎてしまって」
 困ったように女性が笑う。その後ろで男性が、機械の外まで飛び散った色様々な綿菓子を、ウエットティッシュで拭き取っている。
「でも、五百円しか渡してないですよ」
 奏志が受け取りにくそうにしている。
「今お客さんには綺麗な面しか見せてないですけど、色が写真ほど、綺麗な層にならなかったんです」
 先程見たメニュー表には、SNS映え間違いなし! と堂々と手書き文字が添えられていた。綺麗に作れなかった綿菓子では、きっと映えない。
「それなら」
 奏志が俺の分も受け取ってくれた。二人で礼を言い、屋台を離れる。子どもたちの羨ましむ視線を感じ、苦笑いが込み上げる。
「思わぬサービスを受けてしまったね」
「だな」
 顔を見合せて、笑う。
 気合いでフランクを口内に押し込んだ。目の前にあったゴミ箱に串を投げ入れ、ラムネも飲みきって捨てる。
「持っててくれてありがとう」
「どういたしまして」
 綿菓子を受け取る。確かに、裏返すと色が混ざり合い、綺麗とは嘘でも言えない仕上がりだった。
「美味しい」
 先に綿菓子に齧り付いていた奏志が歓喜の声を漏らす。
「あ、これなんかフルーツの味がする気がする」
 ピンク色だけを一口分、ちぎって食べた。
「どう?」
「あ、ほんとだ。イチゴの味がする」
「だよね!」
 歩きながら綿菓子を食べる。入れすぎた、と言われたピンク色のイチゴ味が一番分かりやすかったが、他の色もほんのりと果物らしい甘さがあった。メロンと、ブルーハワイっぽい感じは分かったが他は分からない。
「愛音! 次、射的やろうよ!」
 早くも半分を食べきった奏志に、ぐいぐい腕を引かれる。
「ね、覚えてる? 金魚すくいの約束」
 元気がなくなったら大変だからと、最後に金魚すくいをしよう、と約束していた。黒の出目金が欲しいんだそうだ。
 ふと、奏志はゲームが下手だったことを思い出した。
「出目金、取れるの?」
「……自信は全く無いです」
 項垂れて言う。
「なのでお願いします愛音様ぁ! 僕のために、黒い出目金を五匹取ってください!」
 少し残った綿菓子を御幣のように両手で握り、懇願してくる。迫力に少し、押されそうだ。
「五匹は……ちょっと……無理かなあ」
「金ならあります!」
「やめろ」
「なにとぞ! なにとぞ!」
 そんなふざけたことを話していると、突然奏志の体が揺れた。
「あ、すいません」
「いえ」
 列の間を通り抜けようとした男女に、奏志がぶつかられたのだった。それで我に返ったらしい奏志は、怒るわけでもなく、ただじっと二人の後ろ姿を見つめている。
「奏志? どうかした?」
「浴衣、良いよね。来年は着ようかな」
 それを聞いて二人の後ろ姿を見ると、同じ色の帯を締めていた。そういうペアルックもあるのか。
「浴衣良いな」
 手首のアパタイトをそっと撫でた。
 地元駅で浮いてしまうからと、二人揃って私服で来た。俺は今日もコンタクトなのだが、まだ感覚が慣れず、つい指の背でメガネを押し上げるフリをしてしまう。その度に視界の隅でもハッキリと見えるアパタイトに、胸が跳ねるのだ。
「ねえ、愛音。僕たちも次は」
 なにか言おうとしていた奏志の声を遮って、轟音が響き渡る。空を見上げると、巨大な花が咲いていた。目を引く白色に、赤、青、緑、黄色など、様々な色が混ざりあっている。
 あちこちから歓声が上がる。たまやーと叫んでいる人もちらほらいるようだ。特に川向こうの声がでかい。
 巨大な花火が消えかかる時、次々と小さい花火が打ち上げられていく。視界いっぱいの夜空に、色が広がる。暗闇が覆い隠される。花開く轟音と、笛の音が若干遅れて耳に届く。
「キレイだねえ」
「うん」
 奏志の手が、俺の右手に触れる。指が絡まりかけた時、背後で幼い男の子達が駆け回る声が聞こえ、パッと手を離す。
「ねえ、愛音」
 名前を呼ばれて顔を向ける。奏志の顔に花火の色が移っている。金色の髪が青色に見える。
 その時、一際大きな笛の音が辺りに響いた。
「また、来年も来ようね」
 途端、爆音が耳を占める。奏志の口が動いているが、もう何も聞こえない。半ば反射的に音のした方を振り返ると、夜空に見事なハートが浮かび上がっていた。
 それが煙だけを残し、夜空に溶けていくのを見守ってから、奏志に向き直った。
「なんて言ったんだ?」
 にやっと笑って、奏志が耳に顔を近付ける。
「好きだよって、言ったの」
「は……っ!? おま、ベタなことすんな!」
 奏志の体を押し、離れさせた。
「ほら、お前は前向いてろ。もう少しだろ」
 屋台の方を向かせる。一番前で銃を構えているのは中学生くらいの男子四人だった。みんなであーでもないこーでもないと言いながら、景品のゲーム機を狙っているようだ。
「え、何? 照れてるの? 顔見せて!」
「うるさいこっち向くな!」
 力いっぱい背中を押す。その時。
「あれ? 愛音サン?」
 不意に背後から名前を呼ばれた。聞き覚えしかない声に嫌な予感を抱きつつ振り返る。若いギャル風の女の子と腕を絡めたチャラ男が立っていた。
 嫌な予感は的中してしまった。
「あ、いや、これは」
 慌てて奏志から手を離す。短く息を吐き、平静を装った。
「彼女さん?」
「いや、妹っス」
「はじめましてー。よろしくです。ねえ、その綿菓子かわいー」
「……妹!?」
 確かに、チャラ男よりも幼くは見える。よく見ると顔立ちが似ているのかもしれないが、二人とも濃いメイクをしていてよく分からない。輪郭がそっくりなのは分かるのだが。
 明るい金髪を頭の上で盛り、小麦色の肌をした妹は、俺が兄のバイト先の先輩だと聞くと、チャラ男から腕を離した。
「カツラギさん。兄がいつもお世話になってます」
 と微笑みながら小さく頭を下げた。言い難い苗字に、少し舌足らずのようになっていた。
「……すごく……礼儀正しい妹さんなんだな」
「うちの親、礼儀作法とかには結構厳しっスからね」
「お兄ちゃん。何その話し方」
 妹に睨まれ、チャラ男は小さく舌を出した。帰ったら説教が待ってそうな雰囲気だ。
「愛音さんは、お友達とですか?」
 振り返ってこちらを向いている奏志を見ながら、チャラ男が言う。
「はい。友達の松林奏志です」
「えー! 待って、チョーカッコイイんですけど!」
 妹が興奮して長い爪の手を振る。爪に色々な飾りが付いていて可愛いが、シンプルに凶器になりそうだ。
「マジでカッコイイっすね! 松林さん? も同じ大学なんですか?」
 珍しい苗字に自信がなさそうに名前を呼んだ。
「いえ、僕は大学生じゃないです。美容専門学校に通ってます」
「じゃあ、高校からの?」
「知り合ったのは少し前です。通学途中の電車で……助けてもらったことがあって」
 奏志が照れたように笑う。対照に、チャラ男は何かに気が付いたように、すぅっと笑みが引っ込んだ。
「……そのピアス」
「ん?」
 チャラ男の視線が俺の左手首に向いた。
「……あー……いや。愛音サン、それじゃ、また。明後日のバイトよろしくです!」
「あ……うん」
 気付かれた。絶対、チャラ男に気付かれた。
 まだ話していたい、と言う妹の手を引いて、いつもより笑顔を振りまきながら、チャラ男は人混みの中に消えた。
 頭の芯から体温が冷えていく。なのに背中にじっとりと嫌な汗をかいている。
「愛音? 顔色悪いよ?」
「どうしよう。バレたかもしれない」
「……ん」
 小さく呟いたきり、奏志は何も言わなかった。
 すぐに射的の番が来て銃を渡されたが、上の空だった。何も考えられない。なにも入ってこない。俺が撃ち落としたのか奏志が撃ち落としたのか分からないキャラメルを一箱貰い、屋台から離れた。
 どうしよう。明後日。チャラ男になんて言えばいい? チャラ男に何を言われる?
 そんな考えても詮無いことが頭の中を、ぐるぐるぐるぐると回り続ける。
「愛音。帰ろうか」
 奏志に肩を叩かれ、ハッとした。
「いや、出目金は」
「いいよ。チラって見たら、出目金、五匹もいなかったし」
 射的の三つ隣の金魚すくいの屋台を指さして言う。確かに水槽の中は赤い小魚ばかりで、黒色は二、三匹しか見えない。
「……いいのか?」
「うん。そもそも一時間も電車に揺られるの、魚にとってはストレスだろうしね」
 いつものように笑っている。その後ろでまた、花火が打ち上がったようだ。笛の音と、破裂音と、火薬の匂いと、歓喜の声が辺りを満たす。
「……ごめん」
 空を見上げる人々とすれ違いながら歩いて行く。
 花火の炸裂音に背中を叩かれながら。まるで追い出されるように。





 バイト中は幸いというか、チャラ男と話すタイミングが無かった。他の従業員も多くいたし、なにより無駄話が出来るほど、今日は暇ではなかった。
 チャラ男が先に九時に上がった後、知らず知らずのうちに肩が強ばっていたことに気が付いた。
「お疲れ様でした」
 そして十時になり、退勤を押す。事務所で着替えて裏口から店を出ると、電柱にもたれてチャラ男が立っていた。思わず身構える。
「愛音さん」
 真顔で名前を呼ばれたが、無視して足早に通り過ぎようとする。しかしすぐに追いつかれ、右手首を掴まれた。
「なに」
足を止め、腕を振り払う。チャラ男と向き合うと、至極真剣な目をしていた。
「愛音さん。オレ、言っておきたいことがあるんです」
「……なんだよ」
 眉間にシワが寄る。名前も分からない虫の鳴き声以外、何も聞こえない。
「どうして、何も言ってくれなかったんですか?」
「なにを?」
「付き合ってる子が、女の子じゃないって。オレ、何度も彼女って呼んでたじゃないですか。いくらでも訂正出来たでしょ」
 声に怒気が含まれている。
 言えるわけないだろ。そんなこと。気持ち悪いだとか、いつかのあいつらみたいに思うに決まってる。
 だってチャラ男は女の子が好きだから。男同士なんて、考えたこともないだろう。
「きっと気持ち悪いって思――」
 口を開いた時、チャラ男の声が重なった。
「女友達を紹介してもらおうと思ってたのに!」
「ん?」
「あわよくば愛音サンに合コンをセッティングしてほしいなあ、なんて考えてたのに! 今年の夏のハーレムをそれに賭けてたのに! どうしてくれるんスか!」
 たっぷり五秒は間が空いた。口から溢れ出たのは呆気の「は?」だけだった。
 嘘つき、愛音サンのバカ、などと子どもみたいにキレているチャラ男を宥める。どうどう。
「ちょ、ちょっと待てよ。え? 言いたいことって、それ?」
「はい。そうですけど?」
 当たり前みたいにしれっと言う。迷いなく。そしてすぐに。
「なんスか? オレの恋愛事情なんて興味がないって? はあー、そうですかそうですか。薄情者!」
 地団駄を踏んで怒鳴る。なんでそうなる。
「なんだよ、もおおお! 他に言うことないのか!?」
 二日怖がって損した気分だ。胃がムカムカする。
「他に?」
 腕を組み、眉間に皺を寄せて本気で考え始めた。嘘だろ。
「俺が、男の人と付き合ってることに対して、なんとも思ってないのか?」
「ああ! そのことっスか!」
 逆にどのことやねん、と俺の中の関西人の血が一瞬騒いだ。
 チャラ男は口を開くと。
「どっちが女役なのか気になるくらいですけど」
 と、わざわざ声を抑えて言った。
「こら!」
 人気のない夜道に、どこまでも声が響き渡る。
「体格的には愛音サンかなーって思うんすけど、相手の人、可愛い顔してたじゃないスか。それに」
「やめろバカ何考えてるんだ!」
 心臓が痛いくらい暴れている。
「だってえ、マジでなんとも思ってないんスもん」
 殴られるとでも思ったのか、チャラ男は胸の前で両手をあげる降参ポーズを見せた。
「は? ……なんで? 気持ち悪いとかって、普通思わん?」
「全く。逆に思ってほしいんですか?」
「そんなことはないんだけど」
「はあ、分かんないっスね」
 嘘はついていないようで、その言動に安心はしたが、なんでだろう。少しイラッとしてしまっているのは。
「まあ、もう何でもいいよ」
「……愛音サン。やっぱもイッコ言っていいでスか?」
「なんだよ」
「オレ、あんまり頭良くないんで上手く言えないと思うんですけど」
 俺たちのすぐ側を、一台の自転車が走り抜けて行った。遠ざかるのを待って、チャラ男が言葉を続ける。
「誰かを好きになるのもならないのも、自分の意思とは関係の無い、本能的なとこだと思うんスよ。
 例えばホラー映画が好きな人がいれば、嫌いな人もいる。
 虫が好きな人がいれば、嫌いな人もいる。
 それらは好きになろうと努力しても苦手なものは苦手なままだし、逆に好きになろうと思っても好きになれない。万人がイタコやファーブルのようになれないでしょ。……イタコはちょっと違うか? ま、ともかく、他者に対する恋愛感情も、同じなんじゃないですか?」
 上手く言えない、と言いつつ、滑らかに話している。言葉を選んでいるからか、眉間にしわを寄せた、険しい表情で。
「少なくともオレが生きてきた二十年間は、全く同じでしたよ。オレより年上のヤンキーの彼氏がいるコを好きになっちゃって、好きになっちゃいけないのに、でもどうしても嫌いになれないし。生理的に受け付けられないコは、オレがどんだけ気持ちを入れ替えてもやっぱムリだし。
 恋愛感情も、幽霊や虫なんかに対する気持ちと、同じくらい軽い感じに思っちゃって良いと思うんですよ。だって、好きだ嫌いだって気持ちは、同じなわけでしょ? 性欲はまあ、別として」
 確かに、と頷く。ふと腕に違和感を覚えて視線をやると、蚊に血を吸われていた。それに息をかけて吹き飛ばす。
「辞書やネットで恋愛とは、なんて調べると、強く惹かれること、とかってありますし。幽霊やカブトムシに【強く惹かれる人】もいるでしょ、当たり前に。
 それを同性はどうこう、結婚がどうこう、てなんで変にみんな考えるんスかねえ?
 ほんとに好きになるモノって、自分で選べないじゃないですか。誰がなにを好きになってたって、それはその人の自由で、個性なんだから。だからオレは、自分とは違うからって、特別気持ち悪いだとか思わないし。寧ろ自分の中の気持ちを大切にしてほしい。尊重してあげたいと、思ってます。だから、えーっと」
 チャラ男は頭を搔いた。そして照れくさそうに笑う。
「応援、してます。多くの人が祝福してくんなくても、オレは、オレだけでも、ずっと二人の幸せを願ってます」
 圧倒された。普段ふざけてるだけのチャラ男が、こんなことを考えていたなんて。
 出会ってもう二年になるが、俺はまだ、チャラ男――木村純のことを全然知らないようだ。
「……なんでチャラ男やってんの?」
「好きな芸能人がいるんすよ」
 そう言ってチャラ男は、コンビで活動しているチャラ男芸人の名前を上げた。少し前、相方の弟も含めたダンサー四人を合わせた六人グループを結成し、アルバムをリリースしたことで、話題になっている。以外にラップが上手いんだな、と初見です感想を抱いたのを覚えている。
「一緒にコントやりませんか? オレのあっちゃんになってください!」
「嫌だよ」
 笑いながら、差し出された手を叩く。俺の武勇伝とかステージで暴露されたくないし、そもそもされるような武勇伝なんてない。
「なら、正統派漫才なら? 愛音サン、大阪の出身でしたよね?」
「それはうちの親父だし、出身は兵庫だよ」
「ツッコミの血とか騒ぎません?」
 ねえねえ、としつこく勧誘してくるチャラ男を置いて、歩き出す。だけどすぐに追いつかれて、並んで駅の方に向かう。
「気になったんですけど、愛音サン、ご両親には話、してるんスか?」
「なんの?」
 聞き返してみたけれど、返ってくる答えは何となく分かっていた。
「彼氏サンのこと」
「言ってない。言えるわけないだろ」
 だから、思っていた以上に食い気味に答えてしまって、チャラ男が渋い顔になった。
「……なに」
「いや、拗らせてそうだなあって」
「……かもな」
 合気道を辞めた時から、何となく両親には自分のことを話しにくい空気を感じていた。
 以前、奏志は両親に音楽の道に進むことを望まれていた、と話したいたけれど、きっとそれは、うちの両親も同じだ。違うのは、音楽とスポーツの違いだろう。
 祖父母の代からの遺伝的にも、幼少期から俺は、体格に恵まれないことが分かっていた。だから両親は、俺を合気道の道場にいれた。身長に恵まれなくても、むしろ有利になる技もあると、知人から聞いたからだそうだ。
 両親は、隠すのが上手かった。プレッシャーを感じたことがなかった。練習で上手く出来ても出来なくても、それで両親の機嫌が変わることはなかった。関係に亀裂が入ることはなかった。
 だけど俺が合気道を辞めたい、と言った時。同級生達との体格差に悩んでいた時。あの時の両親の表情は、家庭内に漂った重苦しい空気感は、きっと一生忘れられない。
 ――もうお前の好きにすればいい。今まで苦労かけさせてきたくせに。
「愛音サン?」
「いや、なんでもない」
 嫌なことを思い出してしまった。
「話、戻す感じになるんだけど。恋愛感情って、どんなんだと思う?」
「え? というと?」
「心の動き? とか、そういうのを。具体的に」
「……ああ、愛音サン、趣味とか無さそうですもんね。例えが悪かったか」
 意地悪な笑みを浮かべるチャラ男の臀を蹴りあげた。
「ごめんなさいっ! えっと……その人のことを考えると胸が苦しくなったり、その人のことを考えて何も手に付かなくなったり。その人に触れたいと思ったり。その人と離れるとすぐにまた会いたいと思ったり。相応しい人間になりたいと思ったり。他の誰でもない、自分が幸せにしてあげたいと思ったり。同じ時間を共有したい。あとは」
 話しながら指を折り、また開いて。今ちょうどピースしている。
「もういいよ。……てかすごい出てくるな」
「恋多きオトコなのサ!」
 そのピースで目を囲うようなポーズをとる。だがすぐに俺からの攻撃に備え、身を小さくした。が。
「……愛音サン?」
 何かを感じる気力すら消えた。心が酷く、残酷なほどに凪いでいる。
 分かっていたのに。期待しない方が良いって。
「なあ……相談があるんだけど」
「オレで良ければ、なんでも」
 心臓が痛い。だけど、チャラ男なら大丈夫だという安心感が芽生えていた。
「実は……俺は……」
 ぬるく、気持ち悪い風が吹き抜けて行った。
「……それは、愛音サンにしか決められません。それに良いも悪いも、なにもありません。奏志さんが、周りが、愛音さんに石を投げつけても、オレだけは愛音さんの横に立ち続けます。だから……」
「ん。ありがとう」
「奏志さんに話すなら……きっと、早い方が良いっす」
「そうする」
 心臓が、見えない手に握り潰されそうなくらい、苦しかった。




 夏休み最後の週末。サメ好きの奏志のリクエストで、車をレンタルし、他県にある日本最大級のサメの展示数を誇っている水族館に来ていた。
「うわああ! え、この子もいるの……!?」
 水槽に文字通り貼り付いて、興奮して見つめている。ぶっちゃけ俺には、サメの何が良いのかいまだによく分からない。
 でも知っている以上のサメがいて面白い。今奏志が見つめているサメは、平べったい白いサメだ。サメだと言われなかったらサメだと思わないだろう。
 水槽脇のパネルを見る。タッセルドウォビゴング。名前にサメとついていない。西武インド洋にいる種族だそうだ。
「……噛みそうな名前だな」
 それしか感想が思いつかなかった。
「確かにー!」
 けらけらと奏志が笑う。周りにいる子どもたちも、奏志を真似して笑った。その子どもたちの保護者らしき大人たちは、少し離れたところから微笑ましそうに眺めている。幼いきょうだいを抱いた母親や、ベビーカーを押している父親。
 そんな空間を、俺は少し離れた位置から眺めていた。奏志は俺がいなくなったことに気が付いていない様子で、水槽にへばりついている。
 ――その人のことを考えると胸が苦しくなったり、その人のことを考えて何も手に付かなくなったり。その人に触れたいと思ったり。その人と離れるとすぐにまた会いたいと思ったり。
 不意に、チャラ男の言葉を思い出した。視界の中にいる彼ら彼女らは、お互いにそういう想いを抱き、永遠の変わらぬ愛を誓い合ったのだろうか。
 言わないと、とは思うのだが、切り出すきっかけが掴めない。踏み出す勇気すらない。
 俺は、奏志とは。
 底の見えない思考の海に沈みそうになった時。
「愛音―!」
 奏志が俺の名前を叫んだ。水槽から離れ、人波をかき分けて向かってくる。
「もう! ちょっと焦ったじゃん! 薄暗いから水槽から離れるとあんまり見えないし」
 プンスカ、という表現が似合いそうな怒りを湛えている。
「あ……ごめん」
 少しだけ、嬉しいと、思いかけてしまった。
「愛音? どうかした?」
「いや、なんでも」
「もしかして、サメ嫌い?」
「好きか嫌いかで言ったら……まあ、嫌いかな。人間食うし、怖いし」
「じゃあ、人間を食べないサメを見に行こうよ!」
 奏志が力強く手を取った。
「そんなサメいる?」
 引かれるまま、歩き出す。昨日の夜も寝る前にハンドクリームを塗り込んでいて良かったと思いながら。
「いるよー。ヒゲツノザメとかジンベイザメとかトラフザメとか」
「それ、ここにいるの?」
「……さあ? でもジンベイザメならいるんじゃないかな」
 振り返り、満面の笑みで言う。
「なんだよ、それ」
 無邪気な笑みに、釣られて笑みが溢れた。
「あ、待って、シュモクザメがいる! うわあ、可愛いー!」
 不意に奏志が方向転換した。通路から外れ、巨大水槽の前に向かう。数人の客に紛れ、しゃがんでサメを下から見上げた。
「シュモクザメ?」
 聞いたことある。なんだっけ、あのゲームセンターのクレーンゲームの景品にいたんだけど。水槽の前に立って、そのサメの姿を見て思い出した。
「ああ、ハンマーヘッドシャーク」
「そうそう」
 奏志はキラキラした目を水槽に向けている。見つめる先は、悠々と泳ぐ数匹のシュモクザメだ。目が左右に飛び出しているビジュアルが特徴的で、頭部と尾をくねくねと揺らし、優雅に泳いでいる。影だけ見ていると、確かに可愛い気もしてくる。影だけなら。
「……人間を食べないサメ」
「シュモクザメが人間を襲ったって言う事案は、あんまりないんだよ。基本的に臆病な子たちだから、肉食だけど人間がいたら逃げるんだって」
「ほー」
 目の前を泳いで行ったシュモクザメの一匹が、こちらを睨んでいた気がするのは気のせいだろうか。
 水槽から目を逸らし、パネルを見つめる。シロシュモクザメ。メジロザメ目シュモクザメ科。温帯から亜熱帯の沿岸に生息している。名前の由来は鐘などを打つT字型の撞木から。
「シロシュモクザメ? クロシュモクザメとかもいるのか?」
「ふふっ、クロはいないよ」
 余程バカっぽいことを行ってしまったのか、奏志は口元を抑えて笑った。
「いるのはアカシュモクザメだよ」
 水槽から目を離し、こちらを見て言う。いつも見下ろされてばかりだから、新鮮な感じがする。
「赤色?」
「違うよー。頭の中央がくぼんでるのが見分け方のコツで、色とかはあまり違いはなかったかな」
 他にも、目が左右に飛び出しているおかげで人間のように奥行きを感じることが出来ている、とか、日本に生息しているのはアカシュモクザメ、シロシュモクザメ、ヒラシュモクザメの三種類であるとか、体長は四メートルになるとか、ぺらぺらと解説してくれる。
「他のサメもそんなに詳しいのか?」
「全然。シュモクザメだけだよ。サメの中でこの子が一番好きで」
 サメを見上げる瞳はキラキラと輝いていた。だからか、ぬいぐるみを欲しがっていたのは。悪いことをしてしまった気分になった。何が何でも、取ってあげれば良かった。
 そろそろ行こうか、と奏志が立ち上がったのは、たっぷり十分が過ぎてからだった。
「もういいのか?」
「うん。今、心が超幸せ」
 頬を膨らませて微笑んでいる。
 先程話していた、人間を襲わないサメであるヒゲツノザメはいた。
「あ、なんか可愛い」
「でしょー!?」
 奏志が食いついてきた。
 黒い肌に、くっきりした目、丸みの帯びた背びれに、顎の下に二本のヒゲが生えている。そのヒゲが可愛い。
 他にもネコザメやエパウレットシャークなど、初めて見るサメを観賞して回った。サメについての研究を展示してあるスペースもあり、ここは文字通り発狂しそうなくらい、奏志がはしゃいでいた。
 サメの他にもクラゲやアザラシ、マンボウなども見応えがあり、閉館ギリギリまで行ったり来たりを繰り返していた。
「ねえ、愛音。シュモクザメ……」
「良いよ。戻ろうか」
 冗談抜きでサメのエリアには五回は行った。何回見てもヒゲツノザメは可愛かった。



「連れて来てくれてありがとう」
 幸せオーラ前回で、心做しか肌ツヤも良くなってる気がする奏志は、お土産コーナーで買ってあげたシュモクザメのぬいぐるみを抱いている。お返しにと、俺にはジンベイザメ柄のクッションを買ってくれた。
涼しかった館内を出、外の駐車場に向かう道中も、興奮冷めやらぬ奏志はずっとサメのことを話していた。
「サメの標本が展示されてたあの部屋! あそこがすごい最高だった! あそこに住みたいくらいだよ」
「サメの歯のデカさにはビビったんだけど」
「えー、カッコイイじゃん!」
 人の疎らな道で、小さくスキップしながら歩いている。まるで体だけ大きくなった子どもみたいだ。
「そういえば、家でペットとして飼えるサメもいるんだよ」
 奏志がスキップを止めた。
「まじで」
「何匹かいるんだけど、トラザメが一番可愛くて好きで。小柄で、背びれが丸くて、茶色で縞模様で」
「飼えば良いんじゃないのか?」
 サメ好きで知識も豊富な奏志なら、上手く飼えると思うのだけど。そう言うと。
「アパート住まいなんだけど部屋が狭いから、水槽を置けるスペースがなくて。それに家にサメがいると離れがたくて、きっと学校に行かなくなっちゃう」
 冗談っぽく言っているが、冗談には聞こえない。
 停めていた車に辿り着き、ロックを解除する。ドアを開けると中から溢れ出た、むあっとする暑い空気に全身を包まれた。運転席に座り込み、エンジンをかけて冷房と後部座席の窓までも開けた。
 助手席に乗り込んだ奏志はまだトラザメの話をしている。
「はあ、話してたらトラザメに会いたくなって来た」
「また来ような」
 シートベルトに手を伸ばす。上手く引けなくて、体ごと向く。
「ね、愛音」
「ん?」
 呼ばれて振り返る。瞬間、目の前に奏志の顔があった。
「そう……!」
 毛穴のない肌が近い。吸い込まれそうな茶色の瞳が近付いてきて、そして、唇が触れた。柔らかくて、瑞々しくて、温かくて。
 どうして。
「……今日は連れて来てくれてありがと」
 奏志が顔を離して、笑った。楽しそうに。幸せそうに。
「ど、ういたしまして」
 対して俺は今きっと、顔が引き攣っている。言葉を絞り出すのに力を込めないといけないくらい。
 暑さのせいとは違う、嫌な汗がじわりと浮き出した。
「……あ」
「帰ろうか」
 すう、と笑顔が消えた奏志から、顔を背ける。アクセルを踏み、ゆっくりと車を発進させる。駐車料金を払い、国道に出る。歩行者を確認するついでにミラー越しに奏志を見ると、シュモクザメのぬいぐるみを強く抱き、窓に顔を向けていた。
「ねえ、愛音」
「ん?」
 隣で身動ぎする気配があった。
「来年は……海に行こうよ。ううん、その前に、冬に温泉旅行とかどう?」
 いつものように、明るく弾んだ声で。
「良いね」
「ほんと? 約束だよ」
 視界の隅で奏志がサメのぬいぐるみをこちらに向けた。今横を向くときっと、奏志より先にサメと目が合うんだろう。
「うん。……なあ、奏志」
 心に決めた。今、この瞬間に。
「このまま、俺の家に来てくれないか?」
 赤信号で車が停まり、奏志に体を向ける。それまで緩んでいたであろう頬が、強張っていく。
「うん。良いよ」
 沈んだ声で、答えてくれた。





 彼氏とデートに行く、と言っていた妹もまだ、帰って来ていなかった。家には今、誰もいない。
「お邪魔しまーす。……わあ、綺麗だね」
 玄関に入るなり、室内を見渡してそう言った。中古の家は、目につきにくいところが傷んできている。二階にある俺の部屋に通しても、ずっと視線が定まらない。
「ちょっと待ってて」
 奏志を残し、一階に降りる。足取りが重い。冷えた麦茶を用意して、階段を上がる。軋む音が心臓に刺さる。
 ドアを開けて部屋に入ると、奏志は三段ボックスを覗き込んでいた。
「ねえ! ゲームあるじゃん!」
 収納と本棚を兼ねている三段ボックスには、折りたたみ式の携帯型ゲーム機が無造作に置かれている。数年前に発売された、画面が3Dになるタイプのものだ。
「お茶ありがとう。ね、カセット何持ってる? 今度僕も持ってくるから、対戦しない?」
 楽しそうな弾む声が、期待に輝く瞳が、自然に綻ぶ笑顔が。何かを察しているのか、少しぎこちなくも見えるのだが。
 全部全部、痛くて苦しくてつらい。
 いつもどこでも底抜けに明るい奏志の隣に、俺は相応しくないから。
「奏志。大事な話があるんだ」
 テーブルを挟んで、向かい合うように座る。
「愛音? どうしたの?」
 丸い目が、純粋な瞳が。俺の顔を凝視する。
「別れてほしい」
「……え?」
 奏志の顔から笑顔が消えた。
「な、なんで? 聞き間違いなのかな? ね、愛音」
 縋るような視線に耐えかね、俯く。
「ごめん、奏志」
「い、いやだよ! なんでそんなこと言うの!?」
「その……」
 上手く言葉に出来ない。
「僕、なにかした? 嫌なことしてしまったなら、ごめん。ちゃんと謝るし、もう絶対しないから」
 段々と奏志の声が枯れていく。
「それは違う」
 顔を上げる。奏志の両頬を、大粒の涙が伝い落ちていた。
 違う。奏志は悪くない。俺だ。全部、俺だけが悪い。罪悪感で吐きそうだ。
 無意識に手首を掴んで、アパタイトの冷たさに指が触れた。
「ごめん、奏志。ただもう……疲れてしまって」
 言葉が喉に引っかかって。溜まることなく涙が一粒零れ落ちて。口から捻り出したのは言葉足らずの、たった一言。
「……疲れたって何? なにか無理させてた?」
 奏志が膝を擦り寄せる。テーブルが邪魔をして、前かがみになった。
「俺……俺は、奏志のことが、好きじゃない。人として好きだけど……そうじゃなくて……恋愛の意味で、好きにはなれない……どうしても」
 上手く言えない。どう言えばいいのかも分からない。
 チャラ男には、愛音サンの言葉で伝えないとダメですよ、と怒られてしまったけれど。これはあまりにも伝わらなさすぎるのではないか。
「ああ……そんな気はしてたよ。なんとなくだけど。気のせいだったらって、思ってたのに」
 苦笑いを浮かべた頬を、涙が伝い落ちる。
「ごめん」
「ね、教えて。愛音は、ノンケってこと?」
 涙に濡れた力強い目が覗き込んできた。
「違う。俺は……」
 息を飲み込む。
 思い込みかもしれない。本当は違うかもしれない。そうかもしれない、という一筋の希望を捨てきれなくて、言葉に出すのが躊躇われる。けれど、それじゃあ不誠実だ。
「無性愛者なんだよ。一切の恋愛感情が湧かない、性的欲求もない、そういう、セクシャルマイノリティ」
「……うん。知ってるよ、僕、それ。会うのは初めてだけど」
 奏志の肩から、表情から、力が抜ける。
「だから、奏志の気持ちが分からない。……向けられる感情が。求められる行為が。それに、応えられない自分が、段々惨めになってきた」
 お前は恋愛感情が分からない欠陥人間なんだと、突きつけられているようで。
 ――つまらない。
 いつか、かつて彼女だった人の軽蔑の声が耳に蘇る。
「どうして言ってくれなかったの」
「……ごめん」
「僕、今はもう、こんなに愛音のことを好きになっちゃったのに……!」
 悲壮な声が耳をつんざく。
「愛音としたいことがたくさんある。行きたいところもいっぱいある。冬に温泉旅行に行きたいし、来年は海にも行きたい。二十歳になったら一緒にお酒を飲みにも行きたい」
 いたい。いたい。いたい。
 もう。
「その想いを向けられていることに、耐えられない」
「……僕、自分のことばかり、だったんだね。ごめんね」
 嘘をつけばつくほど、ゆるりと喉を絞められていく心地。
 痛くて。苦しくて。怖くて。逃げたくて。
「コンタクト、似合ってたよ。僕とのデートのためにオシャレしてくれたんだって、嬉しかったのに。その気持ちは違うの?」
「デートの時はオシャレをするものだからって、言われたから」
「……そっか。舞い上がっちゃってた」
 俯いて、バカみたい、と呟いた。鼻を啜って、泣く。
「ごめん。謝って済むことじゃないと思うけど、それでも」
「もういいよ」
 指で涙を拭い、居住まいをただす。背筋を伸ばし、真っ直ぐ目を射抜く。そこには、常に浮かんでいた熱は無い。ただただ、冷えきった感情が横たわっているだけ。
「今までありがとうございました。桂木さん」
 俺の方こそ、ありがとう。
 奏志のお陰で、俺の人生の中で一番人間らしくいられた二ヶ月だったよ。
 そう言いたかったけれど喉が開かなくて、言葉が出なくて。奏志は立ち上がると、シュモクザメのぬいぐるみをきつく抱きしめ、ドアに向かった。
「……じゃあ、ね」
 最後に一度。名残惜しそうに奏志が振り返った。真っ赤な瞳は、溢れる涙を抑えられないでいる。
「そう……」
 呼びかけた声は、閉まるドアに阻まれた。
 奏志には、幸せになってほしい。
 この先きっといつかは、奏志は自分のことを同じように愛してくれる相手に出会えるだろう。愛した分だけ、愛してくれる。求めるだけ、応えてくれる。そんな、自然な恋愛の形に収まるのだろう。
 俺が知らないところで、知らない男の隣で、あの明るく弾む声で、愛しい恋人の名前を呼ぶんだろう。
 そんな、当たり前の幸せを掴んでほしい。
 だから、奏志のために、別れる選択をとった。
「はは……あはは……」
 綺麗事を並べて正当化したって、虚しいだけだった。本当はただ、自分が苦しかったからだ。応えられない愛が、返せない想いに、申し訳なさが先立った。そしてそれが自己嫌悪に姿を変えるのに、時間はかからなかった。
 けれどもう苦しめられない。悩まなくていいんだ。今日からまた、ぐっすり眠れる。そう思うと笑みが込み上げてきた。
 後悔なんて、知らない。何も見てない。
「俺は……ばかだ……」
 強ばった顔に手を当てる。掌はすぐに、あつい涙で濡れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?