HUGっと!プリキュア全力レビュー①
『HUGっと!プリキュア』を観終わった。なんだこの傑作は。もともと2018年2月~2019年1月にかけて放送されていた作品で、たびたび話題になっていたのは知っていたし、私絶対これ好きだわと確信していたが、残念ながら海外赴任の時期と重なりリアタイできていなかった。このたびMXの再放送で無事全話観終わることができたので、全力レビューしていきたい。やはり噂に違わず大変よい作品で、今ではキャッチコピー「なんでもできる!なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!」を聞くだけで涙が出そうになる。
※以下、ガッツリネタバレしています※
●あらすじ
主人公・野乃はなは中学2年生。転校初日、空から謎の赤ちゃん(はぐたん)が降ってくる。はぐたん、そしてはぐたんと一緒にやってきたハリハム・ハリーは、クライアス社と呼ばれる謎の組織に追われていた。はなはキュアエールに覚醒しクライアス社を撃退。以降、薬師寺さあや(キュアアンジュ)、輝木ほまれ(キュアエトワール)、愛崎えみる(キュアマシェリ)、ルールー・アムール(キュアアムール)とともに、はぐたんを守るためクライアス社と戦う。
のちに、クライアス社およびはぐたんとハリーは未来からやってきたことが判明。はぐたんの正体は、未来のプリキュア・キュアトゥモローであり、クライアス社の追っ手から現代へと逃げてくる際、時間遡行の影響で赤ちゃんへと姿を変えてしまったことがわかった。ジョージ・クライ社長が率いるクライアス社の目的は時を止め世界から未来を奪うこと。そのために、明日をつくる力=アスパワワの結晶であるミライクリスタルをキュアトゥモローから奪取することを目論んでいる。
…というのが、物語の大筋だ。これより先は一部私の考察を含むあらすじになる。
クライアス社の社長であるジョージははなの未来の夫で、はぐたん(キュアトゥモロー)はジョージとはなの娘だった。
ジョージがいた未来は核戦争か何かで荒廃しており、はなはなんらかの理由で既に亡くなっている。ジョージははなを亡くした絶望と人類に対する絶望から未来の時を止めたままにしようとしており、未来を守ろうとするキュアトゥモロー(実娘)と敵対している。また、過去(現代)に戻った時に生きているはなと出会ったことで、はなが生きている現代の時をも止めようとしている。(時間を止めるとはなが亡くなることもないから)
核戦争か何か…というのは想像に過ぎないが、
・未来の世界が荒廃しているのはクライアス社のせいではない
・未来の時が止まっているのもクライアス社のせいではない
・ジョージの発言「未来の時を止めたのは僕ではない。時を止めたのはそこに生きる民衆だ。文明の進化、だがその成長に見合うほど人類は尊い生き物ではない。」
ということから、文明は発展し技術革新は進んだが人類の倫理観はそれに見合った成長を遂げず(これは今の世の中でも言えることだろう)大規模な戦争に発展した、と推測した。
ジョージははなの未来の夫であり2人の子どもがはぐたんであるというのは作中では明言されていないがほぼ間違いない。最終話、はなの出産に駆けつける夫と思わしき人物のシルエットがどう見てもジョージだし、産まれた子どもにはなは「はぐたん」と呼びかけている(顔もいっしょだ)。また、ジョージの回想シーンで度々成長したはなと思われる女性の姿が出てきたり、夢の中でウエディングドレスを着たはなが登場したりもする。そしてジョージが未来で大切な人を亡くしたことも示唆されており、中学生のはなに対してジョージは「2人で幸福なまま永遠の時を過ごそう」とも語りかけている。というか、ラスボスなのにジョージは初登場時からずっとはなちゃん大好きおじさんなのだ。(46話のサブタイ「クライ、ふたたび!永遠に咲く理想のはな」なんていかにも…)
とすると、はなが守りたい未来とは自分がいない未来という、なんとも皮肉なことになる。ジョージとはなの話が平行線なのもそりゃそうで、ジョージは世界が、はながどうなるかを知っているからこそ、無知故の無邪気さで「輝く未来」を信じるはなとはわかりあえない。自分の行く末を知らないからそんなことが言えるのだと、現実を知れば思い知るはずだと。
結局HUGプリとはジョージがはなを亡くした絶望を乗り越えてまた未来に希望を持てるようになるまでの再生の物語という見方もできるのではないだろうか?HUGプリ全体としても「何度絶望したとしても人はまた希望を持てる」ということが重要なテーマになっているように思う。これに関してはまた後述する。
●世界線問題
クライアス社を倒したことで未来が書き変わり異なる世界線(はなが死なない世界線)に移行した、とする説があるが、正直本編だけではそこまで断定することはできないと思う。最終話ははながはぐたんを出産したところで終了しているが、核戦争(仮)が起こって世界が荒廃しクライアス社が誕生するのは、はぐたんがキュアトゥモローになる年齢を考えると、本編のエンディングから10数年後の話となる。と考えるとはな達が戦ったクライアス社は本当に分岐した未来から来たと言えるのだろうか?逆に言うと、はぐたんとクライアス者の面々が帰っていったのは、違う世界線の未来なのだろうか?
〈世界線分岐説〉
〈世界線不分岐説〉
私は世界線は分岐していないのではないかと思う。つまり、中学生のはな達が戦ったのは同じ世界線からやってきたクライアス社ではないかと思うのだ。
前述の通り、未来の世界が荒廃しているのはクライアス社のせいではない。時系列としては世界が荒廃・はな死亡→ジョージ絶望・クライアス社誕生→キュアトゥモローを追ってジョージが過去の世界へ→キュアエール達との戦い・クライアス社解散という流れだから、すべて同じ世界線の話だと考えてもおかしくはないのだ。むしろ、たとえ世界線が分岐していたとしても世界が荒廃するのは避け難い流れである(はな達と関係ない理由で荒廃するから)ことを考えると、ジョージが絶望することも、それがきっかけでクライアス社が結成されることも、どの世界線でも避け難いことではないだろうか?
「異なる世界線が生まれたわけではなく、未来の人間が過去に干渉したことで若干の違いは生じたけども、人類は概ね同じような運命を辿る」というのが私が導き出した結論だ。この説をとると、未来で再会したはぐたんやルールー(「元クライアス社・アルバイトのアンドロイド。プリキュアを調査するために野乃家に潜入したが、はなたちと接したことで心が芽生えはじめ、退職。そして、えみると出会ったことで音楽を知り、えみるとの友情を育んでゆく。お互いを想う気持ちが奇跡を起こし、えみるとふたりで、愛のプリキュア「キュアアムール」に変身する。」※公式サイトより引用)は過去に出会ったはぐたんやルールーと同じ個体である(つまり本当の意味で再会することができた)という嬉しい側面がある一方で、はなが亡くなること、クライアス社が誕生してしまうことは避けて通れなくなる。しかし、「絶望したとしても人はまた希望を持てる」という本作のテーマからすると、こちらの説のほうが自然だと思えてしまうのだ。
●絶望に向き合わないと希望なんか描けない
HUGプリが傑出していると思えるのは、きちんと絶望に向き合い描ききったところだ。希望、夢、未来、などと言うことは簡単だが、そんなお手軽な希望はすぐに消えてしまうだろう。そうではなく、本作は「本当に未来に希望はあるのか?」「絶望しかない未来を守る必要はあるのか?」「夢は見るだけ無駄ではないか?」と真摯に問い続けて、「いや、それでも」と出した結論だからこそ簡単には剥がれない希望となった。
本作の敵であるクライアス社で働く社員は、それぞれ異なる理由で絶望し、クライアス社の理念に賛同している。
例えば、
・チャラリート…何者にもなれない絶望
・パップル…愛する人に愛されない絶望
・ダイガン…会社のお荷物おじさん
・ジェロス…老いることへの絶望
などだ。
そんな敵に対して、プリキュアは「一人ひとり説得し、抱きしめる」という方法で対峙していく。
象徴的なエピソードがある。11話でオシマイダー(クライアス社が使役する怪物)化したチャラリートに対峙した際、キュアエール(はな)は新しい武器・プリキュアの剣を手にした。その剣でチャラリートに切りかかろうとした瞬間、「なんにもできない。なんにもなれない。自分には何の才能もない。」と絶望するチャラリートの心が見え、無理やり切っ先をそらして攻撃を中止し、「その気持ち、私が抱きしめるから!」と言ってチャラリートを抱きしめた。そして、「これは私のなりたいプリキュアじゃない」「必要なのは剣じゃない」というはなの思いを受けて剣は楽器(エールタクト、アンジュハープ、エトワールフルート)へと形を変え、音楽で心が満たされたチャラリートは再び未来への希望を持ち、浄化された。
「なんでもできる!なんでもなれる!」がキャッチコピーの作品において「なんにもできない。なんにもなれない。」と絶望する気持ちにちゃんと向き合ったこと、そしてそれをプリキュアという作品としてやりきったことが、HUGプリの素晴らしさだと思う。自分には何もない、自分は何者でもないという葛藤は誰しも経験するものではないだろうか。夢を持ち叶えることができるのは一握りの天才のみで、大部分の人間は明確な夢を持つことすらなく、ただなんとなく生き、社会に出ていく。実際、はなも10話・11話において「さあやみたいに賢くないし、ほまれみたいに運動もできない。私は何も持ってない。」と落ち込み、プリキュアに変身できなくなってしまう。
それではなんにもできない、なんにもなれない、と思ってしまうのはなぜなのか。続きは②で考察していきたい。