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見てはいけないもの

見たな………?ヒエッ
 なんてね、そんなホラーな話をするつもりはない。ホラー苦手なので。
 ただ、生きづらい世の中だなぁと僕が思うことの一端をご紹介できればと思う。

見てはいけない。

 この世界には、配慮と呼ばれるものが存在する。そして基本的には美徳とされる。
 たとえば、セクシュアリティの配慮で「『くん』『ちゃん』ではなく『さん』を付けて呼びましょう」だったり、多様な家族編成の配慮で「家族についての話題は裸を見られることも同然だから慎重に」だったりの声かけがある。

 たしかに心にグサッとくることもあるから気をつけるべきではあると思うのだが、かえって孤独を生む可能性すら感じる。

 言い表しづらいのだが、親が子供に「見てはいけませんっ」と不審者から目を逸らすシーンを連想する。
 要するに、当人間で「話をする」という行為が避けられてしまうのはいかがなものかと思うのである。
 本人が「『さん』で呼んで」と言えば相手もそうするだろうし、家族に問題がある場合には周りが気づくことが結構重要である。実際に僕の友達にも、あだ名を自ら指定して「こうやって呼んで」と言ってきた人もいる。それで良い。わざわざ配慮という形にして、一律に見てはいけないと回避する必要がない、と、僕は思う。

見せてはいけない。

 今度は、見せてはいけない、語ってはいけないと言われるものについての話をしたい。
 たとえば重い話と呼ばれるもの、あるいは自分語り、武勇伝と忌避されるものだ。

 当たり前だが、したくない話はしなくてもいい。そして相手の心を伺いながら話すことが対話や会話の第一条件だ。1人でぺらぺらと喋っているのはただの独り言だ。聞かなくていい。

 だが人は誰しも暗い過去を背負っているものだと思う。トラウマや、人との別れ、後悔、これらはたとえ過去だとしても、現在にまで割り切れない気持ちを引きずっていることだろう。
 逆に自慢したくなるような栄光、成功体験、これらも忘れがたく記憶に残ることだろう。

 そして双方に共通することが、大切な人にこそ認められたいということだ。人に認められたいとき、自身の中で一番の思い出となっているところを話したいと願うことだろう。あるいは誰かともっと親密になりたい、近づきたいときにも、自分の過去を話し、相手の過去も知りたいと願うだろう。

 こんなときでさえ、暗く重い過去や、武勇伝と呼ばれるものは静かに秘めることが格好がいいと言われる。不思議でたまらない。楽しければいいのか、いや、そうなんだろう。知らないほうがいいこともある。そうやって話すことも聞くことも回避する。それが僕は気に食わない。

僕の理想

 日本は、自由の国アメリカよりも自由だ、とたまに言われる。それはおもいやりが築いてきた暗黙の了解の積み重ねだと思う。
 しかし最近は外国人が日本へ流れ込み、治安の悪化も聞くが、なにより外国文化の流入も無視できない。そのひとつとして、心を守るためにみんなが一律の配慮をしましょうという「自由を守るための規制」という事態になっている。

 見てはいけない、見せてはいけない、そういう波長を浸透させるのではなくて、手を取り合って生きていきましょう、と個人がつながる世界になればいいなと思う。人と人が話す、話すことで相手を知る、知ることでひとりひとりが考える、それこそがおもいやりの真髄ではないかと思う。

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