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【くらげと月と音楽と】

umidas耕作所のutakoです。
浮遊感からの連想として浮かぶのは"海月"のイメージ。海を舞う幻想的な海月(くらげ)は全身で鼓動するイキモノ。どこか私にとって宇宙を感じる存在です。

子どもの頃、空想好きでどこか現実から離れた浮遊感のあった私に、父はよく「くらげのように生きたらいいよ。」「自分にあう海をみつけたらよいよ。」と声をかけてくれたことから海月(くらげ)がとても親近感を感じるイキモノとなり、今でも時々、ふらっと水族館に会いに出かけます。

昨年、東京を1人旅した時にふらっと立ち寄った「すみだ水族館(東京)」で、偶然、"ワンダークラゲ"という特別展示が開催されていて、ミズクラゲの鼓動を感じるその幻想的な展示とクラゲの生態に驚きと感動をおぼえました。

クラゲたちの鼓動のようなその水中で脈打つ動きの収縮運動は「拍動」と呼ばれ、小さなクラゲは早いリズムで、大きく成長したクラゲはゆっくりとしたリズムの拍動を繰り返すそうで、まさに浮遊する姿は「いのちのリズム」、音楽にあふれています。

特別展示では、本物の浮遊するクラゲに映像がかさなり、鼓動の音がシンクロされた幻想的なアート作品となっていました。

昨夜の私は、保育園の子どもたちの卒園を目の前に、2年間、日常を共にした子どもたちとの最後の活動の日を迎え、そんなくらげの舞台を目の前にして長い時間を浮遊するようにみつめていたあの日の記憶をふと思い出しました。

そういえば、先月、偶然みつけて立ち寄ったライブでのあるアーティストの音楽は実験的で、それは浮遊感があり、まるで"月面の音楽"でした。

偶然生まれた音をその場で録音し、自分の今出す音と過去の音を織重ねるようにして音楽はうまれます。演奏する行為の「音」が、ただ「音」として取り扱われ、時空を超えたところで音楽となり演奏する行為そのものが、どこか浮世離れしてしているような独特の世界観。たとえるなら、演奏者である本人、自分ですら自分ではなく、音を出すツールとしてただ存在して浮遊しながら演奏されてたというか。それはその方の美感で成り立つ独特の世界観を傍観しているような、ちょっとことばではいいあらわせないクラゲの水槽を目の前にした心境とどこか似ていました。

そして、それは0.1.2歳の子どもたちの日常の表現に寄り添ってきたこの2年の月日にもどこかつながっています。空気のように立ち会うまなざしの表現。

音がただ音として存在している状態としての音楽?

ありのままの日常に息づく表現?

たまたま出会えた"月面の音楽"は、音の過去と現在と届く音としての未来が並列なパラレルワールドのような、なんだそんな感覚できいているうち身体が浮遊していくようなクラゲの拍動のようにいつしかききての私も音の世界を浮遊してただ響き波打っているような感覚になりました。

そんな不思議な音楽で、ふと月面できこえてくる音楽があるとしたらこんな感じかなと妄想してしまいました。

呼吸するような表現。日常に息づく表現。

わけのわからない、ことばではいいあらわせない体験をした日はすごく夜空が不思議にみえたりしてドキっとしてしまいます。

「くらげのように生きたらいいよ。」
それってなかなか奥が深いです。

時々、空は海みたいで、月は海月みたい。

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