「自分らしく生きる」人生への一歩は、「戒律」を破ることだった
「ちゃんと貯めとかんと将来、生活保護になるよ!」
「学生のときからちゃんとしときなさいって言ってきたつもりやったけどね……」
電話の向こうから聞こえてくる母の声は、ため息と落胆が混ざったどうしようもない、という思いが痛いくらいに伝わってきた。どうしようもない……。
そう、30代独身で、養ってくれるすてきなだんなさんもわたしに寄付してくれるあしながおじさんもいない状態で、わたしは仕事を辞めてしまった。そもそもあしながおじさんに寄付してもらうには、あまりにもおとなになりすぎてしまったのだけど。おとなというよりおばさんか。
だけど、「いい子」で生きてきたわたしには、母の嘆きと「生活保護」ということばの響きがあまりにも重く、恐怖で恐れおののいた。
生活保護……。ことばとしては知っているけれど、その生活の実態なんてわからない。わからない、からこそ、怖くてたまらなくなった。
「低所得者より生活保護のほうがよっぽどいい暮らしをしてる」
「生活保護のくせに」
今までの社会人経験のなかで、何度か耳にしてきたことばが、自分に向けて発せられる。お金もない。非難される。そんな暮らしを想像して、死んじゃう……、死んじゃう……と布団の中で怖くなって丸くなった。一人暮らしの家の中で、頼れるものなんてなにもない。死んじゃうかもしれない恐怖でたまらなくなった。
そんな経験をしてから約1年。
派遣で仕事をしながら、どうにかこうにか生活保護にならずに暮らしてきた。30代にもなって、親のすねもちょびっとだけ、いや、けっこうかじりながらだけど。
「ちゃんとしなさいよ」
実家に帰ったときに、親に怒られた。足りなくなったら使っていいよ、と言われた場所から税金やらなんやら払っていたら、怒られてしまったのだ。使っていいよと言われたから、まぁいっか、と思っていたらそうでもなかった。まぁあたりまえといえば、あたりまえだ。
そもそも、30代にもなって貯金もせずに仕事を辞めてしまうということがどうかしている。
派遣の仕事をしていれば、なんとかやりくりできたはずだ。だけど、今の状態から抜け出すにはもがくしかない。そのもがき方がわたしには、何かを学んで進んでいくことで、進んでいくための知識を学ぶために講座に通い、本を買いあさって読むことだった。
その結果、親のスネをかじってみた。かじっていいよと言われたスネをかじってみたら、怒られた。
「いい子」「しっかり者」「お姉ちゃん」として生きてきた自負がある。そんなわたしが親に怒られてしまった。成績だって、自分でいうのも何だけど悪いほうじゃなかったし、学校の先生から褒められることも多かった。小学1年の成績表には、「おとなしいけれどちゃんと周りを見て行動できる子です」と書いてあったと、今だに母が言うくらい。なのに、それが親に怒られるって、なんてこと……!
と、いったんは落ち込んだのだけど、30秒後に復活した。
「怒られた」ってことは、親の戒律を破ったということだ。
「いい子」をやめたい、「いい子」をやめたい、とずっと思ってきた。「お姉ちゃん」ということばが「しっかりしている」「ちゃんとしている」「いい子」のイメージを連想させて、「お姉ちゃん」ということばに拒絶反応をしめすほど嫌いなことばだった。わたしは、弟がひとりいる二人姉弟の「おねえちゃん」だ。
「お姉ちゃんでしょ」
「お姉ちゃんだから我慢しなさい」
そう言われた記憶は実はあまりない。
ないのだけど、勝手に壮大な「理想のお姉ちゃん像」を背負って生きてきた。アレルギーの検査で腕に何十本もの針を刺されたときだって、泣く弟を前にお姉ちゃんとして泣くわけにはいかなかった。わたしだって怖かったし痛かったし泣きたかった。でも、「お姉ちゃん」なのだから、我慢したのだ。
そんな風にして、身につけてきた鎧のおかげで息が詰まりそうになっているのだということに、ここ数年で気がついた。少しずつ、少しずつ、自分らしく生きる方向へシフトしてきたはずだけど、超えられない壁のようなものを感じていた。
それが「いい子」という壁だった。
「いい子」をやめたい。
その思いはあるけれど、何をどうしていいかもわからなかった。だけど、とにかく自分の生きたい方向に向かって歩くしかなかった。
生活だけで、やりたいことを我慢するのは絶対に嫌だった。やりたいことを我慢して、生活のためだけの仕事をして……。そんなの、今までの自分以上に檻の中に押し込めているような人生になってしまう。
今までぬくぬくと生きてきて、身につけてこなかった知識や視点やスキルをどうにかして身につけたい、ともがいた。もがいた結果、親に怒られたのだ。
「怒られる」というのは、親の戒律を守ってきたわたしには未経験のことだった。怒られないように、親がよろこぶように、必死に生きてきたのだから。怒られるということは、「いい子」から一歩を踏み出したということなんだ。
そう思ったら、超えられなかった壁をようやく超えられたような気がした。
顔にもことばにも、微塵も出さなかったけれど、心のなかで小躍りした。怒られたー! 超えられた!
「いい子」の壁を超えられた!
自分の人生を生きるって、正直かんたんじゃない。だけど、一歩ずつ、自分をしばる鎖をはずし、自分の生きたい方向へ歩くことで、自分だけのオリジナルの人生を生きられるんじゃないかな、と思う。
怒られながら、小躍りしよう。もちろん、こころのなかで、ね。
いつもありがとうございます! いただいたお気持ちをパワーに変えて、どんどんまわしていきます!