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好き嫌いの仕組み【人間の本質は波長か?】

日本語表現として「波長が合う合わない」と言いますね。
では顕在意識を波長で表すことができるとしましょう。
すると、その波長と協和音を奏でる波長=好き。
嫌いなもの=不協和音となる波長。
「波長が合う合わない」という日本語はこのことを言っていますが、それらの表現に違和感がないのではなぜでしょう?
本当に意識とは波長で表せるものなんでしょうか?
(きっと表せるんだろうなと思いますが、さてどこからその波長とやらを取り出せば見えるのでしょうか? 見ることって可能なのかな??)

ともあれ好き嫌いは自分の発する波長が基準であるようです。
それゆえに人それぞれの好み、反応が生ずる。
例えば不良に憧れるなら不良文化の波長と協和音を奏でる。
つまり似たもの同士が引き合い、強め合う法則があるようです。水は水同士集まりますし、油は油同士集まります。そして原則、両者が混じり合うことはありません。

これらが単に「例え」なのではなく本当に人間の本質が波長だったとするならば。
不良少年は優等生的文化に対しては不協和音となるので嫌ったり、興味が持てない、雑音に聞こえる等の反応になってしまう。
お小言いわれると「俺に干渉するな!」となってしまう。
「干渉するな」なんて面白い表現ですね。
まるで自分の本質が波長なのだと理解しているみたいじゃないですか。

このように、なぜかしっくりくる日本語表現というのは沢山あって、それらは無意識のうちにまだ究明されていない本質を言い当てているのではないか、なんて思ったりします。

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