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一瞥体験からもうすぐ一年が経つ

ほぼ一年前の2月2日、ぼくは実に強烈な体感を持ちました。
前の晩「宇宙と世界の成り立ちを教えてください」とお願いをしてみたことから、なぜか猛烈な勢いでインスピレーションが降り注ぐ日々が始まったのです。

あとで知ったのですが、それは俗に「一瞥体験」などと呼ばれる類のものでした。
このNOTEも、その体験の特異さを書き留めておくために始めたのです(なので1発目の記事は、その際に起こったことの記録となっています)

読み返しみてると今、思っていることのほとんど全てをこの1日で獲得しているのですね。
この日を境にして、ぼくは人生のステージが確実に切り替わったと断言できます。そのくらい強烈な謎の体験でした。

ただし、一度得たかに思えた気づきも日が経つにつれて揺らぐというか薄らぐというか、自分を疑うような感覚が少なからずありました(逆にそうなることを予感していたからこそ先んじて体感が生々しいうちに記録を取っておこうと思ったのですが)。

さて近頃はめっきり仕事漬けなのですが「ありがとう習慣」だけは続けています。時折得た感慨や気づきを忘れないうちに記録しておこうと思い、久々にNOTEを開きました。
一応「個人的な人生観」というつもりで記します。

・人間存在の本質は意識核である。ひとつの魂が、多くの意識や肉体、その働きによって支えられているのが人間としての生であり、この三次元世界での体験だろう。
存在とは文字通り愛の結晶である。

・「ありがとう習慣」とは、そのことに再度気づくためのトレーニングのようなものだったのだなと後から気がつく。
当初なにに「ありがとう」を言っているのかよく分からなかったわけだが、むしろ様々な助けの中に自分が存在していたこと、その愛の下支えなくして自己は成立しえないことの確証を得た。そう考えれば「ありがとう」と伝えて伝えすぎることはない。世界は丸ごと「ありがとう」でしかなかった。

・空虚が身にまとわりついてきたときは、これらのことを思い出すのがよい。空虚とは愛が見えなくなった状態である。当たり前の日常をまさに当たり前と見なし、そこに感謝を見出せなくなった状態だ。ただし不平を言いたいときは言ったらよかろう。実はそれすらもありがたい体験なのだから。

・実際この世は分からないことばかりで、その深奥には常人が考えも及ばないような尊い真理が眠っているに違いない。生命が機能していることそれ自体が、まさに神業。奇跡的に精妙な働きの統合によってそれらが実現されていることは疑いようがない。
そのことを決して忘れないように生きていこう。

・この世での生とは、なんと満ち足りたものか。人間として生きることは、あたかも神輿に担がれた王様や、大企業の社長、あるいは大勢のスタッフに支えられる映画監督か何かになったようなものだ。
多大なる協力を得て人間としての生を獲得できたからこそ、こうして呼吸ができ、体を動かすことさえできる。
それだけで大変稀有なことだ。実にありがたい。感謝。

・世界は高次元の意思によって形成されているのではないか。この世界自体が大いなる贈り物なのだ。オープンワールド型テレビゲームのようなものだ。であるからには限りある生の時間を大いに楽しもう。感謝しよう。喜ぼう。
すべての体感がここに在るのだ。ありがとうございます。

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