見出し画像

フランク・ザッパ 『A Token of His Extreme』 DVDのライナーノート 前半

このテキストは、2013年の6月にリリースされたフランク・ザッパのDVD『A Token of His Extreme(彼の過激さの証)』の国内盤ライナーノートのための原稿です。この国内盤は制作の途中段階でゲイル・ザッパから字幕使用のNGが出て、一時は発売が見送りになるのではという事態にもなりました。結局字幕は外したのですが(何それ)。元の原稿は実際のライナーよりも1000文字近く長く、これをカットしたものを使用しました。現在『A Token of His Extreme』の国内盤は絶版になっているようで、店頭在庫もほとんど無いようです。一応このタイミングを待って、カットする前のオリジナル原稿を投稿することにしました。これはそのパート1です。


****************

ザッパの目の裏側

「びくびくしなくていいんだよ これはただ、私の過激さの象徴にすぎないのだから 私の目の裏側を見ようなんてしなさんな 私の目玉が何を見てきたなんて、知りたくないだろう」。
これは「ア・トークン・オブ・マイ・エクストリーム」の冒頭の歌詞です。本作のエンディングに収録の同曲にはまだ歌詞がなく、ショーのクロージング・ナンバーという位置付けになっています。翌年の1975年の4月から5月にかけてのツアーで上記の歌詞で歌われ、79年にアルバム「ジョーズ・ガレージ・アクト II」でようやくレコード化されました。この一節、マザーズ結成から10年を経て、ファンの嗜好の変化に対応しつつも本当にやりたい事を実行し、自身の過激さを高次元でエンターテインメント化する方法と状況を確信したザッパの「あんたがどう思おうとおれはこれをやるよ」宣言とも受けとれます。一方で「自分の目の奥にある真実までは理解されることはないだろう」という諦観もほの見えたりもします。なぜなら「オレは過激だから」。どちらのタイトルが先にあったのかはわかりませんが、「マイ」と「ヒズ」を入れ換えて『ア・トークン・オブ・ヒズ・エクストリーム』と題されたTVプログラムが、74年にザッパによって制作されました。古くからのファンにはおなじみのこのソース、部分的にはいままで様々な形で作品化されてきましたが、本来の番組の形としてはソフト化されたことがなく、39年の時間を経てのようやくのDVD化ということになります。ほとんどのザッパの映像作品に言える事ですが、本作も過剰な編集主義と意匠を施された、ザッパ以外の何者も提示し得ない映像によって「ザッパの過激さの象徴」がパッケージされています。陽気な悪夢の様に時間を継ぎ接ぎしたビジョンは、ザッパの目玉の裏側に投影されたこの世の構造のザッパ・バージョンなのかも。あんたの目玉が何を見てきたかなんて、知りたいにきまっているだろうフランク!

俺の全盛期がいつだってかまわないだろう

とザッパが言ったかどうかはさておき、慣例的な意味で全盛期を特定できないのがザッパの特性です。作曲家としての本当の成熟期は1993年以降に来たかもしれず、ギタリストとしては80年代以降がピークという自覚が本人にはあるようです。しかしロック・バンドのミュージシャンとしては、73~74年の、ザッパ史的に言うところのディスクリート・レーベル期が全盛期といっても差し支えないでしょう。一言でディスクリート期といってもこの2年間だけでもいくつものフェーズがあって、本作のラインナップに至るまでに大きく分類して4つの(細かくは7つ)のバンド編成があります。本作のバンドは74年の6月にスタートした4番目のディスクリート・マザーズで、ディスクリート期としては最小人数の6人。73年の初頭以来一年半かけて精鋭部隊が編成された感があります。8月の本作収録の後12月までツアーを続け、複雑極まりない楽曲から予測不能のインプロヴィゼーションまで、神がかり的な弾力性を発揮しますが、ルース・アンダーウッドの脱退をもってこのバンドは終焉を迎えます。75年以降もディスクリート期は続きますが、マネージャー、ハーブ・コーエンとの関係性の悪化もあり、74年の様なスピリッツは、うーむ、失われたかもしれません。それは次なる変化の季節の到来でもありますね。ここであらためてメンバー紹介です。ジョージ・デューク(キーボード)、チェスター・トンプソン(ドラム)トム・ファウラー(ベース)、道化役のナポレオン・マーフィー・ブラック(木管)、ルース・アンダーウッド(パーカッション)、そしてザッパ。

おなじみのKCET Sound Stage B、あれこれ。

本作は、そんな74年の精鋭部隊バンドが、編成後の6月末から8月中旬までのツアーを経て、本格的に調子を上げ、9月初頭のヨーロッパ・ツアーに向けて刀を抜こうとする絶妙のタイミングの8月27日、ロサンゼルスのローカル放送曲KCETで収録されました。ディスクリート期の重要な映像としてもう一作、25年以上前から予告編が制作されながらいまだ発表されない73年12月のロキシー・シアターでのライブがあります。このショーは当初から映画化を目論んでフィルム撮影が行われていました。本作は74年時点で制作の目処がたたない『ロキシー・ライブ』を補完するものとして、別の方法で制作されたものと考える事もできます。決定的な違いは本作はビデオで撮影されたという事。いまだフィルムの編集がネックになっていると思われる『ロキシー』に対し、本作はビデオ編集の簡便さの恩恵で早い段階で完成を見ていました。基本事項として本作はKCETが自局での放送のために制作したものではなく、ザッパが自身で売り込むために自身の出資で制作されたものです。つまりKCETはあくまで収録場所にすぎません。74年12月5日にアメリカで放送予定があったという説がありますが、キャンセルされています。結局この番組はフランスとスイスで放送され、好評を博したとザッパ本人が後述の『マイク・ダグラス・ショー』で発言しています。実際フランスでは76年2月12日放送の記録があり、この時期マザースはヨーロッパ・ツアー中なのでスイスでの放送も同時期でしょう。またザッパはヨーロッパ・ツアーに先立つ76年2月初頭の日本公演時のインタビューにおいて、「1時間のTV番組」と本作のアニメーターのブルース・ビックフォードについてかなり詳しく発言しており、番組自体は75年いっぱいまで編集が行なわれていたのではないかと思わせます。またその時のインタビュアーが、その「1時間のTV番組」はNHKでの放送予定がある(これは当時イレギュラーで放送されていたヤング・ミュージック・ショーの事か?)という発言もしています。結果、NHKでは放送されていないのですが、当時日本で断片的にこの映像を見たという人がいて(ウルフマン・ジャックの深夜番組という説あり)、何らかの形で番組の映像は76年1月から3月のツアー時にアメリカ以外の国に持ち込まれているフシがあります。それが長年にわたって、本作がブートレグとして親しまれる遠因にもなっているわけですが、その多くは本作の73分ではなく57分に編集されたバージョンで、時間的にもこちらが放送された可能性が高いです。国によって編集が異なっているのかもしれません。この73分版が本来の番組のオリジナルバージョンとも言い切れないでしょう。とりあえず、この件はこれ以上追求するのはやめておきましょう。重要な事は、今やいつでもこの番組をDVDで見る事が出来るようになったという事なのだから。

つづく  2013年5月

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?