Märchen楽曲中におけるキリスト教の神と他の神々【WEB再録】

以下はSound horizonのアルバム「Märchen」について述べた文であり、2018年に発行された『SH/LH考察アンソロジー』に寄稿した内容のWEB再録です。

・「公式とは全くの無関係」

・「あくまでも私の解釈。押し付けるつもりは毛頭無い。むしろ皆の解釈も聞きたいです&聞かせて下さい。ヘイ!カモーンщ(´Д`щ)」

そんな感じでお送りしています。

また、内容的に宗教について触れておりますが、「アルバム内容に関する考察」意外に他意は御座いません。


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はじめに

 Sound Horizon7th Story CD「Märchen」はグリム童話がモチーフとなっており、童話を元にした楽曲では人々が七つの大罪を犯していく姿が唄われている。では、元々グリム童話にはキリスト教の神に背くような物語が収められているのだろうか。
 グリム童話を編纂したグリム兄弟のヴィルヘルムは、2版冒頭の論文「メルヒェンの本質について」で「多くのメルヒェンはキリスト教的内容を多く含む」と述べており、神に背くのとは正反対の内容が窺える。しかし、同論文中で「メルヒェンのなかに、太古の信仰や教義が浮かび上がり、肉体に姿を変えて描き出される。・・・・・・失われたと信じられていたいにしえのドイツ神話が、ここにこのような形で、今なお生き続けている」(注1)とも述べている。つまり、グリム童話にはキリスト教的な内容と、古のドイツ神話的な内容が混在しているのである。
 だとすれば、グリム童話をモチーフにしつつ、キリスト教の教えである七つの大罪を唄ったことには何らかの意図があると言える。ここでは、グリム童話から楽曲になった際に「加減された箇所」や「変えられなかった箇所」をキリスト教の神や、ドイツの古の神々、そして民間伝承に注目して考えることでその意図を探って行きたい。


火刑の魔女

加えられた修道女の人生
 火刑の魔女はグリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」を元にしていると考えられるが、前半に屍人姫である修道女の人生が加えられている。井戸に毒を入れた等と、謂われなき罪で虐げられたこと。村や町を離れて森に住んでいたこと。母親と思われる老婆の夫が金貸しであることなどからユダヤ人の両親の下に生まれたと考えられる。井戸に毒を入れたというのは、ペストが流行した際に脅迫されたユダヤ人が拷問に続いて自白した内容である。また、11世紀以降にカトリック教会がユダヤ人の迫害を強化してからは、公職への就職・カトリック教徒との居住・村落への居住・土地の所有・ギルドへの加入が禁止され、ユダヤ人が就ける仕事はほぼ商業か金融業に限られていた。
 貧しい暮らしの末に彼女は母親に捨てられ、大きな街にある修道院に拾われるが、11世紀から14世紀を中心に、中世西欧修道院には児童奉献と呼ばれる制度が存在した。親が自分の子供を修道院へ入れて奉献児童とし、養育や教育の一切を修道院に委ねるという行為である。
 「子捨て」や「神への捧げ物」の面から論じられることが多いが、貧困家庭の児童、各種の身体的障害をもつ児童、感染症に罹患した児童なども修道院に入れられていたことから社会的養護制度としても利用されていたと考えられている。(注2)彼女もこの制度によって修道院に受け入れられたと考えられる。すなわち、ユダヤ教の神を信じる両親の下に生まれた子供がキリスト教の神の下で受け入れられたことになるが、その生活は新教徒達の手によって無残にも破壊される。
 同様に悲劇は母親と思われる老婆の身にも起こる。大人になった修道女が訪れた際に老婆は逆十字(聖ペトロ十字)を掲げており、老婆の言う「改宗した」はユダヤ教からキリスト教への改宗と取れる。
 掲げているのが逆十字である理由は名言されてはいないが、グリム童話において病気をもたらしたり治したりし、人の生死を決定するのは神であり、聖ペテロはそんな神の力を代行する存在として書かれている。聖ペテロにもぬり薬で病気を治す力があり、死人を生き返らせることもできるのである(注3)老婆にも治したい病や、生き返らせたい者が居たと考えられる。しかし、懺悔を笑うように、修道女を殺めた老婆の罪は増えてゆく。
 加えられた修道女の人生部分で唄われているのは、修道女・老婆共にそれまで信じていた神を捨てたにも関わらず、キリスト教の神に「祈りは届かない」姿である。

石のように年をとった老婆
 「石のように年を取った」という言葉は「ヘンゼルとグレーテル」において初版から使用されており、楽曲にする際にも引用されたものと考えられる。しかし、言葉の意味合いと発言者、そして誰に向けた言葉かに注目すると楽曲中での使用は違和感が生じる。
 この言葉はグリム兄弟による『ドイツ語辞典』によると「片足をすでに墓石に突っ込んでいる」という意味で(注4)、非常に侮蔑的な表現であり、グリム童話では魔女的存在の悪い老婆に対して好んで使われる言葉である。(注5)
 「ヘンゼルとグレーテル」では、地の文にて老婆が魔女であることを説明している部分で使用され違和感は無い。しかし、楽曲中では修道女が生家に住んでいる老婆について説明する際に使用されている。すなわち、修道女は母親らしき老婆を魔女的存在と見なしていることになる。

老婆は魔女か
 ヘンゼルとグレーテルにおける魔女は「子供を食べる魔女」として書かれている。楽曲中においてもグレーテルは、老婆は魔女で兄妹2人を食べてしまうつもりだと思い、竈の中へと老婆を蹴り入れる。しかし、「石のように年を取った」との言葉が出た時点ではまだ子供達は登場せず、老婆が子供を食べる魔女と言うには疑問が生まれる。
 この箇所においては、グリム童話ではなく、実際の魔女裁判で魔女とされた理由の「病気や死を呼ぶ」が当て嵌まると考えられる。修道女自身、子供時代に井戸に毒を入れたと謂われなき罪で虐げられた際に魔女との言葉を浴びせられているが、井戸に毒を入れことが魔女と結びつく理由はここにある。
 では、老婆は病気や死を呼べたのだろうか。グリム童話の観点から見るならば、聖ペテロ十字に祈っていることから、老婆は病によって生死を操ることはできないと考えられる。しかし、実際の魔女裁判の観点から見ると楽曲中の情報では断言が難しい。

神明裁判:聖餐審
 このような真偽が定かで無い事柄について、神意を得ることで判断する神明裁判という方法が中世・近世では用いられていた。西洋ではキリスト教聖職者によって執り行われ、Märchenの楽曲中には正式な裁判の形では無いもののモチーフが見受けられたり、流れを汲む裁きが登場するグリム童話の話が選ばれていたりする。
 火刑の魔女では聖餐審と呼ばれる神明裁判のモチーフが見受けられる。聖餐に用いられるパンと葡萄酒を使い、聖化されたパンと葡萄酒を飲み込むことができるか、その後病気になるかならないかで正否が判断された神判である。
 楽曲ではヘンゼルとグレーテルの話に修道女が老婆にパンを差し出し、老婆が貪るシーンが加えられている。老婆の暴食の罪を表すシーンであるが、老婆が魔女なのか母親なのか、修道女がパンによって判断しようとしていたとも考えられる。老婆はパンを飲み込めたが、神明裁判が異端の疑いがある場合や、魔女裁判に用いられたことから、差別されていると思うに至ったのであろう。

父親の欠落
 ヘンゼルとグレーテルの最後では子ども達は父親の元へと帰り着くが、楽曲中では父親の存在は削られお隣のトーマスが登場する。このトーマスと同一人物とも取れる人物は他曲にも登場し、物語性による変更と思われるが、父性宗教であるキリスト教的の要素の削除とも言える。


黒き女将の宿

七の数字
 黒き女将の宿はグリム童話の初稿に収められた「絞首架の男」を元にしていると考えられるが、舞台が酒や料理を出す店であること、絞首台から来た死体が原因で店の主人が亡くなる等、同じくグリム兄弟によって纏められた『ドイツ伝説集』の「絞首台よりの客」の要素も見受けられる。Märchenのアルバムは7の数字もテーマの一つになっているが、グリム兄弟の『ドイツ語辞典』では「7番は絞首台と牢獄を意味する婉曲表現である」(注6)とされることから、楽曲として取り上げられたと考えられる。
 神は6日間ですべてを創り、神の安息日とされた7日目は本来祝福されていた。しかし、神が休んでいる間は悪霊がはびこる危険性も伴うことから7は不吉ともつながることとなった。ここでの悪霊は、一神教教以前の豊穣神であるディアナ(アルテミス)や、ローマのサトゥルヌス(ギリシア神話の巨人クロノスと同一視される)等キリスト教が悪魔に貶めた異教の神々を指す。聖書を読むことなどできなかった中世の民は、8日目の明け方に神が休息を終えその威光を示すまで、悪霊が彷徨し誘惑される不安に怯えていた。
 また、イエスが安息日の前日(6日目)に墓場に埋葬され、安息日(7日目)に墓場に放置され、8日目に復活したことから、7は墓場の安息を、8は主の復活を意味する数ともされる。(注7)
 火刑の魔女では祈っても神に祈りが届かなかったが、その理由は第7の地平線が神が休んでいる間の墓場から始まり、暁光が訪れて神の威光が戻るまでの物語であるからと取れる。

7の数字と女性
 「絞首架の男」では絞首架からやって来るのは男性であるが、楽曲中では女性に変えられ、屍人姫として登場する。このことも、グリム童話と7の数字を絡めて考えるとキリスト教の影響が見られる。
 7の数字と関わるのが男性である場合はハッピーエンドへと至るが、関わるのが女性である場合は試練しかもたらされないのだ。「男性=善」、男性を貶めたエヴァである「女性=悪」という「善悪二元論」に基づくものであり、西洋キリスト社会において、7は男女によって善と悪の役割を演じ分けた(注8)

彷徨う屍体
 田舎娘は殺されて生き返らない屍人姫たちの中で唯一自分の手で復讐を行っているが、これは元となった話通りという以外にも、田舎娘の育った時代背景があると考えられる。
 田舎娘は「お菓子で出来た家」のことを唄うが、「砂糖の家」というヘンゼルとグレーテルの類話がドイツ南西部を指すシュヴァーベン地方にある。伝統的に「シュヴァーベン人」は「田舎者」の代名詞のように使用される言葉でもあり、田舎娘はシュヴァーベン地方の出身と取れる。
 楽曲では、ルターと思われる偉い坊さんの話が出てきたり、ミュンツァー、フッテン、ジッキンゲンと騎士戦争・農民戦争に関わりのある人物の描写が加えられたりしている。シュヴァーベンは農民戦争時に聖書に基づいて正しいと判断された「十二箇条」が掲げられた地でもある。すなわち、黒き女将の宿で唄われるのは、農民たちの豊穣をつかさどる大地母神への信仰が捨てられ、キリスト教の神への信仰が広まった時代だ。
「キリスト教の浸透と共に亡者の姿も大きな変化を見せる。かつてのような暴力を振るい、人間に害をなす元気のいい亡者たちに代わって、人間に救いを求める哀れな亡者の姿が目立ってくるようになる」(注9)
 サンホラの楽曲に当て嵌めるならば、宵闇の唄の「夜の旅路 彷徨う屍体」はキリスト教が広まる以前の古のゲルマン信仰。魔女とラフレンツェの亡者の姿はキリスト教が広まった後と取れる。田舎娘は己で女将の元へと往くために、キリスト教の摂理に背を向け、古のゲルマン信仰を選んだのだ。

神明裁判:十字架審
 田舎娘は絞首台に吊されることになるが、絞首台は元来、「乾いた枝」を意味し、ゲルマン系の言語ではキリストの十字架を象徴した。罪人は、古代の観念では、贖罪の生贄として神に捧げられた犯罪者とされた。(注10)
 絞首台を十字架と捉えると、黒き女将の宿にも神明裁判のモチーフが見える。敵対者が十字架の前で両手を十字に広げ、先に手をおろした方が破れる十字架審である。楽曲中には神判の様子は登場せず、あくまでもモチーフのみの一致ではあるが、十字架審に負けた者にとっては身に覚えの無い罪で裁かれることもあったであろう。


硝子の棺で眠る姫君

嫉妬の蛇と色欲の蠍
 楽曲の冒頭で述べられる罪は嫉妬である。しかし、歌詞カードや屍人姫の仮面の紋章の動物は嫉妬を示す蛇ではなく、色欲を示す蠍へと変えられている。罪の塗り替えや入れ替えとも取れるが、ここでは嫉妬と色欲の2つの罪が楽曲で唄われていると考え、それぞれの罪について見ていく。

嫉妬:シャーデンフロイデ
 ドイツ語の諺で「Schadenfreude ist die beste Freude」という表現がある。意訳すると「他人の不幸は蜜の味」となり、嫉妬の感情について述べたものである。楽曲中では「7つめの罪は蜜の味」と他人の不幸の部分が変えて唄われる。「暴食」「色欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」の八つの「枢要罪」から、「虚飾」が「傲慢」へ、「憂鬱」が「怠惰」へと一つになり、「嫉妬」が七番目に追加されて七つの大罪となったことからきていると考えられる。

神明裁判:アルカロイドの毒
 ここまで見てきた楽曲には神判のモチーフが見られたが、雪白姫に差し出された林檎も神判のモチーフと結びつく。
 グリム童話初版1巻の序文にてヴィルヘルムは白雪姫に対して「彼女の口の中の林檎の芯はベラドンナやマンドレーヌのような有害な植物」と記している。ベラドンナからは毒性を持つアルカロイドが取れるが、同じくアルカロイドの毒を持ったカラバル豆の抽出液を用いた神明裁判がシエラレオやカラバルに存在していた。無罪の自信があるものが一気に飲めば嘔吐反応が起きて吐き出されて助かるが、心にやましいものを持つものが恐る恐るゆっくり飲むと吸収されて死に至るという毒の性質を見ると、白雪姫及び、雪白姫との関連が見える。  
 ここで注目したいのが、王妃ではなく雪白姫が裁かれている点である。妬いたのが王妃の罪ならば、嫉妬の罪は雪白姫には無い。ならば、雪白姫が犯した罪、裁かれる理由は色欲にあるのではないだろうか。
 
色欲:王位継承システムとしての近親相姦
 雪白姫の罪について語るにあたり、王妃が妬いた美しさに付いて最初に述べたい。「西洋中世では「美」とは「豊かさ」を示すものであった」(注11)それゆえ、「豊かな女性には財力や家柄や地位があるだけでなく、豊穣であること、つまり「出産能力がある」ことが求められた」(注12)
 美しさを出生能力と取ると、王の関心が王妃から雪白姫に移ったことによる王妃の嫉妬、および王と雪白姫の近親相姦が見えてくる。キリスト教においても、生物学においても近親相姦はタブーとされる。それでも神話や歴史において近親婚を行ったのは神々や王侯、特定の部族等、血縁の相続の問題を抱えた者たちである。先に述べたように、楽曲では「他人の不幸は蜜の味」が「7つめの罪は蜜の味」と変えられている。7つめの罪は嫉妬の罪の順番を示すとともに、「7つめ(7歳の時)に犯した罪」とも取れる言葉だ。
 また、母権政の時代において王位の血は王妃を介して子に受け継がれるものであり、王妃が死ぬとその娘を介して継承が行われた。(注13)すなわち、雪白姫の生母が亡くなり、結婚が終結した時点で王位は雪白姫の父から雪白姫の夫に移るのである。しかし、雪白姫に夫は居ない。鏡は雪白姫の継母を唯の妃ではなく王妃と呼ぶが、ヨーロッパの言語では王の妻と女王を同じ言葉で表す。ならば、ここでの王妃は王の妻ではなく、王位不在の国に来た女王の意味と考えられる。雪白姫の父が王位を保つには姫と結婚する他には無かったのである。

神明裁判:火審、熱鉄審、鋤刃歩行
 焼けた靴で死ぬまで踊らされるというのは魔女への処罰のように思われるが、神明裁判の流れを汲むものである。沸いた湯の中の指輪や石を素手で取り出し、包帯を巻いた3日後きれいであれば無罪とされる火審。同様に熱した鉄を持つ熱鉄審。熱した鋤刃を並べ、その上を歩く鋤刃歩行が神明裁判では行われていた。
 また、グリム童話2版の序文にてヴィルヘルムは「真っ赤に焼けた鉄による判定を信じるゲルマン信仰を暗に示している。なぜなら、この鉄は正しい人、まったく罪のない人だけが危険な目に合わずに触れることができるからである」としている。キリスト教は、ゲルマン信仰を追放するだけでなく、その一部を取り込みながら広まったが、王妃はキリスト教とゲルマン信仰の両方の面から裁かれていることになる。


生と死を別つ境界の古井戸

ローレライ:悲恋に嘆く乙女
 継子が唄うローレライとは、本来ドイツのライン川が一番狭いところにある、水面から突き出た岩山のことである。川幅が狭い故の流れの速さや水面下に隠れた岩により、多くの船が事故を起こす場所であったことから、美しい女性に船乗りが魅了され船が川に引きずり込まれてしまうローレライ伝説が生まれた。伝説としてのローレライはセイレーンの一種とも、水の悪魔とも言われる存在であり、今日ではドイツで知らないものは居ないと言われる伝説である。
 岩山であるローレライに最初に悲恋に嘆く乙女像を与えたのは、ドイツの詩人クレメンス・ブレンターノであった。ブレンターノはグリム兄弟に民話の収集を依頼したものの、送られた草稿を紛失。音沙汰の無い状態となり、グリム兄弟が自分たちで童話集を発行する切っ掛けをつくった人物でもある。紛失したと思われた草稿は、彼の死後に親しくしていた修道院長を介して修道院に渡り、発見場所の名を冠してエーレンベルク稿と呼ばれる。スペルこそ異なるものの、同じ名を持つ航海士イドルフリート・エーレンベルクと、この時代に悲恋に嘆く乙女を知る継子の関連が窺える。

ゲルマン人が信仰したホレ
 楽曲中では継子に「おとぎ話によく出てくるホレおばさん」と語られるが、ホレ(別名ホルダ、フルダ等)はゲルマン人が信仰していた北ドイツの女神で、南ドイツやオーストリアで信仰されたペルヒタ(別名ベルヒタ)と同一性を有する。ホレは糸紡ぎの守護神であり、糸紡ぎは自然に依拠しながら、そこから新しい者を生産し、世界を再創造することを意味していた。よって、ホレは大地や豊穣をつかさどる女神とされ、同時に死神でもあった。ホレは時にはディアナ(アルテミス)と同一視されながら、農民たちに広く信仰されていた。
 『ドイツ伝説集』及び、「メルヒェンの本質について」でもホレについて記されている。『ドイツ伝説集』では、詣でる女たちに健康を恵み子宝を授けることや、そうして生まれた子はホレが泉の中から取りだして女の元へ運んできたものとされた。「メルヒェンの本質について」では、クリスマスの頃、太陽が再び昇るとき、世界中を巡り歩き、誉めたり、罰したりするとされる。Märchenのコンサート時、クリスマスのアンコールでホレさんは井戸から生まれる前の子供であるイヴェールを呼んでいるが、その演出はここから来ていると言える。
 
魔女にされたホレ
 教会はキリスト教をヨーロッパ全体に広めるため、古のゲルマン信仰を取り込み、キリスト教の信仰へと置き換えていった。アルバム中のホレさんはプラチナブロンド・働き者には金を与える等の特徴があったが、「民衆に受け入れられたマリア像は、ホルダ(ホレおばさん)と同じように殆どが金髪であり、・・・・・・ドイツでは、マリアは雷と稲妻を司り、金の玉を投げるとされた」(注14)
 信仰の置き換えと同時に、キリスト教はゲルマン信仰の神々を悪魔や魔女へと貶めていった。黒き女将の宿で偉い坊さんと唄われたルターも、ホレ(フルダ)について説教(『使徒書簡の注釈』)で「ここに恐ろしい鼻のフルデおばさんがいる。神に背く性格だが、嘘を暴いてみせることがある。古いボロや藁のよろいを身にまとい、バイオリンを奏でながらあらわれる」(注15)と記している。女神が魔女へと貶められたことは、神が人へと堕とされたことでもある。そのイメージはやがて、野ばら姫の13人目の賢女のような魔女像へとつながっていく。


薔薇の塔で眠る姫君

身籠もり告げし蛙
 蛙は水と深い関わりを持ち、子宮の中にも水があることから、民間信仰では生殖の神とあがめられることが多い。キリスト教以前の文化では、女性の神々に属するものであり、古代ゲルマンでも豊穣・幸福をつかさどっていた。
 雪白姫に見たように、王族に後継が居ないことで起こる問題は大きい。野ばら姫の母は水浴びでホレさんのような大地母神に詣で、その力を借りて子を身籠もったと考えられる。ここでは力を貸したのが、ホレさんと同じく魔女に貶められた13人目の賢女(以下、アルテローゼ)と考えて進めていく。

雪冤宣誓
 野ばら姫の母が魔女に貶められた大地母神の力を借りて子を授かったのならば、その行為はキリスト教で異端とされ神明裁判で裁かれるものである。しかし、市民権を有する正規都市民・貴族・王侯へは神明裁判は免除され、雪冤宣誓や決闘裁判等の方法が取られた。楽曲中ではこれらのモチーフも見られる。
 雪冤宣誓は12人の仲間によって被告は正直ものであると人格保証を行うものであるが、王に招かれた12人の賢女とつながる。自分が力を貸して子を授かったのに、子の誕生を祝う宴に招待せず、さらには12人の賢女に自分の無罪を宣誓させる。そのような王の姿はアルテローゼの目にはとても傲慢に映ったであろう。

決闘裁判
 決闘裁判は一対一で戦い、勝った方を勝訴とするものであるが、代理を立てることも許可されていた。楽曲ではアルテローゼと、王の代理としての12人目の賢女(以下、アプリコーゼ)の決闘と取れる。また、コンサートでアルテローゼの言の葉を退けようとする際、アプリコーゼは十字架を模した形に杖を振る。これは12人の賢女たちがキリスト教側に立っているようにも取れ、古のゲルマンの信仰の神対キリスト教の神の様相も呈してくる。

追放
 決闘の後、楽曲ラストでアルテローゼは国外に追放されるが、間際にもう一つ呪いを野ばら姫にかける。グリム童話の「野ばら姫」の話には無い追放と、もう一つの呪いがどこから取られたものかを探るため、少しだけ楽曲とグリム童話を離れて考察したい。
 ワーグナーのオペラに「ローエングリン」がある。このオペラ中でも決闘裁判は行われ、白鳥の騎士ローエングリンと勇将フリードリヒが戦う。ローエングリンは、叔父であるフリードリヒに己の弟を殺した罪を被せられた公女、エルザの代理。一方、フリードリヒの後ろには、妻であり魔法使いの異教徒オルトルートが付いている。フリードリヒはキリスト教の神の裁きである神明裁判に敗れ追放されるが、オルトルートと共に復讐の誓いを立て、ローエングリンの秘密が人々に明かされる切っ掛けをつくる。人々に向けてオルトルートは叫ぶ、「おまえたちが背いた神々の復讐を思い知るがいい!」。ローエングリンは立ち去らねばならなくなり、エルザもまた倒れてこの世を去る。
 ワーグナーがオペラを考えるにあたり『ドイツ伝説集』の「ブラバントのローエングリン」も参考にされていること。オルトルートが信仰していたのが古のゲルマンの神々であったこと。キリスト教の神に破れ追放されるが一矢報いて行くこと等から、楽曲ラストの出来事はここから取られていると考えられる。
 

青き伯爵の城

色欲
 復讐された青髭が色欲の罪を犯したことは、彼の娶った妻への所行をみるとわかる。しかし、屍人姫である先妻が青髭に殺された理由は不貞の罪を重ねたからであり、彼女もまた色欲の罪を犯している。

拷問
 雪白姫の時とは異なり、青髭の妻たちの身に訪れる出来事に神明裁判のモチーフは見られない。見られるのは鞭打ち・首締め・鉄の処女・火あぶり・水責めといった拷問である。
 時代が下ると、神明裁判は合理的な非難がなされるようになり、教皇も聖職者が神明裁判に関わることを禁じた。神の奇跡を前提とし、司祭なしに存続が難しい神明裁判は衰えるが、その後ヨーロッパでもっとも多用されたのが自白を得るための拷問であった。

不貞の罪:悪魔の淫婦
 神明裁判が行われた理由に不貞の罪があり、魔女裁判において多くの女性たちが拷問の末自供に追い込まれた理由にも、悪魔と関係を結び僕となったこと、すなわち悪魔の淫婦となったことがある。拷問された娘たちは自分に期待された魔女の役割を演じ始め、魔女裁判が激しくなるにつれ娘たちへの悪魔の憑依現象も広まった。17世紀末になると、必ずしも魔女裁判にかけられる訳でもなくなる。窃盗罪で捕まり、尋問で悪魔に身を捧げたと自白した娘が鞭打ちの刑に処され町から追放されたこともある。(注16)
 楽曲中では屍人姫である先妻が魔女と呼ばれる描写は無く、裁判にかけられる様子も見られない。しかし血を流して亡くなっていることや、コンサートDVDのカット割り等により鞭打ちの拷問の末に亡くなったと考えられる。その理由は不貞の罪が悪魔の淫婦となったと取られたからであろう。

嫉妬
 先の項でも触れたが、Märchenのアルバム中では嫉妬と色欲で紋章の動物が入れ替えられている。同様に紋章の動物が入れ替えられた硝子の棺で眠る姫君では、王妃と雪白姫がそれぞれ嫉妬と色欲の罪を犯していたが、青き伯爵の城では青髭と先妻の2人が色欲の罪を犯している。ならば、嫉妬の罪も2人にあるのではないだろうか。
 先妻が不貞の罪を犯した理由は、青髭に本当に愛されていた人物への嫉妬からきたとも取れる。悪魔の淫婦の尋問で、娘たちは悪魔が「最も身近な男=夫」の姿で現れたと供述した。仮に悪魔が現れたのが虚構だとしても、不貞の罪を重ねたとしても、先妻が青髭を誰よりも愛していたのは事実であろう。また、青髭も嫉妬の罪を犯していたとするならば、青髭が先妻を拷問した理由は不貞の相手への嫉妬と取れる。今ではもうわからなくなっても、その嫉妬の根本には愛があり、たとえ歪だとしても青髭と先妻の間には互いに愛情があったのではないだろうか。

磔刑の聖女

欠落した神の奇跡
 磔刑の聖女は『グリム童話』の「憂悶聖女」を下敷きにしていると考えられるが、憂悶聖女は『ドイツ伝説集』の「ひげを生やした娘」との関連も見える話である。「ひげを生やした娘」ではテューリンゲン州のザールフェルトの修道院の尼僧が主人公であり、磔にされた娘が宝石で刺繍された上履きを楽師に向けて落とすまでが書かれている。
 ここで注目したいのが憂悶聖女、ひげを生やした娘共に求婚を退けるために娘は神に祈り、神の奇跡としてひげが生える点である。しかし、エリーザベトは神に祈ることは無く、神の奇跡も起こらない。彼女にとって奇跡といえるのは屍揮者となったメルが思い出してくれることであろう。

旅歩きの楽師
 神の奇跡が起こらない理由については、黒き女将の宿の項で述べたように、第7の地平線は神が安息を取っている間の物語であるからと考えられる。ならば彼女にとっての奇跡、メルが思い出す切っ掛けとなったバイオリンを奏でた楽師はどのような存在であったのだろうか。
 生と死を別つ境界の古井戸の項で、偉い坊さんことルターがホレについて記した特徴として、古いボロをまといバイオリンを奏でながら現れることを挙げた。この特徴はコンサートにおける旅歩きの楽師と一致する。楽曲の楽師がホレさんであるならば、エリーザベトにとっての奇跡を起こしたのはキリスト教の神ではなく、古のゲルマン信仰の神だ。ホレは嘘を暴いてみせることもあるとされるが、たとえ第7の地平線の物語が虚構であっても、エリーザベトがメルを思う気持ちは真実であっただろう。だからこそ、古のゲルマン信仰の神々が力を貸したのではないだろうか。


暁光の唄

恩寵
 ここまでの楽曲はキリスト教の神の安息中と考えてきたが、暁光の唄ではついに朝が訪れ神の威光が戻り、恩寵が与えられる。その象徴ともいえるのがコンサートで墓標の周りに植えられた野ばらが咲くことだ。
 『ドイツ伝説集』に収められた話に「タンホイザー」がある。罪を犯した男タンホイザーに教皇が示すのが、教皇の持つ干からびた杖に緑が芽吹くなら、タンホイザーの罪は救われるというものだ。タンホイザーと楽曲では緑の芽吹く場所が異なるが、黒き女将の宿の項で述べた絞首台の意味から、「干からびた杖→乾いた枝→絞首台→十字架→墓標」とそのイメージはたどることができる。

エリーザベトの死
 いくつもの罪を重ねた者に対する恩寵は、なにゆえ与えられたのであろうか。それを語るにあたり、楽曲が前後してしまうが、エリーザベトの死因は何であったかから考えたい。
 エリーザベトの死因として、自ら身を投げたことが考えられる。歌詞では「地に墜ちると知りながら最後まで羽ばたく」と連想できるような言葉が使われている。
 無論、理由としてこれだけでは弱いであろう。もう一つの理由が領土復興遠征・愛知での演出だ。各公演に参加したメンバーの都合もあり、とある楽曲の登場人物のまま、本来の楽曲とは異なる人物のパートを歌うことが特徴であったツアーだ。参加された方のレポートを元にした情報ではあるが、エリーザベトがホレおばさん役をした際、「貴女はひょっとして、私を産んでくれたお母さん!?・・・・・・に、似てると思ったけど、きっと気のCeuiね!」との継子の台詞があったという。エリーザベトと、生と死を別つ境界の古井戸が関係あるとするならば、楽曲に加えられていたローレライ伝説はまた違った意味を持ってくる。

ローレライ
 ブレンターノによって語られたローレライ伝説は、美しさによって多くの男を虜にした女、ローレライの話である。司教は彼女を魔女として神の名のもと裁こうとするが、あまりの美しさに裁くことができなくなる。恋人に騙され、もう誰をも愛せないと言うローレライは、男を惑わせる己を嘆き、キリスト教徒として死ぬ権利を求める。司祭はこれを受け入れず、ローレライに白と黒の衣装を身につけた尼になるように命じる。ローレライは三人の騎士に連れられて尼寺へ向かうが、その途中でもう一目だけ愛する人の城を見たいと願い岩の上へ登ることを望み、岩の上から身を投げてしまう。
 これらの内容はNeinの忘れな月夜とも結び付き、エリーザベトの話として関連があると言えるだろう。

タンホイザー:エリーザベトの自己犠牲
 恩寵が与えられた理由を語るにあたって最も重要なことが、エリーザベトが身を投げたことは「自殺」の面からではなく、「自己犠牲」の面から語られるであろうことだ。キリスト教では自殺を重罪とするが、イエスが人類の罪を身代わりに受けて十字架に架かったことから、自己犠牲は愛とされる。
 エリーザベトの死が自己犠牲である理由については、『ドイツ伝説集』の「タンホイザー」が原案の一つとなったワーグナーのオペラ、「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」を挙げたい。
 本来教皇がタンホイザーに示した、杖に緑が芽吹けば罪が許されるとは、干からびた杖に緑が芽吹く訳が無い。すなわち、神が許すことは無い意味であった。ドイツ伝説集での「タンホイザー」は杖に緑が芽吹き、恩寵が与えられた理由については語られずに終わる。しかし、ワーグナーのオペラでは明確な理由が加えられている。それがタンホイザーの恋人、エリーザベトの自己犠牲だ。オペラにおけるエリーザベトは陰に陽に聖母マリアに擬せられてきた人物であるが、最初にして最後の一度、直接マリアにタンホイザーの為の慈悲を願い自己放下の道を選ぶ。
 オペラのエリーザベトの名と彼女がマリアに擬せられたことは、そのまま楽曲にもつながるであろう。エリーザベトの自己犠牲によってこそ、神の恩寵は与えられたのだ。

求めた“ヒカリ”
 暁光の唄で告げられる“僕達”が求めたものに恩寵がある。しかし、屍揮者が告げたように、エリーザベトの死と引き換えてまで、メルは恩寵を望みはしなかったのではないだろうか。
 事象を否定する地平線であるNein。そのコンサートで歌われた磔刑の聖女はBlu-ray(注17)においてメルの台詞が加えられている。「Auf wiedersehen,mine liebe」。この言葉に、誰も恨まずに、死せるこことも憾まずに。エリーザベトが笑っていられる眩い時代に彼女を送り出すメルの想いが感じられてならないのである。


注・参考文献

注1.ヴィルヘルム・グリム、野口芳子訳「メルヒェンの本質について」『KGゲルマニスティク』第6・7合併号、関西学院大学文学部ドイツ文学科編、2003年、56頁。
注2.馬場幸栄「児童養護施設としての修道院」『格差センシティブな人間発達科学の創成』お茶の水女子大学グローバルCOEプログラム、2010年、110頁。
注3.野口芳子『グリム童話と魔女:魔女裁判とジェンダーの視点から』勁草書房、2002年、204頁を参照。
注4.名倉洋子「グリムの魔女像をめぐって」『ドイツ文学研究』12号、日本独文学会東海支部編、1995年、32項。
注5.野口芳子、前掲書、注3、11頁。
注6.野口芳子『グリム童話のメタファー:固定観念を覆す解釈』勁草書房、2016年、92頁。
注7.同上、93‐97頁を参照。
注8.NN「グリム童話における7の数字が持つ意味について」の要約。野口芳子『卒論を楽しもう:グリム童話で書く人文科学系卒論』武庫川女子大学出版部、2012年、66頁を参照。
注9.阿部謹也『西洋中世の罪と罰:亡霊の社会史(講談社学術文庫)』講談社、2012年。
注10.高木昌史『グリム童話を読む辞典』三交社、2002年、248頁を参照。
注11.ジャック・ル・コブ、桐村泰次訳『中世西洋文明』論創社、2007年、532頁。
注12.野口芳子、前掲書、注6、11頁。
注13.浜本隆志「「白雪姫」と近親相姦」、大野寿子編『グリム童話と表象文化:モティーフ・ジェンダー・ステレオタイプ』勉誠出版、2017年、62頁を参照。
注14.上山安敏『魔女とキリスト教』講談社、1998年、126頁。
注15.W・E・ポイカート、中山けい子訳『中世後期のドイツ民間信仰:伝説の歴史民俗学』三元社、2014年、137頁を参照。
注16.イングリット・アーレント=シュルテ、野口芳子・小山真理子訳『魔女にされた女性たち:中世初期における魔女裁判』勁草書房、2003年、76‐81頁を参照。
注17.完全受注生産コンプリート超デラックス盤のDISC2

その他参考文献
エルンスト・ボイトラー、山下剛訳『「トゥーレの王」とローレライ』未知谷、2008年。
沖島博美文、朝倉めぐみ絵『地球の歩き方 GEMS TONE 054 グリム童話で旅するドイツ・メルヘン街道』ダイヤモンド社、2012年。
グリム兄弟、桜沢正勝,・鍛治哲郎訳『ドイツ伝説集(上・下)』人文書院、1987‐1990年。
高橋義人『グリム童話の世界:ヨーロッパ文化の深層へ』岩波書店、2006年。
高橋義人「NHKカルチャーラジオ 文学の世界 グリム童話の深層を読む:ドイツ・メルヘンへの誘い」NHK出版、2012年。
ポール・ジョンソン、阿河尚之・池田潤・山田恵子訳『ユダヤ人の歴史(上)』徳間書店、1990年
宮崎揚弘『ペストの歴史』山川出版社、2015年。
山内進『決闘裁判:ヨーロッパ法精神社会の原風景』講談社、2000年。
ワーグナー協会監修、三宅幸夫・池上純一編訳『ワーグナー ローエングリン』五柳書院、2010年。
ワーグナー協会監修、三宅幸夫・池上純一編訳『ワーグナー タンホイザー』五柳書院、2012年。


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