道灌

  ― 穀雨の頃 ―

釣りは鮒に始まって鮒に終ると言う。それを落語界に当て嵌めるなら、おそらく鮒は「道灌」になるだろう。
入門して最初に教わる噺の第一位は、文句なく道灌である。できない噺家はいても、知らない噺家はいない。昔からそうだったようで、伝説の名人「黒門町」こと八代目桂文楽師匠(私の師匠の師匠の師匠)も、それしか教えてもらえず毎日やっていたため、「道灌小僧」と仇名されたと伝わる。
八つぁんが隠居さんの家に遊びに行き、とんちんかんな会話を繰り広げた末に半可通となり、真似をして失敗した挙句に地口でサゲる、落語世界のレギュラーメンバーによるスタンダードナンバーである。さらに、故事の類をさりげなく引用し薀蓄を傾け、「もしかしたら噺家さんは頭がいいんじゃないか」などといった荒唐無稽な勘違いを起こさせよう、そんな遠謀深慮が隠されている……のかもしれない。

    山吹伝説
このタイトル「道灌」は武将の太田道灌より。どんな人か興味のある方は、日暮里駅前に行くと馬に乗った凛々しい姿の銅像が見られる。さすがは道灌山の麓、英雄の扱いである。ただし、全国的には「山吹伝説の当事者」として名高い。
簡単に記しておく。
狩に行った道灌公が、突然の雨に遭い雨具を借りようと一軒のあばら家を訪ねると、そこの娘は一輪の山吹の花を差し出した。ところが道灌公には、花に込めた「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」の和歌と「(お貸しする)蓑がない」、の意味が分からなかった。家来の説明を聞き「余は歌道に暗い」と自らの不明を恥じ、それを機に精進を重ね日本一の歌人になった、という逸話である。
その場面の石像が、新宿中央公園に建っている。よくできた話を斜に構えて笑いにするあたりも落語的だ。
噺自体に特定の季節は設定されていないのだが、元になった「山吹伝説」は、たぶん今頃の出来事だったのだろう。陽気も良く世の中すべての生命力が満ち溢れ、野山に繰り出したくなる道灌公の気持ちにも賛同できる。そして、彼が降られて難儀した雨こそ、「穀雨」なのである。

【仕事がはんちく(半端)になった八五郎が隠居さんの家へ遊びに行く。世間話から床の間に飾られた掛軸に話題が移る。
 「椎茸が煽りを喰らったようなシャッポかぶって皮の股引はいたさむれぇがいばって突っ立ってるってえと、洗い髪の女がレエスカレーの皿かなんか差し出してますね」と言うと、あきれた隠居さんが山吹伝説と、和歌を教えてくれる。
 雨具を借りに来た奴を追い返す方法だと勘違いした八五郎は、その歌を覚えたいと紙に書いてもらって家に帰る。
 早速夕立が降ってきたので楽しみ待っていると、案の定仲間が「借り物だ」と駆け込んでくる。期待しながら「一応言ってみな」と聞くと「提灯を貸してくれ」。
 和歌を使ってみたい八五郎は納得せず、雨具を貸してくれと言わなければ提灯は貸せないと断る。仲間は訳がわからないまま仕方なく雨具を貸してくれと頼む。
 八五郎は喜び勇んで書付けを取り出すのだが、うろ覚えな上に濁点がないもんで、肝心な部分を「みそひとだるになべとかましき」と読み、「何だそりゃぁ、勝手道具(味噌一樽に鍋と釜敷き)の都々逸か?」と言われてしまう。
「何をぉ、これを聞いて都々逸ってところをみると、おめぇも歌道に暗えな」
「ああ、かど(角)が暗えから提灯借りにきた」】

 私が入門した頃ウチの師匠が寄席でこの噺をやったら、楽屋へ帰ってきた途端、「弟子を取ったでしょ? 」と言われたそうだ。寄席は、誰が何をやるか決まっておらず、高座に上がって考える人も少なくない。それぞれに好きな噺やよくやる根多の傾向があって、ウチの師匠が「道灌」をやるのは、弟子に教えるために思い出しつつ確認して(噺家風にいえばさらって)いるに違いない、とばれたわけだ。業界における道灌のポジションが分かって頂けるだろう。
 そこで今回は道灌にちなみ、私の入門騒動を通して、落語界の仕組みなどを書いてみたい。そんな風に、本編とは違う内容でお客様にリセットして頂く役目を「色物」と呼ぶ。寄席では、落語の合間に入る漫才や手品や曲芸や俗曲や紙切り等を指す。よく「キワ物」と混同し、ネガティヴな方向、字で書くなら「イロ物」といった使い方をする人がいるけれど、大いなる誤解である(際物も本来は悪い言葉ではない)。
色物とは、落語と違う色で看板を書く慣例からの呼び方で、寄席には欠かせない、もちろん我々噺家にとって、いてもらわなくては困る大事な存在である。
それなら今項が他の項を助け全体を引き締める役に立つんだろうな? と問われれば「それは言わない約束……」と、笑って誤魔化すしかない。

     選択
 あまり後先を考えない性格なもんで、落語界への転身を思いつき会社を辞めるのは悩まなかった。しかし辞めてみて改めて考えてみるに、この世界へのコネクションはおろか最低限の知識さえない事実に愕然とした。私は落研ではなく(そもそも当時は大学へ行っていない)、生で落語を聴いたのも噺家になるのを決めた後、いわば就活の時が最初だったくらいである。
 落語の雑誌や小説などを読むと、どうやら弟子入りは目当ての師匠に直接お願いするらしい、それだけは分かった。勉強のため何件も寄席をハシゴし、落語の面白さには目覚めつつあったのだが、芸風の違い等までは考えが及ばなかった。ましてや、どの一門が自分にあっているかなど判断できるはずもない。悩んだ末に出した結論は、「わからないことをわかろうとしない」であった。
 そこで改めて資料(雑誌が就活の資料と化していた)を読み返すうちにフッと引き付けられたのが、現師匠である八代目三升家小勝。なぜか? そこに、「小勝は落語が好きで噺家になったのではなく職業として選んだ」と書かれていたのである。
 それが本当か冗談かはともかく、そんな見解を公にする人は信用できるのではないかと感じた。入門のお願いに伺い、なぜ自分のところに来たのか? と師匠に問われた時、「もしかしたら事実でなく、また現役の方には失礼かも知れませんが」と前置きしたうえで正直にそれを言った。私は芸については分からない、ただ、この歳(当時三十七歳)から仕えるのは、人として信じられる方にしたかったと言った。それで気分を損ねて断られたら、噺家になるのはあきらめようと覚悟して言った。
 師匠は黙って聴いていたが、私の話が終わるのを待って、「本当だよ」と。そして、年齢の心配はあるけれどやってみるか、と入門を許可して下さった。あまりにあっさり許されて拍子抜けするほどだった。しかし、あっさり会えた場合はあっさり断られるものらしく、私の場合は会うまでが大変だったのだ。その会うのが困難だった理由こそ、入門が許された理由でもあった。

     氷雨
 師匠にお願いしようと決めた頃、資料(くどい!)の中でもう一人目に留まった人がいた。私と同じ年の生まれで、三十を過ぎてから入門したと書いてあった。落語界の内情を知りたくて、まずこの人に会ってみようと思いつく。
 今になって考えるに、もしこの人が元落研のマニアかなんかで、よくある「夢を捨てきれず」タイプだったり、ウチの師匠に恨みがあったり、真面目で経済的な苦労を正直に教えてくれたりしたら、私は落語界にいなかっただろう。
その人はいずれにも該当していなかった。私と同じ高卒で、海外をフラフラしていたのまで同じだった。師匠同士も同い年で初めての弟子になったのまで同じだった。さらに、「食べていけますか?」という私の不粋で切実な問いかけに「大丈夫でしょ」と能天気に嘘をついて……もとい、希望的な観測を述べて下さった。お陰で私は噺家になってしまっ……なれたのである。
 忘れもしない正月二之席初日、私は新宿末廣亭で師匠の高座を見た。帰りに、その先輩(になる予定の若手落語家)を訪ね「明日お願いに行きます」と報告した。と、「じゃ、軽く前祝いだ」と誘って頂いた。……それが軽くなかった……。終電がなくなり、ホテルも見つからず、某サウナで仮眠したその晩、なんたることか、流行っていた悪性の風邪を引きこみ、細菌が入り顔が腫れ上がってしまったである。
腫れが引くのに一週間かかった。改めて十八日に寄席に行き、楽屋口で待った。ところが、行く前に出番の確認はしておいたのに出て来ない。翌日もずっと待ったが出て来ない。次の二十日は千秋楽である。その興行が終わると師匠に寄席出演の予定はなかった。末廣亭は前に抜ける扉もあると聞き込み、両方見える位置に立って祈るような気持ちで待っていたのだが、やはり出てきては下さらなかった。切羽詰まった私は、例の先輩候補に電話をして、師匠の住まいを訊ねた。「本当は駄目なんだけど……」とためらいながらも、哀れに思ったのか教えてくれた(もう時効ですよね)。
 ご自宅には灯りがついていなかった。私は近所の喫茶店で手紙を書き、履歴書と一緒にポストに入れて家に帰った。翌朝、師匠から連絡を頂き、先の対面となる。
 後で判明したのだが、私が伺った一月十八日、入院していたお母さんの様態が急変した旨の電話が楽屋にかかって来たため、師匠は出番を変え病院へ向かった。残念ながらそのままお亡くなりになり、翌日と千秋楽は休演となった。私は何も知らず、三日間ずっと立ち尽くしていたのである。
 手を繋いで空襲の下を逃げ回った時代と家庭環境のせいもあって、師匠はとても親孝行だった。そのお母さんが亡くなった日の弟子入り志願は、「おふくろが連れてきたように感じた」と師匠は入門を許してくれたのである。
朝から晩まで何の希望も変化もなかった二日目の十九日は、終日冷たい雨が降っていたのだけれど、その氷雨も私にとっては発芽に必要な雨であったのだろう。きっと、降らなければならない穀雨だったのである。
私はそれを偶然と思っていない。
私の転身話など誰の参考にもならないのは重々承知している。ただ、人が動くのには各々いい時節があるんだなぁと勇気を持って頂ければ幸いである。「因縁の熟す処遅速有り」なんていうものね。
周りの視線に合わせたりためらったりすると、「本降りになって飛び出す雨宿り」になりかねない。何かを始めるのに遅いということはないし、待つのも努力のうちだから、発奮して「日本一歌人」となった道灌公の一首を紹介して、この項を閉じたい。
― 急がずば 濡れざらましを旅人の 後より晴るる 野路の村雨 ―

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