青菜

   ― 春分の頃 ―

落語界に入門が許されると、師匠が名前を付けてくれる。前座名という奴で、私は「勝好」をいただいた。やがて二ッ目となり、師匠が名前は自分で考えるようにと言ってくださったので、三升家伝統の「勝」の字に菜を添えて「勝菜」とした(その後、前述の「う勝」に変更)。
郷里千葉県の花でずっと身近にあり、素朴な明るさが好きだったからだ。
菜の花は一冬越して董が立ってから花を咲かすというので、元将棋連盟会長の故米長邦雄さんが庭に植え、最年長で名人位を奪取したと聞いたからでもあった。三十代半ばという二冬も三冬も越した身としては、頼り信じる寄すがが欲しかったのである。

    菜の花の素顔
本やインターネットで菜の花を検索すると「アブラナ」と出てくる。ウソである。絶対違う。正確にはそれだけではない。青い海をバックに丘一面を黄色に染め上げた光景だけが菜の花ではないのだ。
自分の家で食べるために、どこの庭先でも菜っ葉が育てられていた。それは小松菜だったり辛子菜だったりで決まっていない。食べきれなかった分が花を付ける。それが我々の知る菜の花の素顔である。時にはその種が、畦道や雑木林との境の掃きだめにこぼれて芽を出す。そのまま育って花を咲かす。それも菜の花なのだ。
河川敷に自生してコロニーを形成する仲間達もいる。一株でも淋しくなく、群れていてもしつこくない。そしてすべてが温室ではなく外で冬を越し、トウが立ってから咲いた花だ。命を繋ぐ強さが作った明るさなのである。もちろん千葉県に限らず全国で咲いているわけで、名曲「朧月夜」のモデルは長野県の野沢菜と聞く。
落語には花の描写がありそうでない。『二人旅』に、「見てみねぇ、黄色と青で心もちがいいじゃねぇか……」と出て来るくらいだ。それ以外は、菜も、もっぱらおかずとしての役割である。

【植木屋の八五郎が仕事をしていると、そこの主が一休みしないかと話しかける。
 暑気払いに「柳蔭」という冷酒を勧められ喜んでいると、肴に鯉の洗いまで出てきて恐縮する。さらには、菜のお浸しは食べますかと訊かれたので好きだと答える。
 主が次の間に向かって声をかけ、出てきた奥方に「植木屋さんが菜のお浸しを所望じゃ。かつぶしをたんとかけて持って参れ」と言いつける。
 すると「鞍馬から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官」と奥方が言う。それを受けて「そうであったか、では義経にしておけ」で話が収まる。
八五郎が不思議に思って尋ねると、
「今のは隠し言葉になっておりましてな、菜を食べてしまったとお客様に気取られないよう、菜は喰ろうてしまった意味で九郎判官と洒落たわけです。私もそれに応えて“よしとけ”というのを義経にしておけと言ったような塩梅でございましてな」
主の鷹揚な物言いと隠し言葉にいたく感心した八五郎、家へ帰ると早速女房に言い聞かせる。あきれた女房が早く食事を済ませてくれと言うので、鰯の塩焼きで一杯やっているところに建具屋の半公が通りかかる。ちょうどいいと呼び止め、嫌がる女房を次の間代わりの押入れに閉じ込めてから、家へ招き入れる。
「植木屋さん、柳蔭をお上がり」
「おれは建具屋だよ、植木屋はおめえじゃねぇか。まぁいいや、ゴチになるか……ってこりゃあ普通の酒だぜ」
「そんなに冷えてはいないがな」
「なに言ってやがる。燗がついてるじゃねぇか」
「鯉の洗いをお食べ」
「すまねぇな……って、こりゃ鰯の塩焼きだろ」
「時に菜のおひたしはお好きか?」
「嫌ぇだよ、ガキの頃から菜っ葉は嫌ぇなんだ」
「おいっ、そりゃねえだろ、さんざん飲み食いしといて。今日だけ好きだって言え」
「一体さっきから何やってんだ?……わかったよ、好きだ」
それを聞いた植木屋が手を叩く。押入れが開いて汗だくの女房が出てくる。半公が驚いていると、八五郎は菜のおひたしを言いつける。女房がそれに応えて、
「鞍馬から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官、義経」
「えーっ、義経! う~ん、じゃあ弁慶にしておけ」】

前項同様に植木屋さんが主人公の噺である。他所で聞いたことを真似して失敗する落語はいくらでもある。その中でも、これは落語ゆえに成立するという意味でも、またやり取りのバカバカしさでも出色の作品だ。演じるほうにも聴いてくださるお客様にもファンが多い。嫌がりつつもちゃんとやってみせる女房のキャラクターがいい。

    利根川グルメ
小道具として登場する柳蔭は江戸では“直し”といい、焼酎と味醂を合わせたカクテルである。これは調味料を使った際物ではない。元々味醂はお酒だった。
味醂が江戸の食文化に与えた影響は大きく、田舎の食物と思われていた蕎麦と鰻を名物に押し上げたのは味醂と醤油の力である。
当初関東には醸造の技術がなかった。酒も含めて上方からやってくる「下りもの」に頼っていた。重量の関係から海路を取り、富士山を左に見ながら運ばれる間に味がまろやかになったといわれる「富士見酒」は、とても珍重されたそうだが、どうしても価格は高くなり、一部の人しか口にできなかった。
そのうちに物だけでなく、技術者も運んでくるようになる。土地、水、原材料の調達に都合がよかった房総には、幾人もの醸造業者が集まった。右記の水運も重要な条件で、江戸(東京)湾や利根川を通って江戸の台所を賄っていく。利根川は治水のために徳川家康が掘らせた川なのは有名だが、運河としてもおおいに役立ち、江戸っ子の味を作ったのである。
銚子から始まる利根川沿線は、現代でも醤油造りや味醂造り、酒造り等の醸造業が盛んに行われている。私はその時分技術者に便乗し、どさくさまぎれにやって来た上方移民の末裔であって、御先祖様に敬意を表するため“万止むを得ず”毎晩醸造酒を嗜んでいるのだ。
味醂は調味料として定着してしまったがため大量生産が進み、今やそのまま飲めるような銘柄は少なくなってしまった。それでも、まだ手造りしている蔵元が幾つか残っている。興味がある方は購入し、自宅で柳蔭を楽しんでみてはいかがだろうか。
四・六(味醂が四)くらいにして、夏は氷と炭酸、冬ならお湯で割ると飲みやすい。前者を「小江戸ハイボール」、後者を「寒直し」と命名した。ほんのりとした甘味が、仕事で疲れた身体に優しく沁みてくる。千葉の流山が発祥の白味醂は、上方系に比べるとあっさりしていて呑みやすい。
菜の字をきっかけにずっと千葉県観光大使みたいな記述が続いたけれど、実は勝菜の菜には、もう一つ理由があったのである。

    明菜の菜
二十代の頃、某旅行社の添乗員をしていた。シーズンの最盛期で人手がいっぱいいっぱいになり、ある聾学校の修学旅行を一人で任された。人数の関係か年齢が幅広く、聴覚だけの障碍から複合した障碍まで様々な生徒さんがいた。それぞれ年上の人は下を諭し、重い障碍のお子さんは皆で世話をする、と我々が学ばなければいけない社会生活がそこにはあった。
生徒さん達の唇を読む能力は素晴らしく、ゆっくり喋れば私の話を全て理解できた。すっかり仲良くなった帰路、別府から神戸までフェリーに乗った。ロビーにしかテレビがないので皆で観ていた。木曜日だったのだろう、音楽番組「ザ・ベストテン」をやっていた。年頃の中・高校生だから、それぞれ贔屓のアイドルがいて盛り上がるのは、俗に健常者と呼ばれる若者と変わらない。
突然ある生徒さんが、
「添乗員さんは誰が好きですか? 」と訊いてきた。
「中森明菜かな」
「あ、僕もです」
 野球部のエースだという青年が笑った。その爽やかな表情のまま、
「中森明菜は歌うまいですか? 」と訊く。
 改めて気付く。彼らは好きな歌手の歌を聴いたことがないのである。
「うまいですよ」
「そうですかぁ。……明菜の声ってどんな声ですか? 」
「えっ? 」
 恥ずかしながら絶句してしまった。
音の概念のない生徒さん達に向かって、どう伝えればいいのか思いつかなかった。逆に言えば、普段我々は音を使って音を表現し平気でいる。それはあまり意味がないのではなかろうか。
「紫ってどんな色ですか? 」と訊かれた時に、「赤と青を混ぜた色です」と答えるのは簡単だし分かりやすい。が、相手が眼の不自由な方だったら意味がない。そもそも、色を表すのに色を使うこと自体に芸がない。音だって同じだ。表現するということの意味と怖さを教えてもらった。かりそめにも表現を職業として選んだ以上、疑いもなく色を色で表し、音を音で表してはならないだろう。その戒めを忘れないよう、芸名に明菜さんの菜を使わせて頂いたのである。
「明菜の声ってどんな声ですか? 」エース君は、私を困らせるつもりも悲壮感もなく、ニコニコ笑って訊いた。きっと彼らは、なにかしらの感覚を秘めている。
「障碍を持った人に同情するのは失礼だ」と言う。それに同意しつつも、どこかで気の毒もしくは可哀想だと感じている自分はいなかっただろうか。改めて思う。人の感性や才能の大きさは皆同じである。ただ、その種類や向きによって、表に見えやすいか聴こえやすいか、そして評価されやすいかの違いがあるだけだ。
答えが見つからないまま馬齢を重ね、三十年たった。私は旅を思い出し、「初音の日」という小説を書いた。絵師が耳の聴こえない少女に出会い噺家を目指す物語で、幸運にも某文学賞を頂戴できた。受賞と作品を、あの旅の仲間たち、私の表現の師匠たちに深謝を込めて捧げる。
エース君は、学校で理容の勉強をしていると話してくれた。今は毎日あの笑顔で、調髪をされていることと思う。
中森明菜さんの声を表現できるようになったら、ぜひ彼の店を訪ねてみたい。

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