紋三郎稲荷

   ― 雨水の頃 ―

 気になり引っ掛かっていても、今さら人には訊きにくいことがある。私の場合は干支だった。十干と十二支の組み合わせだとは知っていたものの、なぜ干支を「えと」と読むのだろう? なぜ十と十二の組み合わせが百二十ではなく六十なのだろう? と文理両面(たんに国語と算数ですね)に渡って我が身の浅学を象徴していたのである。それが最近になってやっと分かった。干支は本来「かんし」と読み、「えと」は十干十二支を二分し、兄組「え」と弟組「と」を併せた呼び方だったのだ。奇数番が兄で偶数番が弟。6×5の組み合わせが二つで六十となる。出生率が下がると言われる丙午を例にとると、二つ離れた辰や申には丙があっても、前後の巳や未にはない。
時々思うのだが、コミュニケーション力というのは、この干支みたいなものではなかろうか。世間話の際に「干支は?」と訊かれれば、ほとんどの方が「ネズミです」「イノシシです」など動物名を答えるに違いない。それを受けて「小金貯め込んでるんじゃないですかぁ?」「猪突猛進型ですね」と、お約束のリアクションを返す。時には「巳歳の女はしつこいのよ、フフッ」なんて昔の演歌みたいな台詞を呟く人がいて、誰かの顔が引きつったりする。「えとは十干と十二支の組み合わせだから、厳密には、かんし。動物名を訊きたいなら十二支は? が正しい」とか「そもそも十二支と動物に直接の関係はありません」と訂正していては白けてしまう。ましてや「あの~、えとって何ですか~?」では会話が成り立たない。
そんなことは誰しも弁えているようでいて、話の内容が趣味や仕事など自分の専門分野になると、どうしても六十知っていると言いたくなる、動物は方便ですよ、便宜上の方策が誤解されたまま定着しているんですよ、と説明したくなる。そこをじっと我慢して「十二のえと」で折り合うのが処世術。それを超え、道を究めた者同士で阿吽の呼吸になれば、「え」か「と」か、シンプルに話が通るのであろう。

     神様と武士
年齢を示す記号になりつつある十二支は、他の分野でも生活の役に立っている。中でも一番の働き者は午だろう。毎朝の天気予報に始まって報道、日常会話、およそ午前午後という言葉を目や耳にしない日はあるまい。午の(正)刻が十二時(正午)でその前と後を指すのだけれど、いまや当り前過ぎて意識すらしない。本職の干支でも「丙午」と有名どころを押えている。時刻と年の中間、日にも十二支は当て嵌められていて、二月最初の午の日は、初午と呼ばれ稲荷神社の縁日である。稲荷は音が「イネナリ(稲生り)」の転、字が「イネノニ(稲の荷)」の転、元々農業の神様であり、その縁起を考えれば、春の気配が濃くなり水がぬるむ旧暦で迎えるのが相応しい。
 八百万と世界一の神様数? を誇る日本の中でも、社の数では稲荷神社が断トツだと思われる。商売繁盛を祈り商家の庭に祀られた小さな祠から日本三大稲荷まで、農耕民族である日本人にとって最も親しみのある神様といっても過言ではない。しかし、じゃあ稲荷神社の御祭神はどなたか? と尋ねられると、ほとんどの人は御存知ないのではなかろうか。もちろん私だって知らない。
 敬う対象には直接ふれようとしない日本人は、もっぱら“お遣い姫”である狐(仏教系らしい)を間に置き、その“お遣い姫”を通じて神様を身近に感じてきた。さらに、狐の好物とされる油揚げに酢飯を詰めたものを「稲荷寿司」と名付け、やっと親しみを込めて「お稲荷さん」と口にするのである。

【笠間藩の侍が風邪をひき、皆より遅れて一人で江戸に向う。
 途中で駕籠に乗ったのだが、中でコンコンと咳をしているのを聞いた駕籠舁きは、もしかしたら狐ではないかと疑う。笠間からだというし、防寒に毛皮を着ていたせいもあってすっかり信じ込んでしまう。
 勘違いに気付いた侍は悪戯心を起こし、休憩した茶店では稲荷寿司ばかり食べ「紋三郎に縁のある者だ」と笠間稲荷の別名を使う。
 失礼があってはバチが当たると恐縮した駕籠舁きは松戸宿の本陣に案内する。そこの主は稲荷信仰が篤く、下へも措かないもてなしを受ける。挙句には近所の住民が集まってきて部屋へ賽銭を投げ込み始める。
 騒ぎが大きくなって困った侍は、部屋を覗くことを禁じておいて翌朝早くに出立してしまう。すると、庭に祀ってある社の下から本物の狐が出てきて侍を見送り一言。
「人間てのは、化かすのがうめえや」】

 前述のように、東洋では敬う対象にふれない。名前さえ口にしない。ゆえに御祭神どころか笠間稲荷の別名までが一般化して生まれた演目だ。
 その慣習は相手が神様に限らない。本名から遠い表現が好まれ、役職があれば役職、なければ地名やそこから派生した通称などである。
時代劇『大岡越前』を観ると、部下は「お奉行」、同僚は「越前殿」、敵役でさえ「おのれ越前め!」と、やっぱり役職(の名乗り)である。忠相と呼ぶのは将軍と両親だけ。具体的には、実名(下の名)を「諱」といって、これを呼ばないわけだ。敬意の表れであり、一説には、口にするのを「忌む名」が語源と言われている。
本能寺の変でも、信長が謀反は誰だと訊ねると、家来(森蘭丸ヴァージョンが主流ですね)は「惟任日向守!」と答える。それを「光秀か……、是非に及ばず」と受けるから形になる(いったい誰が聴いていたんだろう? )。
織田信長なら信長が諱。織田は通称で姓は平氏(自称)だ。「信長殿」なんぞと呼んだら切られてしまう。史実を重視した時代劇で「右府様」と呼ぶのは右大臣だったせいだ。上総介と名乗っていた時代もあったらしいが、これは前出の大岡越前守と同じく国司の名乗り、守じゃなくて介なのは忠臣蔵の吉良上野介と同じである。
上総と上野はともに国の格が高く(他に常陸もそう)、武士では長官たる守を名乗れず次官の介になる。スケはどんな字(職掌)でも次官で、上野介邸に討ち入りした大石内蔵助がそうだし、真田信繁(幸村)の左衛門佐もそう。スケの下はジョウ、左衛門尉なら遠山の金さん(自衛隊は今でも佐と尉を使っています)。ただし、いずれも形式だけのものだ。江戸町奉行が越前守なのだから想像はつく。

字を受け継ぐ
じゃあ使わない諱は軽く扱われていたのかといえば、そうではない。大事にすればこそ呼ばないわけで、武田晴信から信玄になったように、戒名に諱の字を使う例は昔も今もある。そして、その諱を決める際には、一文字もらうのが名誉であり、相手を立てる行為でもあったようだ。こっちも現代まで普通に見られる。
徳川家康を例にとってみる。彼は家康になる前は元康だった。そして長男は信康、次男は秀康である。上に戴いた文字で、その時その時の人間関係が伝わってくる。元康は人質として預けられていた今川義元から、信康は義父の信長から、秀康は養父の秀吉から、であろう。江戸幕府ができると、今度は家康にあやかろうとしたのか、将軍に家の字を付けるようになる(通字)。江戸開府前の二代目秀忠は別にして、三代目の家光、四代目の家綱と続き、次の綱吉は跡取りじゃなかったので、長兄家綱の偏諱である。その綱吉から一字もらったのが、徳川中興の祖八代将軍吉宗で、さらに尾張(徳川)宗春と流れる。他家でも名門なら将軍の偏諱はいて、名君の誉れ高い上杉鷹山の諱は冶憲だから、十代徳川家冶の時代かなぁと推測できる。
突然卑近になって恐縮だが、我々噺家の芸名も似たようなものだ。私の二つ目時代の芸名「三升家う勝」も、師匠「三升家小勝」の勝の字を頂いた。この名前は、惜しまれつつ亡くなられた落語界の大先輩にして名人、古今亭志ん朝師匠が、「お前はコカツじゃなくてウカツだよ」とウチの師匠に言った洒落が起源である。
志ん朝師匠をとても慕っていた我が師匠は、ウカツを形見として一門で使いたいと思い立ち、私が名乗らせて頂くことになったのだ。で、志ん朝師匠に敬意を表し、平仮名と漢字の組み合わせにした。
パソコン等の普及で見る機会が減ってしまったけれど、古今亭一門の志は、本来漢字ではなく変体仮名。字面がよく似ているため漢字の「志」を代用しているうちに定着してしまったようだ。明治の後期に決まるまで平仮名は百以上あって、変体仮名とは採用されなかった字達である。
今でも目にする代表は蕎麦屋さんの暖簾であろうか。平仮名の「そ」は「曽」から、「ば」は「波」から作られたが、蕎麦屋さんのは「楚」と「者」をくずしたものだ。志ん朝師匠の「志」は、平仮名の座を簡単な「之」に譲ってしまった格好で、街中で見かけるのは、甘味処に貼ってあるお品書き「お汁粉」の「し」くらいか。
変体仮名は漢字か? 平仮名か? なら平仮名に近い。なんたって古今亭の歴史は江戸時代に始まり、命名のほうが平仮名の選定より先なのである。

     名前でない名誉
さて、その落語界など古くからある芸能では、今まで述べてきた一般の社会通例と反対に下の名前を使う。これは、同じ苗字や亭号で混乱するという実務的な事情のほか、お客様と一線を画す自制や遜(へりくだ)る覚悟の表れ、噺家が紋付を着る際に白い半衿は着けないのと同根ではないかと考えている。そして、そんな芸界でも、やはり名前以外の呼び方に効能や味わいはある。
歌舞伎のポスター等を拝見すると、配役欄には「團十郎」「菊五郎」など下の名前がズラッと並んでいる。しかし、大向こうの掛け声が「成田屋!」「音羽屋!」、と屋号なのは御承知の通り。そこは落語界も似ていて、寄席のメクリには下の名前しか記されておらず、しかし客席から声が掛かる時は「目白!(先代小さん師匠)」、「矢来町!(志ん朝師匠)と地名になる。芸道精進より将来名人になった時のために響きのいい街を探すほうが大変だ、そんな本末転倒の馬鹿々々しい苦悩も一部で囁かれている。
もっとも、日本人の地名好きは階層を問わないようで、江戸時代の老中連名の書状には、役職を表すはずの守を省いた「相模」「但馬」「加賀」「河内」といった国名のみの記載が残っている。苗字が重なる親戚間では、「〇〇のおじさん」が略され「〇〇!」と居住地で呼ばれるようなものか。
かようにどんな慣習でも、必ず民族や時代を反映した理由がある。それを勘案しないで、日本人は子供が生まれると夫婦間の呼び方が「お父さん」「お母さん」になってしまうと嘆いている人がいる。悪いことだろうか?
私はそう思わない。一昔も二昔も前の舶来信仰の強い時代に、欧米文化のほうが進んでいると勘違いした方々が叫んでいるだけだ。下の名前を呼び合う夫婦だけが仲良しなのでは絶対ない。自らの管理下(支配下? )に置く男を主人と呼び、他所でその男を指し示すために自分も名乗っている苗字を遣うのがこの国、「ファーストネームを呼んでくれ」と言うのが親しみを表す国とは違う。その国はそれでちっとも構わないけれど、違いを認めるところから歩き出さないと前には進めない。
現状を否定する前に、他の国や地方や人と比較する前に、もう一度自分の顔と頭の角度を変えてみれば、鏡の中の泣き顔や怒った顔が笑顔に見えるかもしれない。笑うまではいかないとしても、安寧は得られるのではないだろうか。

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